ぬらり出張相談室

壷家つほ

ぬらり出張相談室

 雨が降る。疲れ切った肉体を冷やし、心を重くする忌々しい存在だ。自身の口から漏れる白い息を眺めながら青年は舌打ちをした。

 今年は雨が少なかったから「恵みの雨」と呼ぶ者は多いだろう。しかし、残業を終えて帰路に着き、長い時間を掛けて漸く自宅が見える場所まで至った青年にとっては、ただただ不快なものでしかなかった。傘を差しているにも拘らず服は濡れ、水分を溜め込んだズボンの裾は重石の様になって彼の足取りを遅らせる。疲労に耐えかねた彼は、自宅まであと少しという所で歩みを止めた。

 深い溜息を吐き自室があるアパートを見て、ふと青年は気付く。

「何で明かりが点いてるんだ?」

 青年が暮らしているアパートは単身者用だ。当然、自室で彼の帰りを待つ者はいない。にも拘らず、彼の部屋はどういう訳だか白い光を放っているのだ。

 こういった状況であると、大概の者は照明の消し忘れか泥棒の類を疑うであろう。けれども、彼は全く別の可能性に思い至った。

 青年は駆け出す。彼の足を止めていた疲労も雨も、意識から消えていた。程なく彼は自宅へと辿り着き、鍵を開けて室内へ飛び込んだ。

「光太!」

 荒々しく発せられた声に答えたのは――。

「おや、お帰り」

 聞き覚えのない太い声であった。狭い部屋の中心に座っていたのは、和装に身を包んだ大柄で筋肉質な体形の老人である。髪が綺麗に剃り上げられていたから、一見すると仏僧である様に思えた。

 老人はまるで部屋の主人であるかの様に落ち着き払っていたが、本来の借主は青年の方であり、また彼にはこの老人に見覚えがない。途端に恐怖心が湧いて来て青年は思わず後退りをするが、ややあって声を引き攣らせながらもこう尋ねた。

「誰だ?」

 すると、老人は一瞬だけ目を丸くする。だが直後に、にんまりと意地悪そうな笑みを浮かべた。

「ほう、儂を認識出来るのか。さては坊主、過去に妖怪と会ったのだね?」

 次に目を丸くしたのは、青年の方であった。



「儂は俗に『ぬらりひょん』と呼ばれている者だ。他所様のお宅に勝手に入り込んでは勝手に出ていく気儘な妖怪――らしい。本来は別の性質であった気がするのだがなあ。何時の間にか、そうなってしもうた。ともあれ、然したる害はないから、雨が止むまでは部屋の隅でも貸しておくれ」

 煙草を吸って良いか尋ねて規約で禁止されているからと断られた老人は、渋々出し掛けた煙管を仕舞い込んだ後に、自身についてその様に説明した。老人の推察通り妖怪を認知している青年は、相手の言葉をあっさりと受け入れた。世間一般に知られている妖怪ぬらりひょんの姿とは大分違っているが、彼の纏う空気は何処となく過去に見た妖怪の気配と似通っている気がしたのだ。

「『ぬらりひょん』……。実在したのか」

 青年が呟くと、自称ぬらりひょんは肩を竦めた。

「おいおい、坊主は妖怪を見たことがあるのだろう? しかも、妖怪に慣れている。長い時間を共に過ごしたのだな。儂を認識出来るってのは、そういうことだ。にも拘らず、どうして儂のことは認められないんだい? そいつのことは受け入れた癖に」

「それ以前に、俺はまだあんたの言ってることを完全に信じた訳じゃないからな。人間の不審者である可能性だってあるんだから」

 考えが纏まるより言葉が出る方が先であったが、言い終わった後に青年は其方の可能性が高いのではないかと思い始める。逆に、何故今迄妖怪だと思い込んでしまっていたのか。ただ気配が既知の妖怪に似ているからという理由だけで。

「やれやれ、人型は本当に面倒だねえ。こういったことが起こってしまうのだから。だが、お前さんには大なり小なり霊感がある。儂が言っていることが真実であること位分かるんじゃないのかね?」

