幽幻の遺志(仮題)

羽山涼

第1話

 すべての人間には『守護霊』が憑いている。彼らは人間には基本的に見えないが、あらゆる力で守ったり導いたりと、少し生きやすいように手を貸してくれている。たとえば選択に迷った時、人間は「神様の言う通り」と指をさすことがあるが、これは守護霊が選ぶのを手伝っていることが多い。より良い方に、というのは守護霊が思う良い方であるため、人間にとって必ずしも良いこととは限らない。だが、守護霊は間違いなく人間を助けようと動いている。それを人間たちは知らない。知っているのは、『見える』人間だけだった。

 稀に守護霊がいない人間がいる。たとえば、神代雫。四月から京都の大学に入学するため、東京から引っ越して来た少女だ。雫は幼い頃から霊が『見える』体質だった。霊を霊だと思わずに話しかけていた幼少期、変な子だと噂され、友達はできなかった。中学デビューだ、と思っても、高校デビューだ、と思ってもなかなか周囲の人間とも背後の守護霊とも仲良くなれず、いっそ離れようと知らない土地にやってきた。既に友達を作ることも諦めていたため、せめて霊と話をしても後ろ指さされなさそうな土地で、と思って京都に来た。

 京都は好きだ。東京もいろいろな霊がいたが、京都も負けていない。例えば――

「おやおや? お嬢ちゃん、『後ろ』に誰もいないのかい? それは大変だ。俺が憑いてあげるよ」

 腰に刀を差した和装の男が声をかけてきた。もちろん幽霊である。雫は聞こえていないふりをして通り過ぎた。男は後をついてくる。雫は溜め息をついた。こうやって、頼んでもいないのに守護霊になってあげるだのという善意のような悪意のようなものに、何度遭ったか数えるのはやめて久しい。動物だったり人間だったり、はたまたどちらでもなかったり、守護霊というのも様々なのだが、人間に選ぶ権利はない。生まれた時に自然と引き寄せられて出会うのである。その人の先祖だという場合が多いように雫は思っている。ともあれ、根無し草の霊というのもたくさんいるもので、何を思ってか雫を見つけ、珍しがってついてくることが多い。肩が重いと思えば動物霊が乗っていたり、雫は守護霊がいないせいで何かと憑かれやすい。この幽霊もどうやって撒こうかと思い、道の角を曲がるなり、雫は走り出した。

「あっ! おまえ、『見える』奴だな!? 待ちやがれ!」

「迷惑なんですけど!」

 雫は走りながら叫ぶ。とはいえ、特別体育会系でもない雫と幽霊、どちらの足が速いかといえば、もちろん幽霊であって。追いつかれる――そう思った時だった。

「ぐえっ!」

「え?」

 蛙が潰れたような声が聞こえて、雫は足を止めて振り返った。男が誰かに背後から踏み潰されたようだ。

「やめなよ。迷惑みたいだし、あんたみたいなのに背後に憑かれたら、いつ斬られるかわかったもんじゃないし」

 踏みつけている方の青年が言った。

「ぐ、ぐう……! だ、誰だてめえは……!」

 男が顔を上げる。そうして、その青年の着ている浅葱色の羽織を見て、顔を青くした。

「お、おまえ! その羽織! 新選組の――」

 青年は素早く腰の刀を抜くと、男の前に突き付けた。

「話が早いな。この子を諦めるのと、今ここで成仏するの、どっちがいい?」

「ヒッ……!」

 男は青年の足の下から這い出ると、慌てて逃げ去って行った。

 その様を、ぽかんとした顔で雫は見ていた。青年は刀を鞘に納める。

「大丈夫?」

「あ、はい、どうも……ええと、新選組の……」

 そこまで言うと、青年は愛想の良い顔で笑った。

「沖田総司。よろしく」

 雫は息を飲む。沖田総司。新選組の話を少しでも知っていれば聞いたことのある有名人だ。

「あ、あなたのような有名な霊に会うのは初めてです……」

「僕も、僕が見える上に話せる人に会ったのは初めてだよ。名前聞いてもいい?」

 沖田が気楽に聞いて来る。

「神代雫です。でも、どうして幽霊に? 何か未練でもあるんですか?」

 沖田総司の過去についても、新選組についても雫は詳しくない。だが、幽霊になる人には一定の理解をしていた。現世に何か残してしまった、未練がある人。強い思いがある人。何か思い残したことがあるから、人は死後に幽霊になる。誰かの守護霊になったり、彷徨い続ける浮遊霊になったりする。

