第5話 推しの、好きな人
「……い、い、い、行きます」
「井上くん? なんだか緊張が前より酷くなってない……?」
「そんな状態で運転出来るのかよ……なんなら今アイツに代わってもらって」
「だ、大丈夫です! 安全運転を徹底するから!!」
オフから明けた早朝。朝の音楽番組に向かう二人を送迎するため、乗り込んだ社用車。
二回目の仕事の筈なのに、俺の緊張はピークに達していた。
理由は簡単だ。一昨日――正確には昨日かもしれないが、霞に晒してしまった痴態。
覚えていない、何も覚えていない。
だが、覚えていないことが一大事ということだけはよく分かる。
「井上くん? 僕は気にしてないからね?」
「ひゃいっ」
背後から飛んできた慰めに堪らず裏返る声。それに首を傾げたのは遥だった。
「あ? 何かあったのか」
「あぁ……一昨日の夜、部屋に招いてお酒を飲んだんだけどね、彼すっかり泥酔して寝ちゃったんだよ」
「若い奴だなぁ〜」
「こら、遥も人のことは言えないじゃないか」
「……」
いつも通りの平和なやりとり。俺は背中へ伝う汗を自覚しながらも、ゆっくりと発進する。
そうだ――寝ただけ。酔い潰れて寝ただけ。
ベッドは、恐れ多くも霞と同じだったけれど。服もちゃんと着ていたし、霞の様子に変化はなかったし。
それなら、この腰の違和感は――なんだ?
昨日丸一日休んでも、それはなかなか引かなかった。何かがお腹の奥でつっかえているような、言葉にならない違和感。当然中に何かが入っている訳ではないし、何かを入れた記憶もない。記憶がないだけで、実は何かを入れている――という可能性もゼロではないが、まさかあの霞がそんなことをする訳がない。
なんていったって、この俺だ。ただの一ファン、女の子ならまだしも性的な魅力など欠片もないただの男。そもそも霞は上下で表現するところのいわゆる下らしいし、俺を抱くなどもっての
「井上くん、赤、赤だよ!」
「どわっ!」
そんなことを考えていたら赤信号に突っ込みかけ、俺は慌てて急ブレーキを踏んだ。「安全運転はどうしたんだよ」という遥の呟きに居た堪れなさを覚えつつ、「すみません!」と素早く謝罪する。
駄目だ、今俺は大事な業務の真っ最中。こういう私情は後に回さなければならない。
――バシバシと頬を叩き正面に向き直った俺を、霞がミラー越しに見つめていたことに、
音楽番組の撮影は順調に行われた。持ち前の歌唱力は生歌でも衰えることなく、眠たげな撮影スタッフ達をも熱狂に巻き込むそのパフォーマンスは圧巻の一言だろう。こんな二人のマネージャーを務められている事実に改めて内心感謝を述べているうちに、スタジオへ移動した二人のトークが始まる。
『ありがとうございました!』
「いやぁ素晴らしい歌声をありがとうございました! Yも大盛り上がりですね」
「本当ですか? ありがとうございます、みなさん!」
「俺たちの歌声をエネルギーに、仕事や学校、頑張れよ」
大手SNS、Yのトレンドは二人のワードで埋め尽くされている。端末で関連タグを確認しながら、俺は彼らのトークに耳を傾けた。
「さてさて、歌を聞くだけでは惜しい! ということで、Spring Sunsetのお二人にはこのままスタジオトークに加わってもらおうと思います」
「よろしくお願いしますね」
「チャンネルは最後までそのままでな」
「誰が変えられるものですか! ではでは、最初の質問コーナー行ってみましょう!」
――緊張の瞬間だ。この番組の質問コーナーは、Yと連動し寄せられた質問を出演者がピックアップして投げかけていくというもの。二人が付き合っている事実は非公認のため、下手に突っ込んだ質問が飛んできた時は俺の判断で事務所NGをかけなければならない。
「朝の日課? そうですね、僕はシャワーを浴びます。さっぱりするとお仕事への気合いも入るっていうか」
「俺はギリギリまで寝るから特に無い」
「遥、君の寝坊癖はそろそろ直したほうがいいよ?」
「ちゃんと間に合ってるんだからいいだろ」
今のところ、順調だ。共演者も空気を読んでくれているのか、当たり障りのない質問を投げかけてくれている。このまま無事に終われば――と端末に視線を向けたその時。
「ズバリ聞いちゃいますか!『好きな人はいますか』!?」
――この質問は、マズイか? ハッと顔を上げて二人の方を見れば、最初にカラカラと笑ったのは遥だった。
「ははは、んなもんファンのみんなに決まってるだろ? なぁ霞」
良かった、普通に交わしたか――そう安堵と共に霞へ視線を向けた俺は、ある違和感を覚えた。
――俺と、目が合った?
