別で考えてたキャラの小話
次駅(じえき)スグ
白樺良秀
白樺良秀は困難に陥っていた。
去年の3月に良秀はついに遠くの学校へと転校を果たした。まだ小学生だった良秀は問題児と歩く問題児として、良秀の側から見れば「共謀者」として、どこまでも深い困難に陥った末に良秀の住まう箱庭ごとの変更を余儀なくされた。
小学6年生、白樺良秀は困難に陥った。
その罪が薄々己にあることを、芯から溢れかえるそれから目を背けようとすることで困難に陥っていた。
白樺良秀がある日教室に入ると、教室の状況は一変していた。
今まで親しんでいた彼らは目の白い部分を光らせ、バカバカしいと嘆息する彼らは青空を見たままこちらを見る事なく、日常に飽き飽きしていた彼らは机のデコレーションに勤しむばかりだった。
良秀は人の悪意には気づいても、その機微を汲み取ることは得意ではない。
唯一良秀に話しかけたのはその親しんでいた彼だった。
良秀が喉元に妙なつっかかりを覚えたまま通り過ぎようとすると、彼はようやくこちらを見ることなく口だけを開いた。
「あの事件の共犯だったってマジ?」
こいつ、背中から見るとシャツの横に張った縫い目がやたらと広く見える。咄嗟にバカみたいなことを良秀は考えてから、良秀はようやく身体の感覚が無い自分に気付いた。
「否定しないのか」
良秀は後悔した。こんな時にどうするのか、考えるには時間が足りない。
喉元のつっかかりは通り過ぎることがなかった。
今度は問いかけることは無かった。それが彼との最後の言葉になった。
彼は青空を見る一人に混ざった。
時間が経つにつれて良秀はある種、納得をした。因果がそれならば構わない。自分は甘んじて受け入れよう。破滅へと向かう彼らと、狂気的に混ざり合っていく感情。良秀は一歩引いたまま、そして冷たい温度が自分の表層の上を覆っていくのをただ見ていた。
そしてそう思わなければやっていけない。
ところが良秀がいつものように物を隠されていた時、ついに学校というシステムの堪忍袋の緒が切れた。
手を引かれた彼らが別室へと消えていく。しかし、良秀の身体に一番触れることが多かった彼だけは違った。彼は手を引かれないままロッカーの上に上がると「俺は自由だ」と、まるで王位を継承した直後のように宣言を果たした。
「どうしてこんなことをするのか」
すると彼は教科書を丸めてこう言った。
「俺の家は辛い」
曰く、親は家庭を放置しており、両親はひたすら喧嘩を繰り返している。
曰く、その割に親は厳しい受験を強いる。
曰く、ずっと俺はひとりぼっちだ。
曰く、このまま人生が成功してなんになる。
まるで蚊帳の外に心を置いていた良秀は雷を浴びたように立ち竦んだ。
その質問をした彼は一生懸命言葉を選んだ。そしてどの感情を出すべきかを吟味した。そして最後に困り果てたように、一瞬良秀を見た。怒りを出すには抑圧だ。同情を示すには味方を減らすことになる。なにより敵と味方の区別だけを見てきた子供には、同情と同意の区別がつかない。
最後に彼は目を閉じた。そしてゆっくりと開き、「それに白樺は関係あるのか」と言った。
ロッカーの上に座った彼は冷水を浴びたように涙目を浮かべ、「俺はどうする」とだけ言った。
話にならずに彼は悲鳴を上げ、授業は中断された。
しばらくして、良秀に唯一の質問を投げかけた彼は「よう」とだけ言って良秀の隣に帰ってきた。
良秀はその瞬間に自分が爆発したと思った。まるで時限爆弾の期限が来たように。
「あいつ、そんなことってあるかよ!」
しかしその一方で、良秀はただ冷静に自分をただの他人として見ていた。
そりゃあ、そうだろう……俺が言える立場か……なにを言っている……。
「机に落書きしやがって、あいつ、この、この野郎!」
それはほとんど連鎖爆発のようだった。
するとしばらく沈黙が下りた。
彼はわあっと睨み、自分の頭を掴み上げるように叫んだ。良秀以上に。
「俺はあいつの家と同じかそれ以上だぞ!」
それは自身を否定されたものの叫びだった。