 沖田は笑みを収めてこう言った。

「今会ったばかりの君に頼むのは気が引けるんだけど……僕に協力してくれないかな。霊と話ができる君にしか頼めないんだ」

 あまりにも真剣な表情で言うので、雫は頷く。きっと思い残した何かについてだろうと雫は思う。

沖田が雫をある場所へと導いた。

「三条大橋?」

 橋の横にあるコーヒーショップの前に立ち、雫は首を傾げた。日本人も外国人も観光客が多く、雫の独り言は誰の耳にも入らない。沖田と共に鴨川の方に降りる。

「昔、この辺りは三条河原って呼ばれる刑場でね。処刑や処刑後の晒し首が行われていたんだ」

「へえ……」

 橙色に染まりつつある河川敷に等間隔にカップルが並んでいるのを見ながら、雫は頬を引きつらせた。何度か京都には来ているが、ここが処刑場だったなんて考えたこともなかった。

「それで、ここに来たってことは、誰かがここで処刑された?」

 沖田は力なく首を振る。

「処刑されたのは江戸……東京の板橋刑場なんだけど。ここに首だけ運ばれて晒し首にされたらしいんだ」

 沖田が雫の方に向き直り、真剣な表情で言った。

「神代さん。お願いがある。僕と一緒に、あの人の首を……近藤さんの首を探して欲しい」

 近藤さん、と雫は繰り返す。沖田が言う近藤が、局長の近藤勇であることを理解したからだ。だが、沖田総司が病で死んだ以外の新選組のことはほとんど知らない。近藤の首、というからには首を斬られたのだろうと予想する。

「ええと……私、新選組については詳しくなくて……どういうことか聞いてもいいですか?」

「そうだね……まず、新選組ってどういう組織っていう理解?」

「京で悪い人たちを取り締まる……集団……?」

「あはは、集団ね。最初は会津藩配下の組織で、その後幕臣に取り立てられてるんだよ」

「幕臣? 徳川幕府配下の組織だったんですか? 知らなかった……」

 沖田が笑って、話し出した。

 慶応三年。夏に新選組が幕臣に取り立てられてわずか半年足らずのことだった。坂本龍馬主導の大政奉還で穏やかに政権が朝廷に戻った。だが、数百年もの間政治を行ってこなかった朝廷は急に政治を行えと言われてもできやしない。徳川家主導の今まで通りが続くと皆がそう思った。そして、それを武力で討幕をしたかった薩摩藩と長州藩は許さなかった。その後、王政復古の大号令が発布。将軍と幕府の廃止などが薩摩と長州の手引きで決まり、新政府へと移行することとなった。反発する徳川幕府軍と、薩摩・長州合同軍が京に集い、両者の睨み合いが始まった。慶応四年一月に鳥羽での発砲をきっかけに鳥羽伏見の戦いが始まる。近藤は鳥羽伏見の戦いが始まる前に狙撃されて怪我を負っており、病で臥せっていた沖田と共に大坂城にいたため、戦いは聞いた話でしかないと沖田は付け加えた。鳥羽伏見の戦いの最中、薩長軍が朝廷軍の証である錦の御旗を掲げたことで、幕府軍は賊軍になった。官軍相手に戦う気はないと戦意喪失する兵が多く、幕府軍は瓦解。新選組が大坂城まで撤退した時には、総大将の徳川慶喜は既に江戸へと帰還してしまっていた。

