常世の国にて
鯨井イルカ
第1話 白いカップと黒い猫
窓一つ無い白い壁に掛けられた時計に目をやると、十五時五十分と表示されていた。ベルトコンベアを流れる大量の白いプラスティックカップとも、あと十分でさよならだ。集中力は限界に近いけれどあと少しだけ頑張ろう。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
傷も汚れもないカップが目の前を流れ続ける。
少しぐらい異常が見つかったほうが張り合いがでるのかもしれないけれど、この検品のパートを始めてから今日まで不良品に遭遇したことは一度もない。
そもそも生産技術やら品質管理技術やららなんやらが発達した今の時代に、こんな仕事は必要なんだろうか?
時計を見ると残りは五分。
もう少しだけ集中しないと。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
もしかしたら本当はいくつか不良品が流れてきているけれど、見過ごしているだけなのかもしれない。
最近ピントの調整が上手くいかないときがあるから。どこかからクレームが来る前に一度目を診てもらったほうがいいかもしれない。
仕事が終わったら予約を入れるのを忘れないようにしないと。
異常なし。
異常なし。
眼科に予約。
異常なし。
あと二分。
異常なし。
眼科に予約。
眼科に予約。
異常なし。
あと一分。
眼科に予約。
眼科に予約。
眼科に予約。
「十六時になりました。作業員の皆さまは速やかに退出してください」
壁の時計に十六時と表示されると、スピーカーからドボルザークの「家路」をバックに抑揚の少ない女性の声が響いた。指示通りエアシャワーを浴びてから外に出る。明るすぎる作業部屋と比べて廊下は異常に暗い。いつものことだけれど、目が慣れるのに時間がかかっている気がする。着替えが終わったらすぐに眼科に予約を入れよう。
作業着から着替え、従業員通用口の脇で眼科の予約を入れてから工場を出た。まだ夏だから外は昼間と思うくらいに明るい。
暗さに慣れた目がまた見えづらくなった。ほんの少し前まではここまで苦労しなかったのに。
「あの、どこか具合が悪いんですか?」
突然か細い声が背後から聞こえた。振り返ると前髪の長い猫背の女の子が、不安げな表情で立っている。
たしか同じラインで働いてる短期アルバイトの佐藤……、いや斉藤さんだったかな?
「ああ、ごめんね。ちょっと眩しさに慣れるのに時間がかかってただけだから」
「えっと、それって大丈夫、なんですか?」
「平気、平気。多分歳のせいだし、念のため眼科にも予約入れてあるから」
「そう、ですか。なら、よかったです。では、私はこれで」
「うん。気を付けて帰りなね」
「はい、堂島さんも、お気をつけて」
深々と頭を下げてから斉藤さんは走り去っていった。
休み時間に話すときも声が裏返り気味だし、人付き合いはあまり得意じゃなさそうだ。見ていて少し心配になるけれど、挨拶はできる子だし、果てしなく退屈な作業も真面目にこなしているし、大学で機械工学だかを専攻していると言っていたし、このご時世に就職に困ることはないだろう。
「え!? 機械工学科!? すごっ! 超頭いいんだね!」
「え、あの、別に、そんな」
不意に知り合ったばかりの頃の会話が頭をよぎった。思えばほぼ初対面で馴れ馴れしい態度だったのに、よく懐いてくれたよなぁ……。おかげで休憩時間も退屈しないし、今度アメでも買ってあげよう。
路地を抜けて駅に向かう大通りへ出ると、家路についているであろう人で賑わっていた。
目に入るのは、若々しい美男美女や可愛らしい動物ばかりだ。少し前までこの時間帯……、だけでなく日が出ている間に街中で見かけるのはいわゆる高齢者ばかりだったのに。今では数えるほどしか見かけない。
「皆さま、高松和夫、輝ける未来の党の高松和夫をよろしくお願いいたします! 若者達に希望溢れる未来を取り戻すため高松、高松和夫、頑張っております!」
遠くから選挙カーの声が聞こえてくる。
そういえば市議会だか県議会だかの選挙が近かった。それとも市長だか県知事だったかな。まあ、どちらでもあまり関係ないか。候補者達が支持層として取り込みたいのは、私たちの世代じゃなくて未来有る若者たちなのだから。投票してもしなくても何かが劇的に変わることはなさそうだけれど、一応投票日くらいは調べておこう。
電車に乗り込んで調べると、投票日は来週の日曜日だった。パートがあるしネット投票で済ませようかな。もちろん、覚えていたらだけれども。
「ちょっと、いつまでそこに座ってるつもり!?」
突然、しわがれた大声が車内に響いた。車両の端の優先席で、ネギの飛び出したリュックを背負って杖をついた老女が目を吊り上げている。あれは……、近所の高岡さんだ。