 返答はなかった。結論を出せないまま、青年は相手から少し距離を取った。それを見て、ぬらりひょんは小さく苦笑いをした。

「因みに、お前さんが出会った妖怪の種類は?」

「座敷童子だ。言い伝えでは先祖の血縁らしいから、幽霊でもあるのかもしれないけど」

 自室に戻ってきた際に青年が発した「光太」という言葉は、彼がその座敷童子に付けた呼び名だ。嘗て青年の母親が座敷童子のことを「家に光を齎してくれる存在」と言っていたので、そう名付けた。恐らくは本名――人間であった頃の名前も存在はしていたのであろうが。

「成程、この隙間はそういうことか。お前さんの家は座敷童子に逃げられたのだね」

 ぬらりひょんは腕を組み、床を見る。青年も釣られるように床を見たが、彼の言う隙間が何を指しているかは分からなかった。

「逃げられたのは当たりだけど『隙間』って?」

 そう青年が尋ねると、ぬらりひょんは「ふむ」と唸り、無意識に袖の中から煙管を取り出す。しかし、喫煙を禁じられていたことを思い出し、煙管を握った手を膝の上に落とした。

 自身が座っている場所を見下ろしたまま、ぬらりひょんは話を続ける。

「家――と言っても建物のことではなく家庭の方の意味なのだが、お前さん家には人間の目には見えない隙間があるのよ。察するに元々は座敷童子が収まっていて、そいつが抜けた時に出来た穴であろう。放置しておけば、他の妖異が入り込むに違いない。否、既に先住者は何人かいたのやもしれんな。今は偶々空いていたから、儂が収まっておるが」

 青年は一歩身を乗り出し、声を荒げて尋ねる。

「じゃあ、俺の家に不幸が訪れたのもその隙間の所為なのか?」

「さあ、そこまではのう。何かあったのか?」

 ぬらりひょんは社交辞令的にそう聞いてみた。返答内容が薄々察せられるが故に、彼は目に見えて冷静だ。その冷静さが鼻に付いたが、青年は怒りを抑えて語り始めた。きっと同情してもらいたかったのだろう。

「光太を見掛けなくなった頃、両親が立て続けに死んだんだ。そしたら、親戚連中が総出で押し掛けて来て、気が付いた頃には親が残してくれていた筈の財産が殆どなくなっていた。俺は子供だったし頭の良い方じゃなかったから、取り返し方も分からなくて。で、今は見ての通りの暮らし振りだ。昔はそこそこ大きなお屋敷に住んで、使用人までいたのにな」

「まあ、それが座敷童子に逃げられた所為であるのかはやはり分からぬが、何にしても今のままにしておくのは良くない。家は隙間が空いてないものが完全体だ。そして、現世とは家に隙間がないことを前提として成り立っている。よって、隙間を持ったお前さんは、何れこの世界の余り物となるだろう。家とも関係する妖怪である儂は、こう見えても平和主義者なんだ。争いの種を良しとはせぬ」

「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」

 沈黙が落ちた。青年が気を落ち着ける為に設けられた休息時間だ。

 暫くして彼の身体から力が抜けたのを確認すると、ぬらりひょんは再び口を開いた。

「正攻法はその隙間を人間で埋めることだ。新しい家族を作ること。そういった出会いはないのかい?」

「ある訳がない」

「であろうな。世間様は世知辛いからのう。では次善の策を教えてやろう。隙間をな、別の妖異で埋めるのよ」

「『別の』?」

 青年はぬらりひょんの顔を見た。ぬらりひょんもまた彼の目を真っ直ぐに見返している。

「ああ、儂は駄目だぞ。そこまでは付き合いきれんからの。そら、見ておれよ」

 ぬらりひょんは煙管を持っていた手を上げて壁を指し、続いて大きな円を描く様に手を回す。それに伴って壁に黒い線が引かれ、線の最初と最後が繋がった瞬間、円の内部にぽっかりと黒い穴が空いた。穴の中にあるのは、隣室ではなく真っ黒い壁面の洞窟だ。洞窟には明かりとなる物がないので、奥に何があるのかは分からない。

