月の詩

羽山涼

第1話

 日が暮れ、月が昇り始める頃合いだった。雲は少なく、建物群の隙間から見える月が、満月でもないのにやけに明るく見えた。


「そこのお兄さん」


 一人帰路についていると、そう声をかけられた。声をかけられたのが俺かどうかと確認するまでもなく、周囲に人は疎らで、建物の壁に背を預けた小さな少女が見ているのは明らかに俺だった。


「一回どう? 初回割で三万でいいよ」


 小首を傾げながら少女は微笑んだ。歳の程は十二といったところだろうか。面倒を見ている子供たちよりも少し大きい程度の年頃だ。

 どうと言われて何のことかとしばし悩み、結論に行き着く。こんな人通りの少ないところで、少女が見知らぬ男に見返りに金を要求するなど、理由は一つしか思いつかない。


「結構だ」

「あら、間に合ってるの?」

「興味がない。お前もこんなところにいないで、家に帰るんだ。小遣い稼ぎなら別の方法もあるだろう」


 そう諭すと、微笑んでいた少女は表情を消し、ため息をついた。……帰る家が無いのだろうか。こんな、子供にとっては決して安全ではない時間と場所で身売りなどしているくらいだ。何かしらの事情はあるのだろう。

 しばし考え、


「ついて来い」


 知らずと、そう口にしていた。顔を逸らしていた少女が怪訝な表情を向けてきた。


「なに。やらないんでしょ」

「ああ」

「警察なら行かない」

「俺も警察に用はない」


 下位構成員であろうと俺もマフィアの端くれだ。警察と仲良くしたいわけではない。

 行くぞ、と声をかけて歩き出す。少女はしばし悩んだ後に、遅れてついてきた。歩く速度を少しだけ落としたが、後をついてくる少女は隣を歩こうとはしなかった。


「……なにここ」


 俺が店の扉を開けたところで、ようやく少女が言葉を発した。


「洋食屋フリィダム」

「店の名前を聞いてるんじゃない」


 そうだったのか。てっきりこの店のことを聞いたものと思ったんだが、見当違いの答えだったらしい。となると、少女の問いの意図はわからないし、少女はそれ以上何か話すわけでもなかった。だから俺は気にせず店に足を踏み入れることにした。


「ああ。いらっしゃい。あら、その子は?」


 馴染みの店主が俺の後ろの少女を見て首を傾げる。


「さっき会った子供だ。親爺さん、いつもの二つ」


 カウンターの椅子を引きながら、俺は注文をする。はいよ、と軽い返事と共に店主は笑みを浮かべて調理に取りかかった。


「座らないのか?」


 未だ店の入り口で立ったままの少女に声をかける。少女は両眉を寄せて俺を睨んでいた。何故だ。


「なに? 何がしたいの?」

「腹は減っていないのか」

「いま質問してるのは私」


 少女は不機嫌そうだった。質問に質問を返したか。それは悪いことをした。


「あんなところで身売りをしているくらいだ、金に困っているんだろう。だから、飯を奢ってやろうと思った。そんなところだ」


 ほら答えたぞ、と言うと、少女はやはり怪訝そうな表情も店の中に入ることもしない。開け放たれたままの扉からカウンターへ風が舞い込む。


「そろそろ閉めた方がいい」


 扉を指さしてそう言えば、少女はため息を大きくついて、店に一歩足を踏み入れ扉を閉めた。そうして、歩み寄って来ると、俺の隣を一つ空けて椅子へと座った。隣に座っても構わないのだが、まあ席はたくさんある。好きなところに座れば良いだろう。


「お兄さん、変な人って言われるでしょ」


 少女は相変わらずの不機嫌そうな声でそう言った。


「ああ、比較的よく言われる」

「はあ……変なのに声かけちゃったなあ」


 少女はまたため息をついて肩を落とす。声をかけてしまったのは自分だから自業自得か場所を変えるべきかなどとぶつぶつ独り言を言っているが、全部俺に聞こえている。そうしている横顔は聡明で、決して自分を売って小遣い稼ぎをしているようには見えない。何か理由があってあんなことをしているのか。それとも今回が初めてだったのかと、そう考えて否定する。俺に声をかけた様子に戸惑いはなかった。回数をこなしているからこそ、ああも簡単に見知らぬ男に声をかけることができたのだろう。


