トラトラトラ
山城渉
第1話 –・・・–
ジキルはその日も、路地裏の小道を進んでいた。砂利を蹴飛ばして、それにつまずく。後ろのやつから失笑が漏れて、ジキルは少しむすくれた。長らく補修のされていない道は足を疲労させ、ひゅうと吹き抜ける風に身震いした。
じりじりと歩いて、日向に出ると、市街が昨日よりも荒れているのが目に見えた。住民はもうほとんどが避難を終えている。辺りを見回しても、これといって変わり映えはしていない。
戦線に近いせいで、巡視は三時間ずつ、日に八回。
寝不足のジキルは半ば忌々しげに日差しを睨めつけた。
とぼとぼと重い足取りで出歩くジキルを、一人の仲間が嗜めた。
「おい」
顔を上げたジキルのことを心配そうに窺っている。
「あんまそっち行くなって、危ねーぞ」
小首を傾げて、自分のつま先の先を見上げると、そこにそびえ立っていたのは、屋上の崩れた三階建てのアパルトメントであった。
流石の寝ぼけ眼も覚め、慌てて後ずさる。
ジキルはアパルトメントに背中を向けないようにしながら、仲間の隊列に戻った。
「大丈夫かよ?」
青ざめたジキルの肩を叩く彼らの手は温かい。皆、同じ境遇にあるというのに。いや、同じ境遇にあるからなのだろう。ジキルもそんな仲間たちに対して、すぐに感謝を返した。
しかしジキルの表情は晴れなかった。
──その廃墟には魔女がいる。
誰からともなく流れた噂を、ジキルは思い出していた。
それは一昨日、食堂での出来事であった。
時を経るごと物資は心許なくなっていき、とうとうその日、ジキルの気に入っていた生野菜のサラダが姿を消したのである。サラダといっても、ぶつ切りにされた生の野菜を袋に詰めただけのものだったが、ジキルにとってはそれを食べることが数少ない楽しみの一つであった。
「残念だな、ジキル」
「ああ」
目の前にどかりと座った仲間が眉尻を下げる。
ジキルはいつものように自身のトランクに腰かけていた。横に座った仲間がそれをフォークで差し示す。
「お宝はなんだって?」
「生の野菜が食いたいってさ」
片手でトランクをこんこんと叩き、もう片方の手で食事を口に放り込む。周囲に笑いが起こった。誰にも中身を明かしていないトランクは、お宝が入っていると邪推している仲間たちに日夜からかわれている。
ジキルはゲラゲラ笑いを聞き流しつつ、その場の兵士たちを観察した。どの隊の連中もまた、物足りなさそうに皿を見つめているのを確認して、ため息と悪態をつく。
「生野菜こそ人間の活力だってのにな」
「全くだ。戦争が始まる前は野菜なんて大嫌いだったが。今じゃ、あの噛み応えが懐かしい」
「前におめえが言った通り、精神の栄養なんだよなあ、生野菜ってのはさ。ようやくその意味が分かった気がする」
口々に野菜へ思いを寄せる仲間たちがなんだか面白くて、ジキルは俯き、口角を上げた。
すると、ちょうど巡視から戻ってきた隊が、ジキルたちの側を通りがかる。
「おかえり、首尾はどうだ」
「ああ、まあそれなりだな」
深夜の巡回を担当している隊だ。
先頭に立っていた男が、辺りを気にする素振りを見せながら、ジキルたちの元に歩いてきた。伍長のアンダーソンだ。
「なあ」
声を顰める彼に、ジキルたちの面持ちも強張る。
「知っているか、魔女の噂」
「魔女?」
「しーっ!」
素っ頓狂な声を上げるジキルをアンダーソンが制す。そうして再び周りを見てから、更に声を落として言った。
「信じがたい出来事ではあるんだが……巡回中に、魔女に会ったやつがいるという報告が上がってな」
「そらまた……変な話だな」
「どの隊のやつ?」
「いや、それが分からなくてな」
「そいつの気がおかしくなっちゃってんじゃないの?」
