アリスとこの素晴らしい世界

羽山涼

第1話 私と青

「あお」

 私が辛うじて発した言葉はそれだった。

 頭の上も、右も左も、どこを見ても青色だった。ペンキをぶちまけたような青というわけではなく、とても、とても透き通ったきれいな青。そんな青色がどこまでもどこまでも続いていた。時々白い綿菓子みたいなものがあるのは何だろう。落ちて来たら食べられるのかもしれない。でも、綿は落ちる様子もなく一定の方向に移動していく。あまりにも眩しいライトか何かが私を照らし、焼こうとしている。

 私は立ち止まっているのに、まるで走った時のように、髪やスカートが自然と靡く。この私の頬を撫ぜていくものの名前を私は知らない。

 何も知らない。

 この一面の青色も。私を撫ぜる何かも。私は知らない。

「ゲホッ、ゲホッ」

 ただわかるのは、この場所は私をまったく歓迎していないらしいということだけだった。


 始まりは数時間前に遡る。

「アリス! アリスー!」

「はぁい、ママー」

 ママに呼ばれて私はキッチンへと向かった。

「おつかいを頼みたいの。これをマゼッタおばさんへ届けてくれる?」

 ママは私にバスケットをひとつ手渡して来た。ふんわりと香る甘い匂いを嗅いで、私はそれを何かすぐにわかった。

「パウンドケーキ!」

 ママはにっこりと笑う。

「あなたの分もありますよ。帰ってきたらね」

「うん! いってきます!」

 私はるんるんとスキップしてマゼッタおばさんのところへと向かう。ママの作るお菓子はなんだって美味しい。特にパウンドケーキなんて至高のお菓子だ。ドライフルーツがたっぷりで甘くてとっても美味しい。

 マゼッタおばさんのおうちまでは歩いて十五分くらい。今日は気分が良いからもっと早く着くかもしれない。そして、おつかいが終われば私もこのパウンドケーキにありつけるのだ。

「あれ」

 速足気味だった足を止める。

 白い長髪の男の人が目の前を歩いて行った。この辺にあんな人いたかな、と私は思う。街の中で知らない人なんてほとんどいない。みんな知り合いみたいなものだ。

 白髪のお兄さんは黒いコートを靡かせながらどこかに向かって歩いて行った。どこへ行くんだろう。あっちは家も少なくて、その奥に「壁」があるだけなのに。

 私はバスケットとお兄さんを見比べて、お兄さんの後を追いかけることにした。壁についてからマゼッタおばさんのところに行ってもなんの問題も無い。ちょっと遅れたっておばさんは怒ったりしない。今はただ、お兄さんがどこに行くのかが気になって仕方が無かった。

 お兄さんは家々が並ぶ住宅地を抜けて、そのまま壁の方へと向かった。私は家の陰に隠れながらお兄さんの後を追った。

「あっちには何もないのに……」

 お兄さんは壁まで辿り着くと、消えてしまった。

「えっ!?」

 私は壁まで走る。私が瞬きをした瞬間にお兄さんは消えていた。まるで魔法みたいにぱっと。壁に手を触れる。何もおかしくない、土の感触だ。どうやって消えたんだろう。私は土壁を念入りに擦った。でも、やっぱりそれは土壁でしかない。

「もうっ! 何なのよ!」

 私は土壁を力の限り殴った。その勢いで、土壁が奥へと動いた。

「きゃっ!」

 土壁はくるりと回って元の通りに戻ってしまった。真っ暗。暗闇だ。何が起こったのかわからなかった。後ろを振り返って手で触れると、触り慣れた土の感触。右も、左も、土だ。つまり、ここは土壁の中ということになる。通ってきた扉であろうところを押してみる。簡単には動かなかった。私が力の限り殴ったから動いたんだ。これは、回転する扉だ。十五年この近くに住んでいて初めて知った衝撃で、私の心臓はばくばくと煩かった。あの見た事のないお兄さんが消えたのは、扉の向こうに消えたからだったんだ。大きな秘密を知ってしまったみたいで、私はどきどきした。

 足元を手探りすると、どうやら階段があるようだった。横の壁に手を付きながら、私は階段を上って行った。とても長い階段だった。途中で引き返そうかと考えたくらいだ。ぜえぜえと息が上がって来た頃、もしかしてとっくに「天井」の高さを越えてしまったのではないかと思った。それくらい高いところに、何かがあるのだと思うととっても怖くなってきた。上を見ても真っ暗、下を見ても真っ暗。帰る事は出来るはず。下ればいいだけなんだから。ただ、私の好奇心と恐怖を天秤にかけたところ、私は階段を上り続けることに決めた。何にでも挑戦しなさいってパパも言っていたもの。