「それでも戦い続けたんですか? 幕府軍は賊軍になって、幕府自体も崩壊してしまったんでしょう?」

 官軍と賊軍についてはわかる。朝廷、天皇の支持を得たのが官軍。賊軍は朝廷の敵だ。総大将も逃げてしまっていたのなら、幕府軍の士気も上がることはなかっただろう。

「うん。幕府の偉い人たちは、まだ戦い続ける新選組を厄介に思ってたみたいだけど」

 沖田は少し考えて、こう言った。

「きっと、もう幕府とかそういうの関係なかったんだよ」

 雫は首を傾げた。どういうことだろう。幕府の関係者で、幕府はなくなってしまって、偉い人たちにも厄介者扱いされて。それでも、彼らが戦い続けた理由がわからない。沖田はそれ以上何も言わなかった。

「そして、近藤さんを囮にして、土方さんは一人で北に逃げた。箱館で死んだらしいけど」

 皮肉を込めて笑ってから、溜め息を吐く。

「囮って……」

「知らない? 鳥羽伏見の戦いで負けて、大坂でも慶喜公が逃げちゃって戦えなくて、江戸に戻らざるを得なくて。幕府には甲府に戦いに行けって言われたけど、圧倒的な負け戦。それから会津の方に行こうってなって、途中の流山にいた時に新政府軍に囲まれて。近藤さんは新政府軍に投降した。一人でね。土方さんもその場にいたはずなんだ」

 沖田は言葉を探しているようだった。少し間を開けて続ける。

「……土方さんは、試衛館にいた頃も新選組が大変な時も、いつだってその頭脳を持って切り抜けてきた。なのに、近藤さんは囮にせざるを得なかった。……一体、どんな気持ちだったんだろうね」

「……」

 試衛館について、今は聞く時ではなさそうだと雫は思う。黙って話を促す。

「結局、近藤さんは板橋に連行される。土方さんは近藤さんの助命嘆願書を集めて回ったけど、結局それも意味はなくて、近藤さんは板橋刑場で斬首される。武士としてじゃなく、罪人として処刑された」

「武士としてじゃなく?」

 雫が問うと、沖田は隣に目を向ける。

「切腹って知らない? 武士の責任の取り方なんだけど」

「あ、知ってます。武士の処刑は切腹、ってことですか?」

「処刑ではないんだけど。切腹ってね、名誉は保証されてるんだよ。『切腹を許す』って言って、ちゃんと場を整える。切腹は名誉の死なんだ」

「名誉の死……」

 雫が呟く。死に何の違いがあるのかわからなかった。

「でも」

 沖田が拳を握った。

「でも! 近藤さんはそうじゃなかった! 刑場で! 罪人と同じように首を落とされた! その首も、ここに罪人として晒された! どうして!? 僕たちが京でやってきたことは何だったんだ!?」

 声を震わせる。隣の表情もほとんど見えない程に辺りは暗く、今沖田がどんな顔をしているかはわからなかった。名誉の死ではない。死の違いはわからないけれど、きっと、武士にとってはよくない死に方なのだろうと雫は理解した。だって、沖田が泣きそうな声で叫んでいる。それは、彼ら新選組にとってはとても悔しく、やりきれない気持ちが残るものだったのだろう。