 青年はあんぐりと口を開けた状態で洞窟を凝視した。一方、ぬらりひょんはしたり顔で火の付いていない煙管を咥える。

「穴を空けてやったぞ。怪異達の住処たる『辻の世界』へ繋がる入口だ。行って適当な妖怪を連れ帰って来るが良い」

「あ……」

 一層驚いた顔をして、青年は再度ぬらりひょんを見る。ぬらりひょんは呵々と笑った。

「怖いのか、坊主。だが、何事も挑戦なくば道は開けんぞ」

「いや……いや、だって!」

 青年は洞窟を指差し反論しようとするが、上手い言葉が出て来ない。未知なる世界への恐怖と期待の両方が彼の内で涌き起こって、互いを押し潰さんと荒ぶっていた。

「昔馴染みとは違うかもしれんが、あの中には確実に座敷童子もおる。先程の口振りから察するに、お前さんは元の生活を取り戻したいのだろう? 今の苦しい生活から脱却したいと思っておるのだろう? ならば行かねば」

 笑みを消した真摯な表情でぬらりひょんがそう言ってやると、青年はゆっくりと腕を下して目を伏せた。彼は暫く悩んでいたが、やがて意を決して洞窟へと向き直る。

「分かった。言う通りにするよ。礼は出世払いで頼む」

「いやあ、お前さんが彼方に行ってくれるだけで儂としては充分だ。気を付けてな」

「そうなのか? 有難う。行ってくるよ」

 最後に掛けられた言葉の意味を深く考えることなく、青年は壁に空いた穴を潜る。洞窟の中へ入った後、彼は一度だけ振り返って背後にある自室を見たが、満面の笑みを浮かべて手を振るぬらりひょんに背中を押され、洞窟の奥へ向かって走り去っていった。

 青年の姿が見えなくなったのを確認すると、ぬらりひょんは煙管を弄りながら小さな溜息を吐いた。

「ま、片道切符の旅なのだがね」

 そう呟いた後にぬらりひょんは煙管を壁の方へ向けて掲げ、そこに空いた穴を塞ぐ様にバツの記号を描いた。すると、穴は徐々に小さくなって行き、最後には跡形もなく消えてしまった。青年のいる洞窟は消えていないが、此方側の出口を塞いだから、彼はもう二度と現世へは戻れないだろう。

「厳しい措置だとは言うなよ、坊主。少なくとも儂はこうすることが正解だと思うておるのだ。座敷童子がお前さん達の許から離れた理由も、存外唯の気紛れではなかったのかもしれんぞ」

 ぬらりひょんが思うに青年の欠点は、時折他者を自分の為の道具と見做すことがある所と、物事を自分にとって都合の良い様に解釈しがちな所だ。例え相手が人に非ざる存在であったとしても、人間と同様に思考出来るのであれば、青年の内側に潜む利己心に気付いて不快に思うこともあるだろう。否、彼は人間に対しても無自覚に同じ振る舞いをしていたに違いない。それでも気にせず付き合える者はいるにはいるのであろうが、廻り合わせが悪かった彼は集団から浮いてしまった。恐らくは彼の不幸な境遇の一因である。

「妖怪とは言え、儂は現世の住人だからのう。この世界にとって吹き出物の如き存在であるお前さんを見過ごすことは出来んのよ。どうか悪く思わないでおくれ」

 許しを請う言葉とは裏腹に、ぬらりひょんはくつくつと含み笑いをする。その後に彼は窓の外を見た。雨は何時の間にか止んでいた。予報ではこの後三日は晴天が続くらしい。

 ぬらりひょんは煙管を仕舞って腰を上げ、部屋の照明を消す。それから少し時間を置いて、扉を開閉する音が闇に包まれた室内に響いた。

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