目の前に座っているのは、眼鏡をかけたお腹の大きな若い女性。ぱっと見たところ、斉藤さんと同じくらい気が弱そうに見えるかも。助けてあげたいとろこだけれど、高岡さんにはあんまり関わりたくないし。
「脚の悪い年寄りを見ても席を譲らないなんて、どんな教育を受けてきたの!」
「あの、でも私も妊娠していて……」
「そんなの見れば分かるわよ! でもそれがどうしたの!? 私が妊娠してたころなんて立つ場所もないくらい満員の電車に乗って、ぶつかられても『そんな大きな腹で満員電車に乗る方が悪い』なんてこっちが悪者にされたのよ!」
「はあ……」
「しかも職場に着けば『妊婦は楽な仕事しかしないのに首を切られないなんてずるい』だとか、『産休と育休の間に仕事を押しつけられる身にもなれ』だとかマタハラの嵐で!」
「左様ですか……」
「でもアンタ達は違うでしょ!? こんな空いてる電車に毎日乗って! 次世代を担う子供とその親たちは社会全体で保護するべきだとかもてはやされて!」
「そうですね……」
一人で白熱していく高岡さんに比べて、女性は恐縮そうに相槌を打ちながらもドアの上部に取り付けられた液晶に映る天気予報を眺めている。
案外大丈夫そうかもしれないけれど、一応は非常通報ボタンを押しておこうかな。
「だいたいね! 妊娠は自己責任でしょ!? それなのに何を甘えてるの!」
「……お言葉ですけどね」
しわがれた怒鳴り声に、ため息まじりの声が返された。
「それを言うなら、貴女だって自己責任なのでは?」
ディスプレイをぼんやりと眺めていた目が、冷ややかな視線を正面に送る。
「な、なんでそうなるのよ?」
予想外の反撃を食らったためか、シワに囲まれた小さな目が面白いぐらいに泳いでいる。
「だって今の時代べつに杖をついて電車に乗らなくても、それほど不便なく暮らしていけますよね?」
「そう、かもしれないけど、私たちがアンタぐらいの頃は……」
「いつまでもそんな大昔の話を引きずっていても、仕方ないのではないですか? 昔は昔、今は今ですよ」
「な……」
「ともかく、私は席を譲れないので他の方をあたってください。座席一つで騒ぐ姿を憐れんだ方が、譲ってくれるかもしれませんよ」
この子大人しそうに見えて結構ハッキリものを言うな。
「っ! もういいわよ!」
大声で使い古された捨て台詞を吐くと、高岡さんはネギを揺らしながら隣の車両へ移っていった。
大事にならなくてよかったけれど、駅で鉢合わせないように気を付けないと。見つかったらきっと、家に着くまでずっと愚痴を聞かされる羽目になるから。
辺りが静かになったころ電車は次の駅に到着した。複数路線が集まっているから、かなりの人数が乗り込んでくる。
一昔前はリモートワークが進んで、平日の通勤および帰宅ラッシュは完全に解消されるなんて与太話も信じられていた気がする。たしかに、さっきの高岡さんの話じゃないけれど、毎日都心に勤めていた若いころに比べたらものすごくマシになっている。
それでも、生産性が下がることを防ぐためやら、公共交通機関の保護やらなんやらの理由で、中途半端な形で終わってしまったのも事実だ。次の選挙でリモートワーク化推進を公約に掲げてるところがあったら、そこに投票してみようかな。公約が実現すれば、この時間に電車に乗って高岡さんに遭遇する可能性が減るかもしれないし。
まあ、それまで今の職場で働いているかも、そもそも生きているかさえも分からないけれど。
「次は田名東」
気がつけばもう降りないといけない駅になっていた。ひとまず、高岡さんに見つからないように注意しないと。
それからなんとか高岡さんに捕まることなく家にたどり着いた。玄関を開けて薄暗い廊下を進み、リビングの扉を開ける。
夕日が差し込む部屋の中で、ヘッドセットをつけて往年の人気ゲーム機のものに似たコントローラーを握りしめる白髪頭の女、実際の私、が足首と膝にサポーターを巻いてソファーに寝そべっている。
毎日の事ながら、自分で自分の姿を見るのはなんだか複雑な気分だ。
「目的地に到着しました。電源を切りヘッドセットを外してください」
イヤホンから聞こえる音声のとおりに電源を切り、コントローラーをテーブルに置いてヘッドセットを外した。
扉の脇で猫を模した頭部のロボット、さっきまで私だったもの、がうな垂れて充電スタンドに納まっている。少し前までは上手く収まらずに外出するときに動かないなんてこともあったけれど、今では慣れたものだ。さて、無事に帰宅できたことだし夕飯のしたくでもしようかな。
ソファーから立ち上がると、膝と足首が鋭く痛んだ。
あまり気は進まないけれど、ロボットで家の中のこともできるように練習を始めないといけないかもしれない。
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