窓ガラス越しの君に会いたい

羽山涼

第1話<完結>

 今日の天気は雨だった。

 別に雨は嫌いじゃない。ただ、まとわりついてくる湿気が若干鬱陶しいと思うくらいだ。案の定、湿気のせいで窓が曇っている。

「あれ」

 理科室の窓に、何か文字のようなものが浮かび上がっている。

『誰か僕に気付いてくれる?』

 指の油分が、湿気をはじいて、文字が残っている。きっと誰かが悪戯書きでもしたのだろう。

 私は手を伸ばして、文字の下にこう書いた。

『気が付きました』

 そう残すと、私は授業へと戻った。

 次の理科の授業の日。また雨が降っていた。ニュースでは梅雨前線がどうとか言っている。しばらく雨が続くかもしれない。

 ふと、窓に目を向け、目を丸くした。また別の文が書かれていたからだ。

『君の名前は? 僕は笹原秀一』

 知らない名前だった。同じ学年にはいないはずだ。一年生か三年生だろう。

『私は森口あかね』

 こうして、私と笹原くんの理科室の窓ガラスという場所で一文だけのやりとりが始まった。

『授業は楽しい?』

『先生の声で眠くなっちゃう』

『あかねちゃんは何年生なの?』

『二年生。笹原くんは?』

『三年生だよ

 理科室の窓は毎日掃除で拭かれるから、私の文を見ているということは、私の授業が終わってから掃除の時間までの間に私の文を読んでいるということになる。他の学年の授業なんてわからないから、そんな三年生のクラスがどこかにあるのだと思う。そうじゃないと、会話は成立しないからだ。

 理科の授業の度に、今日は何が書いてあるんだろうとわくわくする。当然、梅雨の時期の時々の晴天の日にメッセージは読めない。湿気の多い雨の日にしかメッセージは読めないのだ。

 顔も知らない相手とメッセージのやりとりをするのは楽しかった。つまらない授業がどんどん楽しみになっていくのを感じた。梅雨の時期が滅入るなんてことはなく、私にとって雨の日というのはとても楽しい日になったのだ。

『笹原くん、今度会わない?』

『どうして?』

『会って顔が見てみたい』

『別にかっこよくないよ(笑)』

『かっこよくなくてもいいよ!』

『それもひどいね!』

 数日に一度のやり取りは楽しかったけれど、私はどうしても笹原くんに会ってみたかった。憂鬱な雨の日という日を楽しいものに変えてくれた笹原くん。窓ガラスを使ってメッセージのやり取りをするなんて、きっと楽しい考えを持った人なんだろう。

『梅雨が明けるね』

 笹原くんがそんなことを言った。

『雨が降らなくなっちゃうね』

 私はそう返した。

 雨が降らなくなるとどうなる? 窓ガラスにメッセージを書くことができなくなる。笹原くんとの繋がりがなくなる。

 私はどうしても笹原くんに会いたくて、実験をすることにした。

 掃除の時間に理科室に行ってみた。掃除をしている人たちに怪しまれながら、窓を見た。私が書いた文字で途切れていた。

「また、窓にラクガキしてある!」

 女子生徒がそう言いながら窓ガラスを拭いていた。私は心の中で、ごめんね、と謝った。

 今度は学校に早く行って、授業の前に理科室に行ってみた。

「えっ」

 窓ガラスには既に文字が書いてあった。

『今日は早起きだね、あかねちゃん』

 私は目を丸くした。

「なんで?」

 だって、今日は理科の授業がない。つまり、私がこのメッセージを今日読むことを笹原くんは知らない。それに、「早起き」だなんて、今日たまたまなのに、まるで見ているように笹原くんは言う。

