空を飛ぶ
羽山涼
第1話<完結>
「俺、いつか空を飛ぶんだ!」
先程までテストの答案用紙だった紙を折りながら、アストンが言った。その手元を見ながら私は首を傾げる。どうやって、と私は問う。
「それは、まだわかんないけど……」
言いながら、三角形に似た先端の尖った形に折られた紙は、アストンの手から離れて、スイーと空中を飛んで行った。それはだんだんと高度を下げて、地面に落ちた。
紙であれば、今のように一時的に飛ぶこともできるだろう。鳥も羽ばたいて飛ぶことができるだろう。それでも、人間は紙のように軽くもなければ、鳥のように羽ばたくことも出来はしない。
「何言ってんだよ!」
アストンが急に立ち上がった。
「陸は蒸気機関車や車が走って、海や川は蒸気船が人を運んでる! そうとなれば、次は空だろ!」
両腕を大きく広げてアストンが言う。
産業革命は人々に様々な恩恵を与え、人も物もずっと速く運べるようになった。物理的な距離は変わらなくても、それらは確実に物の距離を変えた。
次は空、という言葉もわからないわけではない。既に多くの学者たちが挑戦しようとしている。だが、未だ成功例がない。
「俺は挑戦するぞ! 空が俺を待ってるんだ!」
アストンは真っ青な空を見上げて叫ぶ。
「いつか、お前を連れて飛んでやるからな! 待ってろよ!」
そう言って、アストンは輝く笑顔で笑って見せた。
私たちがジュニアハイスクールを卒業する前日だった。
アストンはハイスクールに通いながら毎日家で研究を続けていた。それでも、子供のお小遣いで出来ることなんて限られていて、何か成果を得られたという話は聞かなかった。
大学に入って、アストンは物理学を専攻した。私は外国文学を選択し、アストンとはここで初めて学校が分かれた。
会わない日々が続いて一年程経ったある日、アストンが新聞紙を握り締めて我が家を訪れた。息を切らせて持って来た記事は、ドイツのリリエンタールが何度目かの短い有人飛行に成功したというものだった。
「ほらな! 人間は空を飛べる! 絶対に!」
きらきらと輝く目で私を見てそう言った。
その目を見て、ああ、まだ諦めていなかったんだな、と私は幼い日のことを思い出した。私を連れて空を飛ぶと言った彼の目と変わらなかった。
「そして、俺が空を飛べたら、付き合ってくれエミリー!!」
ついでとばかりに、彼はあろうことか我が家の玄関先でそんなことを叫んだ。
空のような青い目は真剣で、茶化して笑うことも出来ず、私は「はい」と素直に頷いた。
私たちが十九の時だった。
アストンの方は大学で本格的に物理学の勉強を始めたこともあり、様々な実験も行えるようになったようだ。時々私のところに遊びに来ては、有人飛行の夢を語って「あと少しだ」と言って帰って行くことを繰り返していた。
大学を卒業し、私は新聞社に就職した。仕事が忙しくなり、アストンと会うことは無くなった。就職はせずに、同志たちと実験を続けているらしいことを風の噂で聞いた。
ある日、新聞記事を書いていると、別のデスクにいた外国部署の人が、「ドイツのリリエンタールが墜落死した」と言っているのを耳にした。リリエンタール。その名前に聞き覚えがあった。アストンが、有人飛行に成功したのだと言って新聞記事を持って来た時に聞いた名であり、数々の飛行実験が報道されている有名な研究者だった。詳しく話を聞くと、いつものように弟と共にグライダーを使って飛行実験を行っていた際に失速し、体勢を立て直そうとしたが失敗。約48フィートの高さから落下したのだという。
リリエンタールの実験で、アストンの言っていた「人間は空を飛べる」とは本当だったのだと私は思うようになっていた。それだけに、この事件はショックだった。
私はこの訃報を持って、数年ぶりにアストンの元を訪ねた。落ち込んでいるだろうと思ったのだ。だが、私を迎え入れたアストンに落ち込んだ様子は無かった。
「リリエンタールは失敗したけど、たくさんのことを俺たちに遺してくれた。俺たちは絶対に成功させる」