「はい、おまちどうさん」


 俺の思考に、馴染みの匂いが割り込んでくる。俺の前に一皿、そして少女の前に一皿置かれた。


「なにこれ」


 少女がまた疑問を述べた。


「カレーライスだ」


 今度は質問せずにきちんと少女の質問に回答する。だが、少女の疑問ももっともかもしれない。この店のカレーライスは一般的に白米とカレーが分かれているような見た目をしていない。簡単に言えば、白米とカレーが既に混ざり合っており、中心に生卵がのっていて、ソースをかけて食べる。俺はこのカレーライスを定期的に食べなければ調子が出ない、そんな体になっている。

 ソースをかけて、ソースの瓶を少女の方へと渡す。生卵を割って、更にソースと卵がライスに混ざり合うように混ぜる。その様子を少女はぽかんとした表情で見ていたが、しばらくして自分も俺の食べ方を見様見真似でやって見始めた。そうして、一口口に入れる。


「……辛っ」


 少女は一言そう零して水に手を伸ばした。


「そんなに辛いか」

「別に。食べられない程じゃない」


 眉間に皺を寄せながら、少女は二口目を口にした。無理をしているのかもしれない。太宰なんかはここのカレーライスは辛すぎると煩い程に騒ぐ。俺は何とも思わないが、実はこのカレーライスは辛いのかもしれない。


「辛いならソースを多めに入れるといい」

「辛くないって言ってるでしょ」


 言いながら、少女はソースの瓶へ手を伸ばした。やはり辛いらしい。

 そのまま、俺達は無言でお互いのカレーライスを食べていた。少女は辛いのか何度かソースを追加投入していたが、そんなにかけたらソースに米が沈んでしまうのではないかといらぬ心配をしてしまう。

 少女がスプーンを置いたのは俺が食べ終わってから五分程経ってからだった。ごちそうさまでした、と言って両手を合わせるところを見ると、きちんと育てられたのだろう様が見える。だが、家族との関係は良くない、といったところだろうか。やる事が自分の身を売ることとは、反抗期にしても少々やりすぎている。


「今日は俺の奢りだ。まあ、見ず知らずの他人の俺が言うのもなんだが、自分の身体は大事にした方がいいぞ」


 それこそ、マフィアで元人殺しである俺が言うことでもないわけだが。少女は椅子から降りると大きく息を吐いて、俺をまっすぐに見つめ、


「余計なお世話」


 はっきりきっぱりとそう言った。


「カレーライスは美味しかったし、奢ってくれたことには礼を言う。ありがとう。もう関わることもないでしょう。さようなら」


 そう言って、少女は背を向けて店の扉を開けた。


「ああ。さようなら」


 ちょうど少女の上に昇った月が綺麗に見えたが、扉はすぐにぴしゃりと閉められた。

 そして、お互い名乗り忘れたなということに気が付いた。



***



「ああ、つまらない。何か面白い話は無いかい、織田作」


 いつもの酒場でグラスの氷を回しながら、太宰が言う。また包帯が増えているのは気のせいか。


「面白い話ではないが、そうだな、児童買春に手を出さないかと声をかけられた」

「ええっ、何だいそれ!? 最高に面白いじゃないか! もっと聞かせておくれよ! 織田作がそういうの好きそうに見えたってこと!?」


 太宰は満面の笑みを浮かべる。はあ、とため息をついたのは安吾だ。


「太宰君、食いつきすぎですよ。それで、織田作さん、まさか手を出したわけじゃないでしょうね」


 首を振る。


「まさか。店に連れて行って、カレーライスを奢ってやって、そのまま別れた」

「児童買春に誘われてカレーライスを奢るって面白すぎだよ織田作! どうしてそうなるのさ!」


 カウンターを叩きながら太宰は本当に面白いものを聞いたとばかりに笑っている。安吾の方は安堵の息を吐いているようだ。俺が手を出したのだと思われているのなら心外だ。俺が子供たちの面倒を見ていることもこいつらは知っているだろうに。

 今もどこかの路地で男を探しているのだろうか。出来れば止めて欲しいと思うのは、子供だからか。それとも、子供にしては、まるで子供に見えない様相をしていたからだろうか。


「それで? どんな娘だったんだい?」


 ああ、そうだ。

 子供のようで、子供でないような、そんな様が、どうにもこの太宰治という友人と重なって見えたのかもしれない。


「そうだな……お前に少し似ていた」

「……私に似た……娘……?」

「太宰君に似た少女……?」


 二人して同じ顔をしている様が、少し面白かった。

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