「……あっ」
霞のそんな吐息をマイクが拾う。俺がぽかんとしたその間にも、カメラは霞を映している。
「おーい、霞? 何ボーッとしてんだ?」
「へ? あ、ご、ごめんなさい! 急な質問にびっくりしちゃって!」
「霞くん、顔真っ赤じゃない! 可愛いねぇ~」
「好きな人聞かれた程度で照れてるんじゃねぇよ」
「う、うるさいな! 遥!」
いつもはどちらかというと涼し気なことの多い霞の赤面顔に、連動タグは急激な盛り上がりを見せる。別モニターでそれを呆然と眺めながら、俺はぺたぺたと己の顔を触った。
――あれは確かに、俺を見ていた――よな。背後を振り返ってみたが、特に他の人が立っているわけでもない。カンペを出しているわけでもなかった俺を、あのタイミングでどうして霞は見たのだろう。
好きな人を聞かれて、咄嗟に俺を見る。それでは、まるで――。
――俺の事を好きだと言っているみたいで。
「……そ、そんな訳あるか……!」
小声で自分に言い聞かせ、俺はぶんぶんと首を振った。霞に惚れるあまり都合の良い幻想を抱いてしまった自分を内心叱責しながら、俺は意識を番組へ向けなおす。
その後は霞も調子を取り戻し、残りの質問を難なく交わして――朝の音楽番組出演は、無事に終わりを告げた。
「……霞」
「なに」
「お前なんだよ、さっきのは」
「……うるさいな」
無事――だったはずなのだが。
新曲のレッスンのためスタジオへ向かう車の中は、どことなく険悪だった。
「好きな人なんて何度も聞かれてきただろ? 一々動揺して、俺たちの関係がバレでもしたらどうするんだよ」
「そんなミスはしないから、安心して。……今日はちょっと本調子じゃなかっただけ」
「え、えっと……具合が悪いとか……?」
その空気感に耐えられずおずおずとそう問いかければ、固まっていた霞の表情が僅かに緩む。
「ううん。ただ、昨晩は嫌な夢を見てね。少し心が不安定だったんだ」
「……そういうのは先に言え。俺が出来ることならなんでもしてやるから」
「うん……ごめんね、遥」
そっか、そういう事だったのか――そう腑に落ちる反面、俺が抱いた幻想が文字通り幻想だったことを叩きつけられ、胸がちくりと痛む。バックミラー越しに霞の頬を撫でる遥の手が見え、俺は意識を逸らすように正面へ向き直った。
俺のマネージャー業は、紆余曲折ありながらも順調に進んでいった。
学業との両立にはじめは手こずり、レポートの締め切りを忘れていて徹夜をした日なんかもあったが、数ヶ月が過ぎる頃には落ち着いてきていた。
そうしてある日、マネージャー業が無く大学のみという俺の中では珍しい一日の最中。四限の講義に向かう途中で鳴り響いたのは、会社用の端末だった。
「はい?」
俺が休みの日に端末が鳴るのはとても珍しい。何事かとワンコールも待たずに応答した俺は、そこで聞かされた話に目を見開いた。
「か……風邪を引いた!?」
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