 額の汗を拭いながら階段を上る。

「あいたっ!」

 ガツンと頭をぶつけた。どうやら天井の上の天井に到着したらしい。ぶつけた頭を擦りながら、天井に触れる。天井だけ金属でできているようだった。ここまでやってきたは良いものの、ここでどうすれば良いのだろう。お兄さんはこの先に行ったはずなんだから。私は金属の天井にもう一度触れてみた。力を入れると上に開きそうだった。バスケットを一度階段に置いて、私は両手で金属の天井を持ち上げた。

 ――眩しくて目が潰れるかと思った。

「……え?」

 目が眩しさに慣れてくると、そこには見たことない光景が広がっていた。バスケットを持って金属の天井を閉める。

「……あお」

 どこまであるのかわからない程高い青色の天井がそこにあった。

 白い綿菓子のようなものが天井から吊り下げられていた。糸も何も見えない。

 目を刺激するとても眩しいものがどこかにある。そっちの方を見ると、目が見えなくなってしまいそうだった。

 走っていないのに髪が、スカートが靡いた。頬を、腕を、足を撫ぜる優しいこれが何なのか私は知らない。

 あとは、砂。砂がある。砂しかない。

 知らない世界。私の知らない世界がそこに広がっていた。

「ゲホッ、ゲホッ」

 土埃が酷かった。喉がいがいがする。

 早く帰ろうと思う気持ちと、もう少しここにいたい気持ちで悩んでいた時。

「知らない子がいるね」

「きゃあっ!!」

 足下から声が聞こえて、私は思わず悲鳴をあげてとびあがった。金属の天井から男の人が目を覗かせていた。のっそりと出て来たのは長身で、パーカーのフードを被ったお兄さんだった。何とも形容しがたい、変な柄のパーカーを着て、白いマスクをしていた。

「どうしてこの道を知ったのかな? 誰かの後でもつけちゃったのかな?」

 パーカーのお兄さんは疑問口調でそう言った。

「あ、あの……白い、長い髪のお兄さんの後を……」

「サギか。間抜けめ」

 パーカーのお兄さんは白髪のお兄さんの事を知っているようだった。眉を寄せてため息をついた。

「ここの事を知られてしまったら、そのまま帰すわけにはいかないなあ」

「えっ……」

 私は後ずさりする。

「ああ、悪い事とかしない。安心するといい」

 パーカーのお兄さんはひらひらと手を振った。独特の口調で話す人だなと思った。

「ついて来て」

 パーカーのお兄さんが歩き出す。私はついて行くのを迷った。今なら、この金属の天井を開けて走って戻れる。

 でも、きっとお兄さんはこの世界のことを知っている。好奇心。好奇心だ。私はお兄さんの後をついて行くことにした。マゼッタおばさんにはもうしばらく待っていてもらおう。

「あの、お兄さんの名前は……? 私、アリスっていいます」

 お兄さんの斜め後ろを歩きながら、私は問いかけた。いつまでもパーカーのお兄さんでは呼びにくい。

「ネコ」

「猫?」

「ネコはネコだな」

 ネコさんという名前らしい。本名なのかわからないけど、そう名乗ったからネコさんなのだろう。

「ネコさん、あの、青い天井は何なんですか? どこまで続いているの?」

 私は上を指差しながら尋ねた。ネコさんは頬を掻いて、面倒そうな顔をした。

「あれは空。どこまでも続いてる」

「どこまでも続いている?」

 私はそらと呼ばれたものを見上げた。どこまでも続いている。そんなものがあるわけがない。きっと嘘をついているのだろうと私は思った。だって、物には何だって限りがあるものだ。私が住んでいる街だって、天井があって、壁がある。街には限りがあった。街のような大きなものに限りがあるのに、それより大きくて限りがないなんて考えられなかった。

「すごくきれいな色をしてる」

 私はそらを見上げた。その色を、青色、としか私は形容することができなかった。だって、見たことが無かった。こんな色、今まで一度だって見た事がない。ペンキじゃない。クレヨンでもない。絵の具でだってこんな色は出せないだろう。とても、とてもきれいな色だ。

