第6話 涙の理由は

 俺はその日、四限の講義を欠席して事務所へと駆けつけた。社用車にすぐさま乗り込み、向かうはレッスンスタジオ。

 マネージャー――そういえば、名をみのるという――が言うには、ダンスレッスン中の霞の様子がおかしいことに遥が気が付き、身体に触れると尋常ならざる熱があったという。幸いなことに霞は半日オフだが、遥は別の仕事があるため人手が足りなくなった、ということだった。

 いわば緊急事態。普段から出席は丁寧にしているため、この程度の一欠は成績にも響かない。流石にいつもよりは少し荒い運転でスタジオに向かう途中、再び端末が鳴り響いた。


「はい!」

『実です! 今どこですか?』

「事務所を出てスタジオに向かってます!」

『本当にありがとうございます……! 霞くんは今、休憩室で寝かせてあります。私と遥くんはもう行かないといけないので、お願いできますか?』

「任せてください!」


 短い通話を終わらせ、急加速でスタジオを目指す。いつもは十分じゅっぷんの道のりだが、急いだおかげか五分で到着し、すぐさま階段を駆け上がった。


「霞!」


 勢いよく開いた扉の向こうには――ベッドで気だるげに座っている、霞の姿があった。


「……井上くん? 来てくれたんだね」

「なんで起き上がってるんだよ、寝てろって!」

「大丈夫だよ、大袈裟だな」

「だってすごい熱だって!」


 大慌てで霞の傍まで駆け寄った俺は、その前髪を掻き分けて自分の額と重ねた。

 途端に、じゅわりと広がるような高熱。三十九度はあってもおかしくない。


「ほら、こんなに熱い……車には乗れそうか? 俺が送っていくから」

「……ん……う、うん」


 額を離しそう問いかけると、霞の顔はますます赤くなったような気がして。まさか体調が悪化したのか? と焦る俺はきょろきょろと辺りを見回し、実が置いたのだろうミネラルウォーターを手に取ってそっと差し出した。


「水飲んで落ち着いたら、行こう。抱いていこうか?」

「歩けるって、大丈夫。本当に、心配しすぎだから」

「でも……!」


 霞の顔の赤さは引かないし、呼吸もどことなく苦しげだ。この大丈夫という言葉はほとんど痩せ我慢なのだろう。俺の前じゃ弱さを見せられないのも当然か――と、遥との差を突きつけられ複雑な気持ちになるけれど、今は俺でも出来ることをして霞を回復へと導かねばならない。

 緩慢にペットボトルへ口付けた霞の喉仏がゆっくりと動く。数口飲んで離されたペットボトルを素早く受け取った俺は、汗ばむ霞の手をそっと取った。


「ゆっくりでいいからな」

「うん……大丈夫だよ、一人で歩ける」

「ふらついて階段から落ちたら大変だろ」


 霞のペースに合わせ共に階段を降りた俺は、あらかじめ開いておいた後部座席に霞を誘導した。無事に座ったのを確認するとシートベルトを閉めてやり、すぐに運転席へと移動する。


「吐き気はないか?」

「大丈夫」

「安全運転で、でも出来るだけ早く帰してやるからな」

「うん……ありがとう」


 そんな短いやり取りを最後に、俺は運転へと集中する。車線変更を的確に行い、少しでも早い到着を目指して車を走らせる。

 運転の最中、バックミラー越しの霞が、ふらりとこちらを向いた。


「……今日は、大学だったんじゃないの……?」

「今日はオフだよ、どうせ暇してたんだ」

「……そっか」


 それなら、いいんだ。そう短く告げた霞が口を閉じたのを最後に、俺はアクセルを深く踏み込んだ。




「霞」

「うん」

「何が欲しい? 霞」

「大丈夫だから、落ち着いて……井上くん」


 結城宅、寝室内。彼を無事に送り届けた俺は、もちろん帰ることなど出来ずに彼を見守っていた。何かしてやりたいのに、一人っ子で看病の経験などからっきしの俺は何をしたらいいのか分からない。


「俺に出来ることならなんでもする。だから教えてくれ、霞」


 だから俺は、本人にそう訴えかけた。乱れた吐息を零す彼に指示を出させるなんて辛いことかもしれないけれど、それ以外の道はなかったのだ。しかし、それを聞いた霞は――表情を僅かに、曇らせたように見えた。


「……でよ」

「……え?」




「なんでも、なんて……そんな簡単に言わないで」




 ぴしゃりと、冷たい沈黙が寝室を支配した。


 俺――俺の発言が、霞を怒らせた?