しばしの沈黙。

「……近藤さんの首は、誰かが持ち去ってしまったらしい」

 沖田が呟く。

「探して、どうするんですか?」

 雫が問いかけた。

「……ちゃんと、供養してほしい。それに、見つけられたら、僕も成仏できる気がする」

「それが、沖田さんの未練ですか?」

「そう」

 沖田が力なく笑った。

「沖田総司はね、近藤勇と一緒じゃないとだめなんだ」

 その言葉の意味はわからなかった。ただ、沖田にとって近藤はとても大切な者なのだということは理解できた。大切な人を失う気持ちも焦がれる気持ちも、わかる。雫は唸った。

「はいわかりました、って言いたいんですけど……私も学校あるし、時間かかると思いますよ」

「気長にやるよ。ここまで何年探したかわからないし。それに、僕が君に出会えたのは運命か何かな気がするんだ」

「運命かあ……」

 渋い顔をする雫の手を沖田が握った。

「ねえ、君、守護霊いないんだよね? 困ってるよね? 君が協力してくれてる間、僕が君の守護霊になるよ」

「えっ」

 雫は目を見開いた。沖田総司が守護霊に? それはあまりに霊として強すぎるし、変な霊に憑かれることもなさそうだし、願ってもない提案なのだが。

「……いいんですか?」

「武士に二言はないよ。僕が君を守ってあげる」

 沖田がにこりと笑う。懸念は、ある。だが、それが沖田に当てはまるかは疑問だった。雫はしばし考えて、頷いた。

「わかりました。よろしくお願いします、沖田さん」

「総司でいいよ。よろしくね、雫ちゃん」

 きっとすぐに終わる関係。近藤の首の場所だって、史料があるに違いない。ここは京都、新選組が活動した土地だ。何も残っていないはずがない。雫はそう楽観的に考えていた。


 ***


 アラームが鳴っている気がする。布団に潜ったまま手を伸ばし、スマートフォンをようやく探し当てる。時間を見る。

「ゲッ」

 スヌーズが機能していたらしく、起床予定時間はとうに超えていた。

「なんで起こしてくれないんですか、総司さん!」

「うるさいなあとは思ってたよ」

「だから、起こして!」

 バタバタと朝の支度をしようとする様を沖田はつまらなさそうに見ていた。着替えるから出て行けとキッチンに追い出して、手早く着替えを済ませる。朝食は諦めた。化粧を後ろから覗き込まれながらいつもより簡単に終わらせて、バッグを持って家を出る。

「女の子の朝って慌ただしいね」

 怒る気力も無駄だ。初日の授業に遅刻したくないという気持ちしかなかった。

 地下鉄の乗り換えがうまく行き、学校には授業開始五分前に到着した。

「間に合った……!」

 喜んで講義室の扉を開ける。室内がどよめいた。

「新選組……!?」

「沖田だ!」

「新選組の沖田総司だ!」

「新選組ってなに?」

 そんな声が飛んでくる。もちろん、人間たちの声ではない。彼らの守護霊たちの動揺の声だった。そういえばこの人は自分の守護霊なんだった、と雫は隣を見る。沖田はふうんという顔で守護霊たちを見回した。

「僕より弱そう」

「あなたより強い人間霊はそうそういないと思います」

 小声で返して、雫は一番前の隅の席に座った。同時に授業開始のチャイムが鳴る。


 午前の授業が終わって、雫は食堂に向かう。

「君が勉強してた内容、何もわからなかった……」

 沖田が難しい顔をして言った。

「情報科だし、わからないと思いますよ。コンピューターは0と1で命令できるとか言ってもわからないでしょ?」

「なんて?」

 食堂でまたどよめいたのを無視して、日替わりランチを素早く食べ、コーヒーを飲みながらスマートフォンを取り出した。

「何してるの?」

「近藤さんについて調べてます」

「その四角いやつ、みんな持ってるよね。それ何なの?」

「スマホっていいます」

「すまほ」

 近藤の首の所在について調べる。昨日は遅くまで沖田と話し込んでしまい、調べるのは今日からとしていた。

 どうやら、慶応四年の閏四月八日から十日の朝まで三条河原で晒し首になっていた。そして、誰かが持ち去って行方知れず、ということらしい。閏四月とは何だと思えば、明治に入って少し経つまでは太陰暦だったため、数年に一度「閏月」というのが入るらしかった。二月二十九日みたいなものかと雫は思う。

「新選組の誰かが持ち去ったんじゃないんですか? ほら、斎藤一っていう人の説がありますよ」

 ワードを変えて検索をしながら雫が問う。うーん、と沖田が唸る。

「その頃って、斎藤君は既に会津にいたはずだから、京に戻ってる暇ないと思うんだけど」

「ええ……あ、本当だ。数日後には白河にいる。無理かなあ」

「無理だよ。江戸から京でも歩いて十日はかかるんだから」

「そうですか……」

 よくよく調べると、近藤勇は首だけではなく胴体もどこにあるかわかっていないという。首も胴体もどこに埋葬されているかは諸説ある、とどの記事も言っている。インターネット上にないということは、きっと本を調べても同じだろう。