そう意気込むアストンの目は、数年前に見た時と変わりなかった。
19世紀末の夏のことだった。
リリエンタールの失敗の後、アストンたちは同じようにグライダーでの飛行を試しているのだと、久しぶりの手紙に書かれていた。リリエンタールは約820フィート飛ぶのが最高距離であり、アストンたちはその距離を越えることはまだ出来ていないとも書かれていた。研究は難航しているようだ。それでも、アストンは短い距離を飛ぶことは出来ていると書いていたので、私は安心して次の手紙を待つことにした。
そして、連絡はそれっきり完全に途絶えたが、アストンは研究を続けていると私は信じていたし、成功したら真っ先に連絡をくれるだろうこともわかっていた。
そんなある日、相変わらず新聞社で忙しく仕事をしていた私の元に、一件の事件が飛び込んで来た。
市内で有人飛行を実験していた研究者が墜落死した、と。
真っ先にアストンのことが思い浮かび、その件の取材は自分がすると言って事件を持って来た先輩に謝罪して、私は現場に急いだ。
結果。墜落死したのは、アストンだった。強風に煽られてグライダーが傾き、そのまま50フィート下の地面に叩きつけられたのだという。
涙は不思議と出なかった。事件の顛末をメモに書き込んでいく私は記者の私であり、亡くなったのは研究者の一人だった。その研究成果を失敗だったのだと嘆いてはいけない。研究を続けた彼らに敬意を持って接さなければならない。もちろん、アストンにもだ。
こうして、アストンは私を置いて自分ひとりだけ空へと飛びたった。
20世紀に変わったばかりの春のことだった。
その後、1903年。国内のウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトの兄弟が、世界初の有人動力飛行を成功させた。世間はこれを信用せずに反発した。各所の新聞や研究者は「機械が飛ぶことは科学的に不可能」であるとの見解を示し、ライト兄弟を認めようとしなかった。民間人であった兄弟の偉業を素直に受け止めることが出来なかったのだろうと思いながら、小さな新聞社であった我が社では、ライト兄弟の成功を大々的に報じた。
1909年秋。弟のオーヴィルが、リリエンタールのいたドイツで飛行デモンストレーションを行うということで、社長に記者として同行させてほしいと直談判して、単身ドイツへと向かった。
リリエンタールの功績に敬意を表し、彼に影響を受けたのだと言ったライト兄弟は、ドイツという地で飛行機を飛ばせて見せた。
その光景を見ているのが夢を見ていたアストンではなく私だったのは、ある意味では正しかったのだろうと思う。空を飛ぶのがアストン。そして、それを見ているのがきっと私だったのだ。
だから、一人空へと旅立ったアストンを、私は追うことはしない。悲しむこともない。結果は残念だったかもしれない。けれど、彼はきっと最後まで幸せだったことだろう。夢を追いかけ続けて、そうして死ねたのだから。
ちなみに、私は複数の男性から交際を持ちかけられたことがある。だが、この歳になっても「先約があるから」と言ってすべて断っている。
ある意味でアストンは空を飛んだ。だから、私は彼と付き合わなくてはならないのだ。そんな言い訳をして、私はこれからも誰かと交際することはないだろう。一人でこうして、空を飛ぶ人たちのことを取材していければいいと思っている。
そんな、とある新聞社の一記者の昔話であった。
今日はアストンの命日。空は青く澄み渡り、絶好の飛行日和だ。
きっとこの青空の中をグライダーで飛んでいるのだろうと、私は空を見上げ、幼馴染に思いを馳せるのだった。
この空を自由に人が飛ぶことが出来るまで、まだ数年かかるに違いない。一般人が乗れるようになった暁には、今度は私がアストンのいる空まで会いに行こうと思う。
空を飛ぶ 羽山涼 @hyma3ryo
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