第9話 運命の歯車
頭が痛い。喉が痛い。なんというか、身体中が痛い。
だが、嬉しい痛みだった。
俺がようやく、霞の心からの願いを叶えられた証だったから。
遥の代わりに、抱かせて欲しい――そんな、大きくて言いづらかっただろう願いを。
思い返せば、兆候は至る所にあった。好きな人という話題で狼狽えたこと。その辺を境に体調を徐々に崩していたこと。
――その直前、遥とのセックスがお預けになっていたこと。
原因はよく分からないけれど、きっと遥との関係がいわゆるご無沙汰になってきてしまったのだろう。性欲の強い男性にとって、当然それは大きなストレスになる。普段下のはずの霞が俺に抱かれることを求めなかったのは気にかかったが、偶には抱く方もしてみたかった、とか、理由は色々と考えられる。
ならば俺の答えは、一つしかなかった。満足のいくまで霞に抱かれ、彼の性欲と心を少しでも満たすこと。遥にどう報告するかは考えものだが、どうやらそういう不満らしいですよ、と濁して伝えれば充分だろうか。
――その代償がこれならば、軽いくらいだ。
自室の硬い布団で寝返りを打ち、俺はスポーツドリンクを手に取る。病院に行った帰り道、自力で購入したものだ。緩慢に何口か喉に通してから、つっつくのは霞が残したパイナップル。程よい甘さが喉を潤して、確かに存外悪くない。
今日の一限は無論欠席。明日以降のことはその時の体調で考えよう。痛む腰を擦りながらもう一度横になろうとしたその時――俺の部屋のインターフォンが、高らかに鳴り響いた。
「ん……? 誰だ、こんな時に……」
特に通販を頼んだ記憶はないから、セールスだろうか。ならば居留守を決め込もう――と再び布団に潜る俺だったが、セールスはそう簡単に収まらなかった。
――インターフォンの、連打が始まったのだ。
「なんだこれ、拷問か……!?」
仕方なく俺は飛び起きた。立ちくらみに足元がぐらついたが何とかこらえ、玄関へと歩いていく。文句の一つや二つ言ってからおかえり願おうと、決意を胸に扉を開いた、その瞬間。
「良かった、居た……!!」
「…………へ?」
――俺の決意は、ボロボロに打ち砕かれた。
「具合はどう? 辛いよね? とりあえず色々買ってきたから、入れてくれる?」
「……」
「ああ、ここまでは車で来たよ。駐車場は……多分大丈夫だから!」
「…………」
――もう、何も考えられない。俺は頭を真っ白にして、目の前の推しを自室へと招き入れた。
もしかすると、俺は夢の中なのかもしれない。
普通に考えて、アイドルをしている俺の推しが、防犯性能皆無のボロアパートに居るはずはない。現実逃避のあまりそんな思考に至る俺だが、夢の中の推しは動きを止めない。
「熱はどう?」
「それなり……」
「冷えピタ、どうぞ。それからご飯は……パイナップルは食べてるみたいだけど、それじゃ足りないだろ? もう少し入りそう?」
「多分……」
「分かった、お粥を買ってきたから食べよう。電子レンジ借りるね」
手元のレジ袋に視線を送る。まさか、そのマスクと伊達眼鏡だけで近くのコンビニに行ってきたのか……? と信じられない想いで彼を見るが、本人は全く気にしていない様子で生活感たっぷりの俺の部屋を使いこなしていた。
温められたお粥が俺に差し出される。いつかを彷彿とさせる「あーん」を問答無用で受けながら、俺はお粥を半分ほど減らして口を閉じた。
「結構食べられたね。偉いよ、井上くん」
俺の頭を優しく撫でるその手に、情けなくも甘えて。飲み込みきれない状況をどう消化したらいいのか分からないまま霞の顔を見れば、ちょうど彼もこちらを見ていた。
「……あのね、井上くん。頭はちゃんと働いている? 僕が話すことを、理解出来そう?」
「……余程難しいことじゃなければ」
「そっか。あのね、井上くん……僕が今日ここに来たのは、君に伝えたいことがあったからなんだ」
枕の角度を調節し、
「……なんだ?」
「あのね。……えっと、ね」
いざ話を聞く姿勢になれば、彼は何を躊躇っているのか、視線をあっちこっちへ彷徨わせる。わざわざ追求する立場でもないため、大人しく待ち続ける俺。
そのうち何かを決心したのかゆっくりと息を吐いた霞は――改めて、俺の方を見た。
「……僕は……君を、遥の代わりにしたんじゃない」
「……」
「君を抱きたかった。それは本当だ。でも、その理由は……」
――君の事が、好きだからだ。
「…………へ……」
――――好き?
好きって、どの好き? その、好き?
「恋愛の意味で。君のことが、好きだ。君がもし異性愛者なら、気持ち悪いことを言ってしまっていることを謝罪するよ……でも、伝えなきゃいけないと思ったから」
そもそも俺が好きになったのは、最初から最後まで霞だけで。
それまではノンケだと思い込んでいたから、実はゲイだったのか? なんて年相応に悩んでみたりもして。
でも明らかに叶わない恋だと、端から諦めて――ずっとしまい込んできた、想い。
「君を誤解させるような言い回しをしてしまったのは僕だ。体の関係を先に求めて、有耶無耶にしてしまったのも僕だ。全部全部謝るよ。だから、どうか……僕のこの気持ちを信じて欲しい。それでどうか真剣に、……考えて欲しい」
「…………」
――いい、のか?
叶ってしまっていいのか、こんなことが。
簡単では、ないだろう。かたや恋人持ちのアイドル、かたやそのマネージャー。万が一にでも表沙汰になれば、遥を含めてみんなどうなってしまうか分からない複雑な関係。
それでも――そうだとしても。諦めたくない、このチャンスを逃したくないと、俺の魂が必死になって訴える。
「……おれ、も」
「うん」
「おれも……好きだ」
――伝えてしまった、その言葉。
「それなら……!」
目を一気に輝かせる、霞の笑顔が眩しくて。あぁ、今日も俺の推しは美しいなんて、現実と隔離された思考の片隅で考えながら――俺はそっと、霞の手を握った。
「どうか……よろしくお願いします」
遥には、なんて伝えよう。これから、どうしたらいいだろう――色々な不安が一気に襲い来る中で、その全てを拭い去るような衝動が、俺を包み込む。
「誠……!!」
ぎゅうっと、俺を強く抱きしめる心地よい温もり。火照った身体にはちょうど良い体温にそっと擦り寄り、俺は静かに瞼を下ろした。
それは、俺の運命の歯車が、ゆっくりと回転を始めた日。
コンコンと響く咳が少しも寂しくない、初めての一日だった。
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