「となると、足で調べるしかないか」

 コーヒーを飲み干して、雫は立ち上がる。もしかしたら、京に誰か新選組の幽霊がいるかもしれない。

「週末、京都歩きますよ。案内してくださいね」

「いいよ。どこに行く? 屯所とか? いくつかあるけど」

「ああ、いいですね。順番に周りましょう」

 週末から、雫は沖田と共に各所を回り出した。阪急電鉄京都本線大宮駅から歩いて、最初の屯所八木邸へと向かった。

「へえ、八木さんって今お菓子屋さんやってるんだ」

「めちゃめちゃ観光地じゃないですか」

 一方通行の狭い道路に面しているのに、観光客の多さに驚いた。自分は本当に新選組に興味がなかったんだな、と雫は思う。修学旅行でも新選組に関するものは男の子たちが好いていた記憶がある。観光客の守護霊たちが「沖田総司だぞ!」と人間たちに興奮して伝えるが、あいにくと伝わっている人間は誰一人としていなかった。守護霊たちの騒ぎにやや反応した数人がこちらを不思議そうに見るのを無視して、邸内で話が聞けるというので拝観券を買った。説明はガイドが行うようだ。新選組のことは知らないから参考になるだろうし、近藤の首の情報が何かあるかもしれない。玄関から靴を脱いで入る。ガイドの男性が時間になったのを確認して解説を始めた。

「この八木邸と隣の前川邸は、文久三年から数年間浪士組――後の新選組が宿所として使用していました」

 ファイルをめくりながらガイドが説明をする。

 ここでは新選組の最初の局長芹沢鴨の一派と、近藤が道場主であった試衛館という道場の出の近藤一派が共に生活をした。だが、芹沢の横暴なやり方に反旗を翻すことにした近藤一派は、土方を筆頭に数人で芹沢の暗殺を行った。

「僕が芹沢さんを殺したんだよ」

 物騒なことを言う沖田の方を、室内の守護霊が全員怯えた顔で振り返った。雫が肘で隣を小突く。

 芹沢暗殺時の刀傷があると、解説の後に鴨居の傷をガイドが指さした。たくさんの人が触れたのであろう、その場所は大きく楕円に抉れていたが、その中心に確かに刀でついたような傷がある。雫が無言で沖田を見ると、沖田がにこりと微笑んだ。……犯人がここにいる。

「芹沢さんあたりがいるかと思ったけど、案外いないもんだなあ」

 八木邸を出て、歩きながら沖田が言った。

「未練がここにはなかったんじゃないですか?」

「暗殺されたのに? それはそれで、なんだかむかつくな」

 沖田が口を尖らせた。

 不思議だな、と思う。沖田は恐らく二十を少し超えたくらいの年齢だ。幽霊は死んだときの年齢ではなく、全盛期の年齢であることも多い。少し子供っぽいところがある、至って普通の青年だと雫は思う。それなのに、この青年は人を殺している。たくさんの血を被っている。

「人を殺す時って、どんな気持ちなんですか?」

 何気なく、そう問いかけた。うーん、と沖田は少しだけ考える声をあげる。

「何か考えている暇があったことは、あまりないかな」

 引っかかる言い方をして、沖田は空を見上げた。

「僕たちって一応武士だったわけだけど、武士って死に近いんだよね。『武士道は死ぬことと見つけたり』なんて言った人もいたらしいけど、本当にそんな感じで。誰かを殺す時って、自分が死ぬかもしれないような状況のことが多いんだ。そんな時に、何考えてるかって言われたらさ」

 沖田が雫を見る。

「まだ死ねない――そうじゃない?」

 敵と対峙した時、何を考えるか。まだ死ねない。こんなところで自分は死ねない。そう、考えるのだろうか。

「まあ、全部近藤さんの受け売りなんだけどね」

 沖田が笑顔で言った。

「……よくわからないです。まだ死ねない、っていう感覚。ピンと来ないっていうか」

「じゃあ、雫ちゃんは何考えて生きてるの?」

 雫は答えられなかった。なんとなく、毎日を生きている。死にたいと思ったこともなければ、特別生きたいと思ったこともない。今日のような日が明日も続くと漠然と思っている。死後も、もしかしたら幽霊になって変わらない日々を過ごしているのかもしれないと、たくさんの幽霊を見てきて思う。何かを成そうだなんて思ってない。何者かになろうと思ったことはない。朝起きて、ご飯を食べて、学校で学び、風呂に入り、暖かい布団で眠る。そうして当たり前に明日が来る。そう思って生きている。

