乗り越えなきゃいない壁

 海上かいじょうにホーンのおとひびき、波間なみまれるモーターボートの船上せんじょうなにとりのシルエットをいたはたがった。


五分前ごふんまえ!」

 キャビン入口いりぐちのステップにってハッチからあたましている田口たぐちさんが、自分じぶん腕時計うでどけいにらみみながらさけんだ。

「タック!」

 ディラーをにぎ栗栖くりすさんがうと、ほかみんな機械きかいのようにととのったうごきでメインセイル、ジブセイルを操作そうさする。『黒魔術くろまじゅつ』の回頭かいとうわせてジブセイルが綺麗きれい裏返うらがえって風向かざむきの変化へんか対応たいおうする。


 タックとは、風上かざかみかってななめにはしっているヨットが、いったんかぜたいして真正面ましょうめんき、さらに反対側はんたいがわまわって、最初さいしょとはぎゃくななきになることだ。このとき、もし最初さいしょフネのみぎからかぜけていたとすると、タックのあとひだりからけることになる。ジブセイルはフネの風下かざしもがわるものなので、タックちゅうえてやらなきゃならない。

 ジブセイルには二本にほんのジブシートがつながっていて、フネの左右さゆうけられている。タックのときには風下側かざしもがわのジブシートをゆるめて、風上かざかみ(タック風下かざしもになる)がわのシートをんでやる。するとジブシートはマストのまえとおって反対舷はんたいげんかえる。

 このときモタモタしてると方向転換ほうこうてんかん時間じかんかり、船速せんそくちてしまう。

 『韋駄天いだてん』では馬頭ばとうさんが完璧かんぺきにジブシートをあやつるけど、『黒魔術くろまじゅつ』のジブシート担当たんとうである大山おおやまさんと下川しもかわさんもけずおとらず完璧かんぺきなシートさばきだ(馬頭ばとうさんは一人ひとり左右さゆうのジブシートをあつかうけど、フネがおおきくて左右さゆうはなれている『黒魔術くろまじゅつ」では、二人ふたり左右さゆう分担ぶんたんしてる)。

 そのあとスタートまで何度なんどもタックをかえしたけど、毎回まいかいセイルはビシッとまってまったくタイムロスしない。


一分前いっぷんまえ!」

 ホーンのおと同時どうじ田口たぐちさんがさけんだ。まわりのフネがどんどんあつまってきて、スタートラインの場所ばしょりがはげしくなってくる。あちこちで怒鳴どなこえこえる。自分じぶん優先権ゆうせんけん主張しゅちょうってるんだ。佐之島さのしまのレースとは緊迫感きんぱくかん全然ぜんぜんちがう。

 ほとんどのフネが横一線よこいっせんならんでスタートラインをえそうになったときホーンがった。スタートの合図あいずだ。

 『黒魔術くろまじゅつ』をふくむほとんどのフネがまとまって風上かざかみマークを目指めざす。初心者しょしんしゃぼくでも、佐之島さのしまのフネたちとははしりが全然ぜんぜんちがうとわかる。


 風下かざしもマークから風上かざかみマークまでの距離きょり佐之島さのしまのときより倍以上ばいいじょうながいはずなんだけど、どのフネもあっと風上かざかみマークに到達とうたつして回航かいこうし、するするとスピンをげていく。

 なかよりもすこまえ順位じゅんいかみマークをまわった『黒魔術くろまじゅつ』も風下かざしもくやいなやスピンをげた。バウマンの田口たぐちさんのうごきは完璧かんぺきだ。れするくらいに。


 それからも『黒魔術くろまじゅつ』は完璧かんぺきなクルーワーク(ふね乗組員のりくみいんのことをクルーってう。クルーワークは乗組員のりくみいんはたらきのことだ)でいいはしりをつづける。それでも順位じゅんいがらない。ほかのフネのはしりもみんな素晴すばらしい。佐之島さのしまはレベルがひくいって栗栖くりすさんにわれるのもわかる。


栗栖くりすさん! 右海面みぎかいめんさそうです」

 キャビンのなかなに作業さぎょうしていた田口たぐちさんがハッチからあたましてった。

了解りょうかい! タック用意ようい!」

 栗栖くりすさんの合図あいずほかのメンバーがスタンバイする。

「タック!」

 それまで風下かざしもから左斜ひだりななめにはしっていた『黒魔術くろまじゅつ』だけど、方向転換ほうこうてんかんして右斜みぎななめにはしした。ほかのフネがみんなひだりかうなか、『黒魔術くろまじゅつ』だけみぎはなれていく。やがてつよかぜいてきた。セイルにあたたる風圧ふうあつで『黒魔術くろまじゅつ』のハルがぐっとかたむく。同時どうじ船速せんそくがる。かみマークをまわるためにほかのフネと合流ごうりゅうしたとき、『黒魔術くろまじゅつ』は三位さんいになっていた。そして最後さいごまでその順位じゅんいをキープしてフィニッシュした。


        * * *


敵情視察てきじょうしさつたから一人ひとりせろだなんて、デンさんじゃなきゃえないよね」

 マリーナにかえる『黒魔術くろまじゅつ』のティラーをリラックスした様子ようすにぎ栗栖くりすさんが、わらいながらった。

「ご迷惑めいわくおかけします」

「いやいや。それで『黒魔術くろまじゅつ』の弱点じゃくてん見付みつけられたかい?」

完璧かんぺきにしかえません。てるがしません」

「おいおい、そんな弱気よわきでどうする。そんなんじゃ陽毬ひまりちゃんにきらわれちゃうぞ」

「あ、阿久津あくつさんは関係かんけいありません!」

「いいじゃないか。青春せいしゅんだな」

「もう……ちがうのに……あっ、そうだ。おしえてしいことがあるんです」

なんだい?」

「みんながひだりったのに、このフネだけみぎったことがあったじゃないですか。あれで随分ずいぶん順位じゅんいがりましたけど、どうしてなんですか?」

極秘事項ごくひじこうだけど特別とくべつおしえてあげよう」

 栗栖くりすさんは勿体もったいつけたかおった。

気象会社きょうがいしゃってわかるかい? 天気予報てんきよほうってる会社かいしゃだよ。そこと特別とくべつ契約けいやくをしてピンポイントの気象情報きしょうじょうほうれてるんだ。それに田口君たぐちくん気象予報士きょうよほうしだから、レース海面かいめんにどんなかぜきそうかこまかく予測よそくできるんだよ」


 桟橋さんばしもどり、栗栖くりすさんたちにおれいってわかれたぼくは、小浪こなみさんをさがしてマリーナのなかあるまわった。隅々すみずみまでたのに見付みつからないとおもったら、マリーナの事務所じむしょ清水しみずさんほかマリーナのスタッフたちとおちゃしてた。


        * * *


 かえりのけいトラのなかで、ぼくは『黒魔術くろまじゅつ』でたことを小浪こなみさんに報告ほうこくした。ぼくのクルーワークはこれからの練習れんしゅうでまだなんとかなるだろうけど、気象情報きしょうじょうほう手強てごわい、というのが小浪こなみさんの感想かんそうだった。

年金暮ねんきんぐらしには気象情報きしょうじょうほう余裕よゆうなんてえからな」

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