良秀は怯えた。彼がそれほど感情を出すのは初めて見たからだ。
「俺はそんな家から出てきて、あいつがやっていいなら俺なんかもっとやっていいに決まっているだろ!」
それから先はほとんど独白録だった。昼の休憩中、時間の許す限り彼は話し続けた。
「でも俺は努力して乗り越えた。努力したんだ! ずっと正常なまま我慢してきたんだぞ! ふざけるなよ!」
すると満足したように彼は座った。
「ね、お前も泣き言を言うんじゃないよ。こういうのは、社会に出てからもずっとあるだろうから、一緒に耐えよう」
それからの彼は、繰り返し「頑張ろう」と根気よく良秀を励まし続けた。時には良い引っ張り役として、時には激励役として。
それなのに良秀は、彼と言葉を交わす度に砂を噛むような心地を覚えていた。
良秀が中学校へと訪問した時、良秀は羽の生えたような解放感と共に、席に座っているだけで飛行機が飛び立つように、そこが式典の席から観客席に変わるのを見た。入学式の後は部活説明会だった。そこで初めて良秀は本気で拘った演劇というものを見た。
スポットライトの中で彼らは言う。
「人間は愚かだが美しい」
繰り返し彼らは誓う。
「人間は愚かだが美しい。美しくてわからない。分けた所で分からない。あなたのことなんて私があなたになるまでわからないのでしょう。けれどもあなたの苦痛が、今私に雨となって降りますように」
そして彼らはたった一人彷徨い続けた結果、同じ境遇の中で得られた友と抱き合った。
そのスポットライトが二人を照らし出して、それから静かに消えた時……良秀は涙が溢れているのを感じた。
そのライトが消えた後、彼らはお互いを質問しあった。
その一人がマイクを持ってこう言った。
「僕は憑依するタイプですね。役がやったことをマネしてみたりします」
良秀はその時、演劇部に入ることを決めた。
「人は愚かだが美しい……」
帰り際、ぽつりと良秀は呟く。
「人は愚かだが美しい……」
意外に影響を受けやすいタイプだったらしい。好きな人に影響されて事件を起こすくらいだ、過度なまでにロマンチストだったに違いない。けれども音楽に興味はなく、起承転結にしか興味はなかった。
良秀が教室に入った時、社会はどこもこうなんだ、と合点した。
片隅で彼女らは日陰で散々に友人の陰口を暴露している。
彼女らはこう言った。
「どうして自分で気付かないんだろう」
それを聞いた瞬間、良秀は衝撃を受けた。その正体がなにかも分からないまま。
そうだ、何故気付かなかった……自分は今まで彼らの気持ちが分からないままだった。馬鹿だと思うのは簡単だけれども、自分は彼女らの“前”を知らない。なにがあってこうなったかも知らない。
良秀はあのスポットライトの下に居た先輩の、「彼そのもの」という横顔に撃たれたままだった。
「良秀くん、君あの先輩のこと尊敬してる?」
突然聞いて来たのは引退したはずの3年生だった。
「……はい。それがどうしたんですか?」
そこに駆け引きのようなものはないと判断して慎重に良秀は返事をした。
「だって君、あの子と同じ役の入り込み方しようとするけど、君は真面目すぎる」
ヒソヒソと、まるで聞こえてはならないかのように声を潜めた。それに良秀は顔を顰めた。
「やめた方がいい。それはあの子が特殊だから出来ることだ。同じやり方はやめなさい」
「よくあることでしょう」
「下手をすれば舞台上の自己愛になりかねないよ」
その物言いに良秀はカチンと来た。
「その言い方はないんじゃないですか」
「とにかく、それはやめなさい」
良秀が怒った自分に気付いた瞬間、その間に先輩は去って行った。
「人間は愚かだが美しい」
それが口癖になっていた。演劇部を辞めた後も。
人間関係のいざこざに、尚も良秀は付き合い続けたが、そこに理解の限界を見たのだ。それを良秀は、「力不足」と断定した。自分の至らなさが。尚も人間を理解しきれない、そして誰の敵にもなりたくないという優柔不断さに。
「片隅の人間まで理解できたなら」