 雫が答えられないまま、二人は再び歩き出し、八木邸の隣に位置する壬生寺にやってきた。広い境内に鳩がたくさんいる。

「お堂の方に砂山を作って、ここから大砲を撃って練習したんだよ」

 沖田が話題を変えるようにケラケラと笑いながら言った。

「罰当たりな……」

 せめてお堂側から撃て、と雫は溜め息を零した。沖田の心遣いに感謝した。

 境内の脇に壬生塚というものを見つけた。拝観料を払って中に入ると、池の中に小島が浮かんでいた。赤い橋を渡って小島に向かう。

「あ、近藤さん……」

 沖田が呟いた。視線の方向に目を向けると、近藤の胸像があった。横には墓がいくつかあり、芹沢鴨たちの墓、その横に隊士七名の合祀墓があった。雫はしゃがみこんで手を合わせる。

「律儀だね」

「関わることになったので。お参りしないと」

 建物内に史料もいろいろとあったが、近藤の首にまつわるものはないようだった。

 壬生塚から出る頃には閉門の時間となっており、二人は外に出る。少し散歩しようと言う沖田と並んで、周囲の路地を散策した。何の変哲もない住宅地だ。昔はここに何があって、どんな子供が住んでいて、と沖田が昔話をするのを頷きながら聞いていた。

 日が沈んできて、少し寒気がした。雫が腕を擦る。

「……今日はこの辺にして帰りませんか?」

 沖田が頷く。

「そうだね。何も収穫はなかったけど、探し始めたばかり――」

 沖田の言葉は途中で止まった。急に日が暮れ、辺りは暗くなった。太陽が遠い。雫は息を飲んだ。沖田の袖を引く。

「走りましょう」

「雫ちゃん?」

「走りましょう! 『逢魔時』です!」

 駅の方角に向かって雫と沖田は走る。あれほどたくさんいた観光客は誰もいない。地面が揺れる。揺れが大きくなり、足がもつれ、雫は路地の途中でついに足を止めた。

 闇と赤が混じった空。長い影がいくつも歩いて来る。近付いてくる。雫の足は震えて動かない。

「これって……?」

 沖田が困惑して問う。

「この時間帯はよくないものが出やすいんですけど……今日は史跡を巡ったから……もっと早く帰ればよかった」

 大勢の幽霊がこちらに歩いて来る。形は判然としない。人のような、人ではないような、刀を持っているような、いないような。この辺りの地域に関係のある意識も形もはっきりとしない浮遊霊たちが、雫という特異の存在に気が付いたのだ。

「オオオオオオ」

「アアアアアア」

 低い声が響く。響く。地面が、空気が揺れる。

「ごめんなさい、帰らせてもらえないですか……?」

 雫が問う。幽霊たちは低い声で叫び続けている。回答はない。会話ができる霊ではない。雫は泣きそうになるのを堪えて、胸元を握りしめた。

「どうすればいい?」

「え……?」

 隣を見る。沖田が真剣な表情で幽霊たちを睨みつけていた。刀に手をかける。答えに詰まっていると沖田は雫を見て言った。

「斬っていいの? 駄目なの? どうすればいい?」

「!」

 今までと状況が違うのだと雫は思い出した。そうだ、怖い思いをして謝罪をして通り過ぎるのを待っていた今までとは違う。自分だけではない。隣には幕末最強の剣客・沖田総司がいる。ごくりと喉を鳴らし、雫は頷いた。

「――斬ってください!」

 沖田が地面を蹴る。風が吹いたようだった。沖田はあっという間に間合いを詰めると、刀を抜き、躊躇うことなく横に一閃させた。幽霊たちが悲鳴をあげる。血が噴き出して、地面や建物の壁を真っ赤に染める。瞬く間に、群がって来ていた幽霊たちは姿を消し、真っ赤な華の中心に返り血を浴びた沖田が一人立っていた。

