側溝
島本 葉
心の天秤
運ばれてきたコーヒーが湛えた真っ黒な水面を見て、ふと今朝のことを思い返していた。
「落としましたよ」
視界の端で何かが落下するのが見えて思わず口にしたのだけれど、次の瞬間には後悔していた。私の声で急ブレーキをかけるように立ち止まった背広姿の男性の手には加熱式たばこが握られていて、地面に転がっているのは案の定その吸い殻だった。なるほど、私はこの男性が捨てたものをご丁寧にも指摘してしまったというわけだ。男はバツが悪そうにしているものの、一向に拾う素振りは見せなかった。どうやら彼の中の何かが、捨てた吸い殻を拾うのを邪魔するらしい。
「
悪いことを指摘されても行動しないこの男のへの苛立ちなのか、自分の方に正当性があることへの優越なのか。驚いたことに私が発した言葉の調子は明らかな攻撃性を持っていた。
「──チッ!」
男はわざとらしく舌打ちを立てて吸い殻をつまむと、ひと睨みをくれてから歩み去っていった。もやもやした気持ちと自己嫌悪でその後姿を視線で追う。彼は周りを気にするようにしながら、再び吸い殻を道端の側溝へと投げ捨て、私の心に更なる影を落とした。
あの男もポイ捨てが社会的に悪いことだとはわかっているだろうに、なにがそこまで彼を突き動かしたのか。捨てたこと、すぐに拾わなかったこと、拾ってまた捨てたこと。彼の胸の内の天秤に何を乗せてやれば他方に傾いたのだろう? どんなきっかけがあれば?
そもそも二度目の(乱暴な)声掛けをしなければ彼は結局拾っていたかもしれない。それなら再び捨てはしなかっただろう。あるいは誰かが彼に携帯灰皿でもプレゼントしていて、ポイ捨てに忌避感があれば。いや、もっと単純に、朝食が好きなおかずだったとか電車で座ることができたとか、そんな些細なことなのかもしれない──。
「待たせたね。行こうか」
そこで待ち人が来た。わざわざ時間をずらして会社を出てきた彼は、慣れた手つきでテーブルの伝票を取るとレジへと向かう。その手には指輪はない。彼は会社の外で私と会う時はいつも指輪を外している。この
差し出されたごつごつした手に指を絡ませながら、私は側溝の暗がりに横たわる真っ白な吸い殻を思い浮かべていた。
了
側溝 島本 葉 @shimapon
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