「あの白い綿菓子みたいなのは、落ちてこないんですか?」

 空の中にある白いものを指差す。

「落ちてこない。あれは雲」

「くも」

 ネコさんの言葉を繰り返す。

「あの、ネコさん。この、頬を撫ぜるこれは?」

「うん? ……もしかして、風のことか?」

「かぜ……これはかぜっていうの?」

 私を優しく撫ぜていく。髪が靡いて、スカートも靡く。足元で砂が転がるのもきっと風のせい。私はこのかぜというものが好きになれそうだった。だって、かぜはとても優しい。

「ゲホッ、ゲホッ」

 私はまた咳をする。

「おっと、そうだ」

 ネコさんはポケットを漁ると、マスクを一つ手渡してくれた。

「つけるといい。ここの空気は地底民には毒みたいなもの」

「地底民?」

 私はネコさんからマスクを受け取り、それをつけながら復唱した。ネコさんは頷く。

「ここが地上。アリスが住んでいるところは地下。地下都市の天井は今ネコたちが歩いている地面」

 私は足下を見た。ここが天井? 足下にあるのに?

 でも、よく考えると私はずっと階段を上って来た。長い長い階段は天井よりも高いと思った。ということは、本当にここは天井の上にある場所ということなんだろうか。

「地下都市って何ですか? 私たちの街のことですか? ここは天井より高いところにあるんですか? 地上って、地下ってどういうことですか?」

「一度にたくさん質問するな。せっかちなやつだ」

 ネコさんは眉を寄せた。

「ネコは説明下手くそ。ジャンの方が上手い。ジャンに聞くといい」

「ジャンさん?」

「これから行くところにいる」

 ネコさんが面倒そうに言った。それからネコさんは静かだった。私はネコさんの後をついて歩いて行く。やがて、突然ネコさんがしゃがみだした。何があるんだろうと見てみると、また金属の蓋だった。ネコさんが開ける。

「入って」

 私は言われるがままに入る。また階段があった。階段を下って行く。上って来た時よりも少ない段数で地面に足をつけることができた。

「あれあれぇ? お嬢ちゃん、どこから来たの? 何でここがわかっちゃったの?」

 帽子を被ったお兄さんが椅子からとびあがって近づいて来た。私はその勢いに思わず一歩後ろに下がるが、ネコさんにぶつかっただけだった。

「サギの後つけて出て来た。から、連れて来た」

「サギぃ? あのバカ」

 帽子のお兄さんが舌打ちした。ネコさんがマスクを外しているのを見て、私もマスクを外した。どこかの事務所のようだった。机があって、椅子があって、色々な書類が机の上に散らばっている。奥に扉があるから、まだ広さがあるみたいだ。