 ――どうして?

 なんでもするって、本心なのに。簡単な気持ちで言ったつもりなんかなかったのに。

 困惑で頭の中がいっぱいになる俺が目にしたのは、更なる衝撃の光景だった。


「おねがい、だから……」

「かすみ……?」


 きらきらと目元から滴り落ちていく雫は、高級そうなシーツに吸い込まれていく。

 俺は呆然とそれを見ていることしか出来なかった。


 分からなかったからだ。


 彼が涙を流す、その、理由わけが――。


「……でてって」

「え……」

「今は、ひとりになりたい……おねがいだから、出ていって」


 ――抱きしめたかった。どうして泣くんだ、俺じゃどうしようもない理由なのか――そう問いかけながら包み込むように抱いて、そっと背中を撫でてやりたかった。

 しかし、彼本人がそれを拒絶している。今の俺には、この部屋から出ていくことしか出来ない。


「……わかった」


 そろりとベッドサイドから立ち上がり、俺は小さく頷いた。彼の端末を取り枕元に置いてやると、自分の職員用端末をそっと見せて微笑みかける。


「俺、近くにいるから。喉乾いたでもトイレでも、なんでもいいから、何かあれば連絡しろよ」

「……」


 俺に背を向け、布団を被った霞は、小さく首を縦に振る。俺はそれだけしっかりと見届けてから、静かに寝室を後にした。


 広々としたリビングに残されたのは――底知れぬ、絶望感。


「俺……嫌われた……?」


 何がいけなかったのだろう。どうしたらよかったのだろう。壁にずるずると座り込み、端末を握りしめる。

 様々な可能性が俺の脳裏を過ぎった。嫌われる理由となり得る行動なんて無数にありすぎて、どれが正解なのか分からないくらいで。

 もしかしてマネージャー、クビになっちゃうのか……? 一度考え始めれば悪い想像は広がり、思考が黒く塗りつぶされていく。

 それをばっさりと遮ったのは――握りしめた端末の振動だった。


「かすみ、」


 通知をすぐさまタップするが、開かれたメッセージアプリは霞のものではなかった。個人的なやり取りは珍しい、遥からのメッセージ。


『急に悪い。霞の様子はどうだ。

 あいつ、俺に何か隠し事してるみたいだった。

 それで多分、ストレスを抱えてるんだと思う。

 俺には話せないみたいだから、良かったら井上から聞いてやってほしい。


 あと、アイツは風邪引いたとき、パイナップルの缶詰を食べたがるよ』


 有り難さと申し訳なさが共存するメッセージ。パイナップル情報を頭の奥へ焼き付けながら、同時に前半の文章を何度も読み返す。

 信頼してる筈の遥に対する隠し事を、まさに今嫌われてしまった俺に話してくれるはずがない。

 でも――しかし――脳内で逆説的な言葉が何度もこだまする。遥にそう頼まれたのならば、少しでも霞のためになることをしたい。そう願う俺の気持ちが、先ほどの霞の言葉に歯向かおうとする。


「……よし」


 結局俺を動かしたのは、単純な理屈だった。

 のなら、もうどんなに嫌われようと構わない。

 ならば今の俺にできる最大限で、霞に尽くそうではないか。


『霞、ちょっと買い物に行ってくる。すぐに戻るから、待っててくれ』


 霞宛のメッセージを送信した俺は、バタバタと部屋を後にする。

 目指すは、マンションの住人専用の敷地内コンビニだ。

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