セリフを改変してみた。
「優しくなれたなら」
神さまから見れば自分も愚かな人間なんだろう。
美しく思えないという愚かさを持つ。
けれどももしもそれが仏教の方だったなら、それは執着だった。
「誰も嫌えなかったなら」
良秀は漫画で努力をしていない人を見下す描写が嫌いだった。そんなの分からないだろう。そんな漫画はやめた。
小説で性格が悪い、と一刀両断する描写が嫌いになった。そんなことを言ってなんになる? 自分が言われたら分かることなんて既に気付いているだろう。読むのをやめた。
……本でいじめっ子がまるで断罪されるように殺された。読むのをやめた。
事件に加担した犯人も「あなたも同罪だ」と探偵に指を指されていた。後味が悪い。やめた。
断罪がなんになる。あるのは、あるのは、やめた。
見下している人を見下す自分に気付いた。やめたかった。
良秀は自身の顔の皮を剥がしたいという欲求に駆られた。そうして別の自分になり、なににも動じない、理想の人間になる。
物事には理屈がある。皆そうなった理由がある。良秀は暇さえあれば体験記を読むようになった。人間の中にも起承転結がある。そうして遠く離れた状況で心の痛まない自分が嫌いだ。人の痛みをエンターテイメントみたいに扱う人間が嫌いだ。
心情を呑み込め。苦い思い出は喉を鳴らして胃に溜めろ。想像がつかないなら暗示をかけろ。
勉強中に唯一流していたのはラジオだった。良秀の家ではテレビを見る習慣はなく、スマートフォンは時間制限があった。
ラジオが流れ出す。
「お悩み相談のコーナー!」
ラジオパーソナリティは穏やかな調子を持って自分の周りに、こんな風に寄り添える人間はいなかった。いたかもしれないが、共感を持って話す。エンターテイメントにするのかと思った。ところが思っていたより真摯に話していた。
良秀は思った。ラジオパーソナリティになりたい。
けれども彼は、言う時は言う。まるで麻酔を与えないように。
良秀は誰のことも悪く言いたくはなかった。自分には励ますことも出来ない。
良秀には麻酔を渡さないことはできない。不治の病にかかった者の最期にモルヒネを投与するように。
良秀はそれだけ書いて出したものの、それから良秀は高校に上がる受験生になり、演劇からもラジオからも遠のいた。
その間、良秀は『頭の良い人』の役を演じた。
良秀の頭にはいつでも、事件を起こした彼女のことが頭にあった。自分が共謀者として隣り合った彼女のことだった。
「どうして他人事みたいに励ますの?」
彼女は人を殺して消えた。
自分はそこにいた。良秀は時々自分の掌を見つめた。彼女と繋いだ手、彼女と殺した手、止められなかった手。
「……人のことなんて、結局わかるわけがないだろう……」
うっすらとした柔らかな風になりたいと良秀は願った。
人間をやめたいと願った。
「これが今ラジオをしているきっかけだ」
肘を突いて聞いていた友人は二人。一人は目を閉じて、一人は机に肘をついて聞いていた。
「……これはとある友達の受け売りやけど」
面白がっているのか、ただどうでもいいと思っているのかは分からないが、とりあえず笑顔を浮かべたままだった。
「そいつは目には見えないものを大切にするってしょっちゅう言っててさ」
肘をついたままそいつは拳で口元を隠した。笑顔なのかはいよいよ判別が難しくなった。
「そいつは昔、そいつのせいでもないことまで自分を責めてて、最後には理不尽にすら気づいてなかった。けど、今はさ」
彼らしくない表情だった。
「目には見えないまま大切にするんだと。見えない事象を。もちろん自分すらも見えない存在だって」
そこで彼は目を逸らした。
「演じるなら嘘で良くね? この話する前、俺がどう言うと思った?」
しばらく押し黙った後、良秀はニッと笑ってこう言った。
「『俺はそうは思わないし、バカじゃねえの』」
「大体正解」
彼はニッと笑って頷いた。
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