「さて、ようこそお嬢ちゃん。俺はジャン。お嬢ちゃんは?」

「あ、アリスです……」

 ジャンさんはにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべる。

「オーケー、アリスちゃん。ここがどういうところかは覚えなくていい。後で忘れることだ。ただ、ここの外の説明はご希望だろうね?」

 ジャンさんは流れるように言葉を続ける。私は頷いた。ジャンさんは口角を上げた。

「ネコに聞いたかもしれないが、そこの扉を出た先は地上だ。地上。地面の上。オーケー?」

 私は首を振る。

「オーケーじゃないです。地面の上ってどういうことですか? 天井の上ってことですか?」

「そうだね。地下都市の天井の上って意味だと合っている」

「その、地下都市って何ですか?」

「地面の下、地下にある都市。キミ達が住んでいる街のことだね」

 私は眉を寄せる。

「地面の下って、意味が分からないです。地面は私たちの足下にあるものでしょう? その下ってどういうことですか?」

「厳密に言うと、キミ達が普段踏んでいる地面は本当の意味での地面ではない」

 ジャンさんは人差し指を振る。

「本当の地面は、今キミがネコと一緒に歩いて来た。そこが地面だ」

「……意味がわからないです」

 地面は知ってる。私たちがいつも踏んでいる、足下にあるものだ。だから、今歩いて来たところは地面じゃない。あれは天井のはずだ。

「うーん。でも、そういうものなんだよね。まずそこ納得して貰わないと、先の話が出来ないなあ」

 ジャンさんは腕を組んだ。

「じゃあ、わかりました。私達がいつも踏んでいるのは地面じゃなくて、さっき歩いて来た道が地面。これでいいですか?」

 私は仕方なく言った。

「オーケーオーケー。物分かりが良い子は好きだよ」

 ジャンさんは腕組みを解いて微笑んだ。

「さて、ここで問題だ。なぜ、キミ達は地下に住んでいるのか」

 そこが最もわからない部分なのに問題にされても困る。地上だとか地下だとかそんな事が曖昧にしかわからないままで、その質問は難しすぎる。

 でも、回答はジャンさんからあった。

「それはね。元々は地上にあった人間が住んでいた世界は、もうずーっと前に滅んでしまったからなんだ。だから、人々は地下へ逃げるしかなかった。地面を下に下に掘ったのはずーっと昔の人。そうしてそこに街を創った。少しずつ街を拡大して、今の広さになった。今の広さで十分商業施設も人々の生活も成り立つからね。それで……」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 私はストップをかけた。

「地上の世界が滅んだ? 地下に逃げた? 意味がわからないです」

「ありゃ。どの辺がわからなかったかな」

 ジャンさんは首を傾げて聞いて来た。

「大体全部です」

「大体全部!」

 ネコさんが手を叩いて笑った。ジャンさんは帽子を脱いで頭を掻いた。

「よし、外で話そう。マスクつけてね」

「え? あ、はい」

 言われた通りマスクをつけて、私はネコさんと入って来た金属の蓋を開けて外に出た。

 かぜが私を撫でつけた。やっぱり私はこれが好きだ。

「見てごらん。何もないね」

 ジャンさんが言う。

 確かに何も無かった。砂。砂だった。砂がかぜで舞っている。小さく耳に聞こえる音は、どこからくるのだろう。頬を撫ぜるのと一緒に聞こえるから、かぜは音が鳴るものなのかもしれない。

「昔は多くの国や街がこの地上世界にあった。ただ、ほとんどの人間が国と共に滅んでしまった。たった一部の生き残った人間だけが、地下都市を創り上げて、地下に逃げることで滅びを免れた」

「くに?」

「街を大きくしたようなものだね。今はそう思ってくれていい」

 はあ、と私は返事をする。

「じゃあ、私達はその生き残った人間の子孫ってことですか?」

「理解が早いね。そういうことだ」

 ジャンさんは嬉しそうに笑った。子供のように笑う人だと思った。

「地上の世界はどうして滅んだんですか?」

「いい質問だね」

 ジャンさんが言った。

「戦争だよ」

「せんそう?」

 知らない言葉だった。

「アリスちゃんは友達と喧嘩をするかい?」

 ジャンさんが問いかけた。

「はあ、たまに」

「どうやって喧嘩する?」

「大体口喧嘩ですけど……」

「物で殴ったり、物を投げたりはしない?」

 私はぎょっとして首を振った。

「私、そこまで凶暴じゃないです!」

 そう言うと、ジャンさんはお腹を抱えて笑い出した。

「あっはっは。ごめんごめん、例えの話だよ。ごめんね」

 私は顔が真っ赤になる。過剰反応をしすぎたみたいだ。

「俺が言いたいのはね、戦争ってのはようは喧嘩だってことなんだ」

「えっ、喧嘩でくには滅んだんですか?」

「うん」

 ジャンさんは頷いた。

「地上の世界は、いくつもの国があって、それぞれの国が国の住人を守ろうとしていた。だから、他の国が攻撃をしかけてきたら、守るか、攻撃をし返していた。最初はね」

「最初は?」

「国はもっと広くて大きな国になりたかった。そうすれば、もっともっと国は繁栄する。国の権力者はそう信じた。だから、他の国に攻撃をしかけた。負けた国を吸収して自分の国の物にしたかったんだね。この、他の国に攻撃をしかけることを戦争という」

「さっき喧嘩って言ってましたけど」

「国同士の喧嘩だよ。負けた方が、勝った方の言うことを聞くんだ」

 喧嘩だろう? とジャンさんは言う。なるほどと思った。私は友達と喧嘩をする。それは口喧嘩だけだけど、私が友達に攻撃をすると、友達は怪我をする。くにが、他のくにに攻撃をすると、くにが怪我をするのだ。

「そして、喧嘩をしすぎてしまった。喧嘩をすると疲れるだろう? 国は疲れてしまった。でも、喧嘩をやめることはできない。負けたら、勝った側の言いなりになってしまうから、負けるわけにはいかなかった。だから、戦争は終わることなく続いた」