「いいや、それがこの報告、一人だけから上がったものじゃないんだ」
「集団ヒステリーじゃねえの、それ?」
「うわっ、こえーな」
「ううむ」
男は腕を組んで、ジキルを見た。
「この様子だと、お前の隊にはいないようだな」
「うちは夜遅い時間の巡回はないから」
「おかげで朝が早いけどな」
「伍長どのは見たのか、その魔女」
「俺はまだだ。今後、そういった類のものに遭遇する予定もない。だが、報告によると……路地裏を抜けた先、上が崩れた住宅があるだろ、三階建ての。夜方、あそこに近づくと魔女が現れて、心臓を刈り取ろうとしてくるそうだ」
神妙な雰囲気が一同を包む。
ジキルもまた思考を巡らせていた。
「アパルトメント住みの魔女かあ。ま、気をつけておくよ」
「そうしておけ。俺は一応、この件を上への報告書にまとめておく」
アンダーソンは、念押しなのかジキルたちそれぞれの顔を見つめてから去っていった。
その背中を見送って、ひそひそと隣の男が耳打ちする。
「あの様子じゃ伍長ももう手遅れだな」
「聴こえているぞ」
「やべ」
彼があたふたと誤魔化すように食事をかき込む。
周りも、自分たちの食指が止まっていたことにはたと気づくと、
「この調子じゃ次の号令に間に合わないぞ」
「急げ急げ」
そう言って大慌てで食事を胃袋に流し込む。
そんな仲間たちと一緒になりながら、ジキルはどこか上の空で最後の一切れを嚥下した。
あれは確か、乾いた小麦の味。
と同時に、意識が一気に現実に戻ってくる。目を瞬いて、後方のアパルトメントに視線を飛ばした。
西日に照らされたアパルトメントには、相変わらず人気はなく、ただただ寂しい空気を漂わせている。少々不気味にも思える静けさが、ジキルの目をそこに釘付けにさせていた。
「まだ起きないか、夕暮れじゃ」
ぽつりと呟いた。
背後で仲間たちのお喋りが始まる。
「そういえば他の隊のやつにも訊いたんだよ。この間の話」
「話って、あの魔女の?」
「そうそう」
聞き流そうと努力していても、ジキルの注意は視界の隅で小さくなっていくアパルトメントにいっそう集中していくのみだ。
「で、なんて?」
「あの建物を過ぎた先に、小さい庭があるみたいでな。そこに足を踏み入れようもんなら、魔女がすっ飛んできて、追っ払おうとしてくるんだってさ」
「なんだそれ」
ジキルの隣を歩く兵士が笑った。
「それだけ聞くと、自分の庭が大事なただの婆さんだよな」
「うちの婆ちゃんもそんな感じだったよ。野良猫相手に本気になってさ」
「けどよ。このご時世、ここに留まってるってだけでちょっと変だぜ。ひょっとすると本当に、ただの人間じゃないのかも」
「周辺住民の避難はとっくに済んでるんだろ?」
「子供が泣きながらお家に帰りたいったって簡単には戻れねえ情勢にあるんだぞ。そこに平気で婆さんがいたら、それはそれでおかしいよな」
「旧いお人がたは頑固だからなあ。意外とこっそり暮らしてたりして」
「いや問題だぜ、それはそれで。もし俺らがその婆さんに出会ったら、保護して避難を促さねえと」
いつの間にか老婆を保護する話を進めている隊員に混じってジキルが声をあげた。
「なあ」
珍しく、高揚した調子でジキルは仲間を見る。
「本当に逃げ遅れた婆さんがいるんなら、接触は早いほうがいいよな。だろ?」
片目を瞑ったジキルが言うのを聞きながら、隊員たちは次々と悪ガキのような笑顔を浮かべていった。
それから黙って、顔を互いに見合わせた。
誰からともなく踵を返し、隊は来た道を戻りだす。悪戯小僧と化した誰も彼もが、怖いもの見たさに胸を高鳴らせていた。
瓦礫の山を迂回して、彼らは再度アパルトメントを目指した。
「もしさ、もし本当に何かいるなら。武装してる俺たちが近づくのは道理だよな」