「こういう時に、細かいことごちゃごちゃ考えてると思う?」

 頬の血もそのままに、沖田が雫を見た。

「殺す覚悟も死ぬ覚悟も既に持っているもの。その時になったら、僕は刀を振るうだけ。考えてたんじゃ遅いんだ」

 ――それが、沖田総司という人間なのだと、理解をした。

 沖田が刀の血を振って飛ばす。同時に景色が戻ってきた。闇と赤だった空はいつも通りの夕焼けに戻り、血はすべて消え、辺りに駅に向かう観光客たちがいる。立ち止まっている雫を不審げに見て、観光客たちは去っていく。

「大丈夫?」

 沖田が刀を納めて戻って来る。

「はい……」

「さっきのなに?」

 雫は言い難そうに口を開いた。

「逢魔時……薄暗くなるこの時間のことなんですけど……私は、見えるのに合わせて、そういう、霊とかよくないものを引き付けやすくて……時々、今みたいなことが起こるんです」

「逢魔時か。他界と現実を繋ぐ時間、ってやつ? 昔からあるよね」

 雫は俯いたまま頷く。

「今までどうしてたの?」

「完全に夜になれば帰れるので……ただ、大人しく時間が過ぎるのを待ってました……」

 幽霊に囲まれたり、叫ばれたりするくらいならかわいいものだ。もっともっと怖い思いもたくさんしてきた。いつも、それを一人で耐えていた。

 そっか、と沖田は頷く。

「あの、伝え忘れていて大変申し訳ないんですが……私の守護霊やるって、今みたいなことに巻き込まれることも多いってことなんですけど……」

 軽率に受けすぎたのかもしれないと思っていると、沖田が雫の肩に手を置いた。びくりと肩が跳ねる。

「じゃあ、今後は怖い思いすることもないかもね。僕がいるから、すぐに片付くし」

 雫が目を見開いた。

「いいんですか……?」

「いいも何も、言い出しっぺは僕だし」

 一拍置いて、沖田は勝気に笑う。

「君を守るって言ったのも僕だからね」

 冷たくなっていた指先に熱が戻る心地がした。もしかしたら、本当に、最強の守護霊を味方につけたのかもしれないと雫は思った。

「……ありがとうございます」


 ***


 雫の守護霊はお姉さんだった。いつも隣にいるお姉さん。雫はお姉さんになつき、いつも話しかけていた。それを両親が怖がっていたと知ったのは、もう少し大きくなってからだった。

「雫、誰に話しかけてるの?」

 そう問われても、雫には意味が分からない。両親も当たり前に見えていると思っていたからだ。小学生に上がる頃、お姉さんは言った。

「私は、雫ちゃん以外には見えないんだよ」

「どういうこと? 私だけに見えてるの? お姉さんはここにいるのに?」

「私は雫ちゃんの守護霊なの」

「しゅごれい?」

 お姉さんは頷く。

「おうちの中に人がいっぱいいるよね?」

「うん。お父さんとお母さんとお兄ちゃんとおじいちゃんと――」

「お兄ちゃんとおじいちゃんは、お父さんとお母さんには見えてないんだ」

 雫は首を傾げた。

「雫ちゃんは、お父さんとお母さんと雫ちゃんの三人暮らしなんだよ」

 意味が分からなかった。だってお兄ちゃんもおじいちゃんも家にいる。雫に話しかけてくることは少ないけれど、目が合えば笑顔で手を振ってくれる。だから雫は当たり前に六人家族だと思っていた。

「どうしてお父さんとお母さんには見えないの?」

 お姉さんは首を振る。

「雫ちゃんが特別なの。普通の人に私たちは見えない。話もできない。守護霊はね、みんなの隣にいるけれど、誰にも見えない存在なんだ」

「お姉さんは守護霊で、誰にも見えなくて、でも私が特別だから見えている?」

「そういうこと」

 偉いね、とお姉さんは微笑んだ。

 守護霊については理解できたけれど、雫は相変わらず霊と人間の区別がつけられなかった。人間の友達ではなくその守護霊に話しかけてしまったり、普通の生活は難しかった。

 小学三年生になった頃、雫は一人で学校帰りに歩道を歩いていた。夕方、暗くなろうとしていた。掃除を終えて、クラスメイトに隠された筆記用具を探しだして、帰りが遅くなってしまった。