 ジャンさんは遠くを見た。私もその視線を追う。そこには何もない。人が住んでいる形跡は何もない。

「その結果、皆共倒れしてしまったんだ。どの国も喧嘩両成敗ってね。地上はたくさんの兵器……攻撃するための機械のようなものだけど、それで荒れ果ててしまった。到底、人の住めるような環境ではなくなってしまった」

「それで、私たちの先祖は地下へ移り住んだんですか?」

 ジャンさんが私の方を見てにこりと笑った。

「正解。一部の技術力を持った人たちが、地下へと穴を掘った。とてつもない時間がかかったと思うよ、人が住むだけの環境を整えるのは」

 想像もできなかった。私も地面にスコップで穴を掘ったことがある。とても疲れる作業だ。それを、人が住めるほどの広さまで掘って、家を建てて、工場を作って、人が住める環境を創った。昔の人は、とても頑張ったのだろう。

「そう。生き残るために、俺たちの先祖は死に物狂いで頑張った」

「死にたくなかったから、ですか?」

「そうだね。そうだと思うよ」

 ジャンさんは頷く。そう言うジャンさんは、笑顔を消していた。真剣な表情で、遠くを見ている。何を考えているのかはわからなかった。

「でも、こんな話、私学校で習ったことないです」

 私はジャンさんに訴えた。ジャンさんはさっきまでの表情をやめて、またにこりと笑った。

「習わないさ。誰も知らない話だからね」

「知らない?」

「ずーっと昔のことすぎて、地下都市に住んでいる人達は、地上があることなんて一切知らない。キミも知らなかっただろう?」

 私は頷く。

 確かに知らなかった。街の外に知らない世界があったことも、こんなにきれいなそらがあることも。私は今まで知らずに生活していた。

「でも、こんなにきれいな色を知らないのは、もったいないと思います。他の皆も出てくればいいのに」

 こんなきれいな世界があるなら、パパやママにも見せたい。友達にも見せたい。私がみた地上の世界はこんなにきれいなんだって教えたい。

「きれい。きれいか……」

 ジャンさんは考えるように呟くと、ため息をつきながら首を振った。

「どうして、キミはマスクをしていると思う?」

「それ、ずっと疑問でした。どうしてマスクをしなきゃならないんですか? 咳が出るんですけど」

「地下にずっと暮らしていた人達は、風に当たる事を忘れた。砂が舞う事を忘れた。だから、ちょっとした乾いた風と砂に当たるだけで、咳が出るし目も乾く。目も痛くない?」

「すごく痛いです」

 私は頷いた。まるでまばたきをしないで何分もじっとしているかのように目が痛いのだ。

「ジャンさんは、痛くないんですか?」

「うん。俺は慣れたね。こっちの暮らしの方が長いから」

 ジャンさんはポケットに手を入れてまた遠くの方を見た。遠くにゆらゆらと何かが見えた。何かはわからない。

「この……地上には、壁はないんですか?」

 遠くを眺めながら私は問いかけた。

「無いよ。この世界が実は球体だなんて言っても信じないだろう?」

「球体?」

 私がわけがわからないという顔でジャンさんを見上げると、ジャンさんは悪戯っぽく笑った。

「球体。この世界は地球と言ってね。球体の形をしているんだ」

「ちきゅう?」

 またわからない単語が出て来た。地上という世界があるだけでも意味がわからないのに、この世界は球体だという。私は左右を見渡した。前後を見渡した。

「平面だと思うんですけど」

 そう言うと、ジャンさんはくつくつと笑う。

「うん。あまりにも大きな球体すぎて、俺たちが見ただけじゃ球体には到底見えないんだ」

 私は首を傾げる。球体が大きすぎると、平面に見える? 想像してみたけれど、よくわからなかった。

「ジャンさんたちは、どうして地下じゃなくて地上にいるんですか? あそこに住んでるんですか?」

 わからないことだらけだったので、聞いて理解できそうな質問をしてみた。

「地上にいる理由は、たぶんキミと同じだよ」

「私と?」

「どうしてサギをを追って来たの?」

 どきりとする。今になって怒られるのかもしれないと思った。

「ええと……見かけたことのない人がいたので……後を追ってみたんです。そしたら、扉があって……」

 おどおどとしながら話す。でも、ジャンさんは怒らなかった。

「つまり、好奇心だよね?」

 私は顔をぱっとジャンさんに向けた。

「はい! そうです! 好奇心です!」

 私の勢いにジャンさんは笑った。

「同じなんだ。どうしてこんな都市に住んでいるのか、俺はずっと疑問だった。そんな時に、地上という世界があることを知った。もう何年前になるかな。ガキの頃に地下都市を捨てて、俺は地上にやってきた」