『笹原くんはどこかで私を見てるの?』

 そう書いて、私は授業開始のチャイムが鳴るのを聞いて、慌てて理科室を飛び出した。

 翌日の理科の授業の時、私は急いで理科室に向かった。今日はもちろん雨。窓ガラスには返事があった。

『ひみつ』

 私は少し考えて、今度はこう書いた。

『笹原くんのことがもっと知りたい』

 私は毎日笹原くんのことを考えていた。今日は雨だろうか。今日は何て書いてあるだろうか。そう考えるのが日課になっていた。

『僕のことを知っても楽しくないよ』

 笹原くんはそう書いてきた。私はムキになって、返事を書かなかった。代わりに、三年生のクラスに突撃することにした。突然現れて驚かせてやろうと思ったのだ。

 何組にいるかは聞いたことがなかったから、とりあえずA組に突撃して聞いてみることにした。

「すみません」

「二年生? どうしたの? 何か用?」

 教室のドアの近くにたむろしていた女子生徒二人組が振り返ってくれた。

「あの、三年生の笹原秀一くんを探しているんですけど、何組か知りませんか?」

 問いかける。

「笹原秀一? そんなやついたっけ?」

「知らーん」

 二人は顔を見合わせて首を傾げる。先輩たちは、近くの男子生徒を呼んでくれたけれど、やっぱり笹原くんのことは知らないと言った。クラスも多いし、知らないだけかもしれないと先輩たちは言ってくれた。収穫が無いのをちょっと残念に思いながら、私は頭を下げてA組を後にした。

「負けるもんか」

 私はぐっと拳を握る。その後も、B組、C組、と昼休みの間に全部のクラスを突撃しようと思った。

 そこで、おかしいことに気が付いた。

 どのクラスにも、『笹原秀一』という生徒がいないのだ。

「もしかして、笹原くん偽名使ってる!?」

 私は昼休みの残りの時間で理科室に駆け込んだ。そして、今日はまだ何も書かれていなかった曇りのやや足りない窓ガラスに乱暴に書き込んだ。

『笹原くん、ちゃんと本名教えて!』

 昼休みが終わり、私は自分の教室へと戻る。

 翌日の雨の日。理科の授業で笹原くんから返事があった。

『本名だよ。どうしたの?』

 私はその文字を読んでまた考える。笹原くんは、自分の名前を本名だと言う。もしかして、三年生だというのが嘘なのか? そう思って、私は今度は理科の先生に聞いてみることにした。

「先生―!」

 授業が終わって、先生に声をかける。

「どうした、森口?」

 教室を出て行こうとした先生が振り返る。

「先生、笹原秀一くんって何年生の何組か知ってますか?」

「笹原?」

 先生は怪訝そうに眉を寄せて、考えるように天井の方を見た。

「そんな生徒いたかなあ。俺が受け持ってないだけかもしれないけど」

「ええー。じゃあ、他の先生にも聞いてみてくださいよお」

「そいつがどうかしたのか?」

 まさか、授業の度に、授業を聞かずに笹原くんのことばかり考えてるなんて言えない。ちょっと、と言って笑ってごまかした。先生は他の先生にも聞いてみてくれると言ってくれた。これで、次の授業までには笹原くんの正体がわかるはずだ。

 そう思っていた私のところに、その日の放課後、先生がやってきた。

「森口、ちょっと」

「宇野先生?」

 理科の先生だ。何やら深刻そうな顔で私を呼ぶ。

「どうしたんですか?」

「お前、『笹原秀一』っていう生徒を探してるって言ってたな」

「はい。もしかして、見つかったんですか!?」

 私は目を輝かせて問う。それに、先生は眉を寄せた。

「……どうして、その生徒のことを知りたいんだ?」

「どうしてって……そう言われても」

 それは気になるからだ。毎日天気を気にして、授業があるかどうかを気にして、毎度なんて書いてあるかを気にしている。私の今年の梅雨の季節は笹原くんとの出会いで始まった。そろそろ梅雨も明ける。笹原くんとのメッセージのやりとりも終わってしまう。だから、私は本人に会わなければならないのだ。