 赤子の泣き声が聞こえた。おぎゃあ、おぎゃあ。道路の向こうに、ベビーカーだけが置いてある。中の赤子が泣いているのだと気が付いた。親は近くにいない。様子を見に行こうと雫は足を進めようとした。その手を、お姉さんが引き止めた。

「雫ちゃん、だめ。行かない方がいい」

「どうして? 赤ちゃんが泣いてる。お母さんいないみたいだし、保護しないと」

「行っちゃだめ」

 雫はお姉さんの腕を振り払って、近くの横断歩道を渡ろうとした。一歩踏み出す。――瞬間、太陽が遠くに消えた。闇と赤の世界で、信号がでたらめに点滅している。大きなクラクションの音。猛スピードで雫の方に車が突っ込んで来る。

「雫ちゃん!」

 お姉さんが雫を突き飛ばした。

 ぐしゃり。音がした。雫の頬に何か生ぬるいものが付着した。振り返ると、突っ込んで来た車も、お姉さんも、姿はなかった。ただ、そこに赤い絵の具が広がっている。何が起こったのかわからなかった。

 夕焼けが戻って来る。おぎゃあ、おぎゃあ。赤子が泣いている。雫が立ち上がり、ベビーカーに駆け寄って、中を覗き込んだ。

 ――鬼の顔をしていた。


「それから、軽率に人に話しかけたりするのやめたんです……変なことに巻き込まれがちになったのもそれからで……」

 家に帰って来てから雫は過去の話をしていた。あの時、ベビーカーが人間ではないことに気が付いていれば、判別できていれば、自分の守護霊だったお姉さんが消えることはなかった。守護霊になってあげる、と何度も幽霊に言われてきたが雫は断った。また、誰かが雫のせいで消えることを怖れていたからだ。

「でも、僕の頼みには乗ったよね? どうして?」

 沖田が問う。雫は少しだけ頬を赤らめて、目を逸らす。

「総司さん必死でしたし、一時的に協力関係になるだけだし……それに……」

「それに?」

「……新選組の沖田総司は、天才剣士なので……」

 沖田はぱちぱちと瞬きをした。そして噴き出した。

「新選組のこと全然知らないのに、変なの。僕にだけ詳しいんだ」

「自分の知名度知ってますか?」

 新選組のことを知らない自分ですら知っている、新選組の沖田総司。病で死んだらしいと知ったのは、漫画だったか映画だったか、何も覚えていない。とにかく、沖田総司の名を知らない日本人は少ない、と雫は思っている。

「僕の知名度はどうだっていいんだけど。どうせなら近藤さんの名前を残して欲しかったなあ」

 沖田は後ろに手をついて天井を見上げた。

「幕末に活躍した、歴史を変えた男。文武両道の剣豪・近藤勇。うん、こっちの方がいい」

「歴史を変えたんですか?」

 雫が問う。沖田が視線を雫に戻した。

「変えたよ。農民の出だったのに、幕府に重用されるまでになったんだから」

「江戸時代って生まれた身分は変えられないんでしたっけ」

「変えられないわけじゃないけど、ほとんど無理だったかな。近藤さんは武士を夢見たけど、幕府の講武所――これは武士に剣術とか教えるところなんだけど、そこの指南役に選ばれそうになった時も、農民の出だからって落とされたんだ。知識も腕も十分だったのにね」

 沖田はまた視線を外した。

「近藤さんは新選組で、武士になる夢を叶えた。決して楽に叶えた夢じゃないんだ」

 たくさん馬鹿にされてきた。絶対に無理だと言われ続けた。それでも、近藤は武士になる夢を諦めなかった。そうまでしてなりたかった『武士』とはいったいなんなのだろう。雫にはわからなかった。

「……だから、っていうのも違うんだけど。大切な人がいなくなる気持ちは、少しわかるつもりだよ」

 雫が目を見開く。沖田が雫に目を戻して笑った。

「僕たち、仲良くやっていこうよ」

 君を守るって言ったのは僕だからね。夕方の沖田の言葉が蘇る。

「はい。ありがとうございます」

 雫は、ようやく自然に笑えた。それを見て沖田も笑みを深めた。

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