「……家族は?」

「みんな捨ててきた。どうしてこの世界のことを知らずに過ごしていたのか。俺はそれを知りたかった。そんな好奇心を前にしたら、俺は家族を捨てるくらいどうってことなかった」

 ジャンさんは見たところ二十代だ。子供の頃に家族を捨ててきたなら、きっとまだ地下都市に家族が住んでいるはずだった。突然いなくなったジャンさんのことを、家族はどう思っているのだろう。

「……家族は、悲しんでるじゃないですか?」

 ジャンさんは首を振った。

「どうだっていいんだ。俺はこっちの世界を選んだんだから」

 選んだから。自分で選んだから、他のことは全部投げ捨てても良かったとでも言うのだろうか。それで、周りの人が悲しんだとしても。

 私にそんなことができるだろうか。今の生活をすべて投げ捨てて、一人で初めての世界で暮らす。そんなことが、私にできるだろうか。

「好奇心っていうのは毒のようなものだ。俺も、キミも、その毒のせいでこんなところに今立ってる」

「毒……」

 私は、その毒のせいで、サギさんを追いかけてきた。追わなければ、こんなきれいな世界を知ることもなかった。この世界の末を知ることもなかった。地下都市の成り立ちを知ることもなかった。

「それで、ジャンさんやネコさんたちは、あの事務所みたいなところでなにをしてるんですか?」

 ずっと疑問だったことを問いかける。この世界について知った。今度は、この世界で一体何をしているのかという疑問が浮かぶ。

「俺たちはね、また地上に世界を取り戻そうとしてるんだ」

「地上に、世界を?」

 うん、とジャンさんは頷いた。

「ここには街もない。国もない。だから、新しく街を創り、国を創るんだ」

「……そんな簡単にできるものなんですか?」

「ううん。無理だよ」

 ジャンさんは苦笑する。

「でも、誰かが始めないと、地上はこのままなんだ」

 確かにそうだと思った。

 そして思う。この広大な世界に、ジャンさんたちは手を加えようとしている。街を創り、くにを創ろうとしている。それは、あまりにも途方の無い作業だ。

 けれど、彼らはそれをやろうとしている。きっと、ジャンさんが生きている間に、くには出来ない。そんなこと私にだってわかる。それなのに、ジャンさんたちはやろうとしている。地上にみんなで、世界を取り戻そうとしている。

「さて……話しすぎちゃったかな」

 ジャンさんはまたにっこりと笑った。

「送るよ。キミはそろそろ帰った方がいい」

 ジャンさんに促されて、私はネコさんと歩いた道を逆方向に歩いて行く。

「いいかい? 誰か見ているところで扉を開けちゃいけない。必ず確認してから開けること。そして、ここでのことは誰にも言わないこと。全部忘れること。オーケー?」

 納得しないと帰さないとばかりに金属の蓋を押さえながらジャンさんが言った。

「どうして話しちゃいけないんですか?」

 私は忘れたくはなかったし、また来たいと思った。

「好奇心は毒だって言っただろう? 中途半端な好奇心は人を殺す。キミがネコに会って俺と会ったのは、偶然がもたらした幸運なんだよ」

 そうだ。ネコさんと会わなければ、私はこの地上に呆然と一人で立っているしかなかった。偶然による幸運。確かにそうだ。だから、私は頷くしかなかった。この地上で迷子になったら、きっと地底民は死んでしまう。

 ジャンさんは頷いて、蓋を開けた。

「足下気を付けて。それじゃあ、さよなら」

 私が何歩か階段を下りると、ジャンさんは蓋を閉めてしまった。しばらくそれを見上げて、私は階段を下り始めた。真っ暗闇の階段は、上る時よりも、慎重に下りないと滑り落ちそうで、上った時よりも時間がかかりそうだった。

 階段を下りながら考える。

 本当は、私の住んでいる街は昔誰かが創った地下にある街だという。地上の世界は滅んでしまった。ずーっと昔すぎて誰も地上があるなんて知らない。地下都市がすべてだと思っている。

「全部忘れろだって」

 私は階段を踏みながら言葉にする。

 そんなの無理に決まってる。だって、私は今まで、あんなにきれいな青色を知らなかったんだから。

 好奇心は毒だ。私はその毒を飲んでしまった。飲む前になんて、戻れない。

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