「大塚先生にその生徒のことを聞いてみた」

 大塚先生とは、理科を受け持つおじいちゃん先生だった。この学校にもう何年も勤めている。

「笹原秀一という生徒は確かにうちの生徒だった」

 そんなことはわかっている。問題は、何年何組にいるかってことだ。

 宇野先生の表情は曇りの日のように浮かない顔だった。

「笹原秀一は……十年前に、理科室から落ちて事故死した生徒だ」

「……え?」

 私は目を丸くする。

 十年前? 事故死した? 意味が分からない。

 だって、私はいつも、笹原くんとやりとりを――

「おい、森口!」

 私は先生の脇を抜けて、廊下を走った。階段を駆け上って、息を切らせて掃除の終わった理科室に駆け込んだ。窓ガラスには既に文字が書いてあった。

『僕のことを聞いたんだね』

 笹原くんは、私がどうして理科室に飛び込んできたのか知っていた。

 誰もいないのに、文字が書かれていく。

『僕は十年前に、雨に濡れた手すりで滑って、教室から落ちて死んだんだ』

『ちょうど梅雨の時期だった』

「……事故って聞いた」

 私は窓ガラスに向かって言う。

 文字は続いた。

『事故じゃないよ』

「……え?」

 私は目を丸くする。

 文字は隣の窓ガラスに移った。

『雨の日だった』

『僕の教科書が外に投げ捨てられた。それを取ろうと手を伸ばした時に、手を滑らせたんだ』

『そうして、僕はこの四階から下に落ちた』

「そんなっ……笹原くんは殺されたってことじゃない!」

 私は理科室で叫ぶ。

『でも、事故ということにされた。目撃者は、僕の教科書を投げ捨てたやつらしかいなかったから』

『誰も本当のことを話さなかった』

 私は思わず床に座り込む。呆然と、その文字を目で追いかけることしかできなかった。

『いつも僕に付き合ってくれてありがとう』

『あかねちゃんが初めてだったんだ。僕に気が付いてくれたのは』

 誰もが、窓のラクガキだと思って気にしなかったのだろう。それに気付いて、返事を書いたのは私だけだった。この十年間。きっと、梅雨の時期だけ、笹原くんはこうしてメッセージを書いては、誰にも気付かれなくて落胆していた。

「私……笹原くんに会えないの?」

 涙が出そうだった。きっといつか会えると思っていた。この鬱陶しい雨を好きにさせてくれた人に、私は会えると信じていた。

『ごめんね』

 笹原くんはそう言った。

 そうして、急に窓に手形が現れた。手のひらが窓にあてられたのだと気付いた。

 そこに笹原くんがいる。私は慌てて立ち上がって、その手形に自分の手のひらを重ねた。私より少し大きい手だった。窓ガラスを挟んで、私たちはそこに立っているようだった。涙のように、滴が窓ガラスを伝って落ちていく。

 隣の窓ガラスに文字が続いた。

『あかねちゃん。もしよかったら、僕のお墓に遊びに来て』

『君の好きな花を持ってきてくれたら、僕は嬉しい』

 笹原くんはそう言うと、最後にこう書いた。

『君と会えてよかった』

「私もだよ」

 窓ガラスに手のひらを押し付けたまま、私は呟いた。

 それを最後に、文字はもう続かなかった。

 外を見ると、雲の隙間から太陽が顔を覗かせていた。雨はやんでいた。

 翌日も、その翌日も、もう窓ガラスに文字が書かれることは無かった。

 もうすぐ梅雨が明けると予報があった。きっと今日の雨が最後だろう。明日から暑くなるとニュースで言っていた。

 私は窓ガラスにこう書いた。

「笹原くんが好きでした」

 どうやら私の恋も、梅雨と一緒に終わったようだった。

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窓ガラス越しの君に会いたい 羽山涼 @hyma3ryo

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