「まあ、相手に敵意がないとは限らないからな」
「実際追い払われたやつがいるってんなら、用心するに越したことはないしな」
自己を正当化するかのごとく、また奮い立たせるがごとく、呪文のように唱えつつ。彼らは進んでいった。
そうして、アパルトメントまで辿り着いた頃には、じんわりと日は落ちて、空が茜から紺碧へと移ろい始めていた。薄暮である。
「あのう、もしもし」
咳払いをして、ジキルはおずおずと呼びかけた。それが廃墟の風穴に響き終わってなお返答がないので、隊員はごくりと唾を飲んだ。
「も、もしもーし。どなたかいらっしゃいますか?」
反応が返ってくる気配はなかった。
ジキルは一歩、踏み出してみた。足音は立てずに、そっと。ほつれかけた手袋をはめた片手を銃身に添えたまま。
目が慣れてくると、アパルトメントの中の様子が分かってきた。
当然だが内部に明かりはなく真っ暗で、メインホールの小ぶりなシャンデリアが今にも落下してきそうだった。蜘蛛の巣まで張っている。
ホールを抜けた先に、光が見える。噂の通りならば、そこに庭があるらしいが。
ジキルがするすると奥へ進んでいくのに続いて、他の隊員もみなアパルトメントに足を踏み入れる。もちろん、すぐに応戦できる体制を整えて。
「こんにちはあ」
声を張って前をゆくジキルに気を配りつつ、一同は周囲を警戒した。
特別なことは何もない、よくあるアパルトメントである。魔女が棲みついているらしいという点を除けば。
袖で口を覆いながら一人が言った。
「埃っぽいな」
確かに、光に透けて微細なごみが空気中に漂っているのが分かる。地面に目をやってみると、タイル張りの床にはちりが積もっていた。踏み均された足跡はジキルがつけたであろうもののみで、まるで人が住んでいるとは思えない。
「やっぱり」
誰かがぼそりと口にする。
「見間違いなんじゃあないか?」
疑念はゆっくりと広がり、隊員は一様に頭を縦に振った。
「誰もいなさそうだ」
「階段も崩れてる。婆さんが使うにゃ骨だぜ」
「電気も水道も通ってなかった」
建物の周りを見てきたらしい隊員が中に戻ってきた。
「これじゃあ婆さんどころか、はぐれた兵士一人ですらここで暮らすのは厳しいぞ」
張り詰めていた彼らの空気が、徐々に緩みだす。
「冷静に考えて、こんなとこに人がいるわけないよなあ」
「まあ、こんな状況じゃあ、誰かがいるって錯覚しちまうやつがいてもおかしくはないか」
「極限状態だもんな、幻覚も見るよ」
隊員たちは安堵と落胆の合わさったような表情をした。
小庭を窺っていたジキルは、土からすっくと生えている苗木に目を奪われていた。
毒々しい、一口大の真っ赤な実をいくつもぶら下げた、緑の苗木だ。見たことのない植物だ。近寄る者へその身の危険を思わせながらも、鮮烈な赤色には底知れぬ魅了の香りが秘められている。
あれが魔女の果実なのだろうか。
ジキルが導かれるように小庭へと歩みだした、その時である。
轟音と衝撃が一行を襲った。あまりに突然のことであった。その場にいた誰もが咄嗟に身を固くしたが、それで凌げるものではなかった。
落ちてきた瓦礫やら欠片やらに埋もれ、呻き声と咳とがこだまする。メインホールのシャンデリアも、ついに地面で粉々になった。
アパルトメントは崩れて半分だけを残し、反動で土煙が高く昇った。
「皆、無事か。ジキル、ジキル!」
地鳴りで頭が割れそうだった。振動なのか音なのか、もはやジキルには判別できなかった。
全身が軋む激しい痛みの中、ジキルは瞳を空に向けた。
黒光りした爆撃機が、誇らしげに雲を切り裂いていくのを見た。
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