第4話

朝起きると、僕はふとベランダに出てみて、そして外の景色を眺めた。景色と言っても真新しいアパートマンションの二階からの眺めだ。見えるのは精々隣の屋根か、もっと遠くの東京スカイツリーくらいなのだが。僕は手すりにもたれかかって、それらの面白みのないシルエットをぼーっと観察した。なぜ僕が今こんなに無気力なのかと言うと、それは勿論、寝起きで頭が回っていないからと言うのもあるが、それにしては頭が変に冴えているのだ。その直接の原因はつまり悪夢だ。僕は昨日の夜悪夢を見た。とてもリアルな夢で、でもその具体的な内容は頭に霞がかかったみたいにさっぱり思い出せない。不思議に思うだろうが、でも僕は、その夢が現実と見間違うほどにリアルであったことと、何か気分が悪くなるような酷い感じだったことしか覚えていない。よほど内容が僕に合わなかったのか、今でもそれを引きずっているらしく、こうして何をするでもなく外の景色を眺めているのだ。こんなひどい寝覚めは初めてだ、僕は思った。さっきからうっすら吐き気がする。一体何をみたのだろうか。

 僕は一旦部屋の中に戻って、床に無造作に置いておかれたスマホを手に取り、悪夢について調べてみた。僕の予想通り、検索結果に色んな人の悪夢が投稿されているサイトが表示された。僕は迷いなくそのリンクを踏み、それらの内容を流し読みした。三回ほどスクロールして、ある投稿に目が止まった。

「呪い、か」

 それは、夢の中でとある少女になってしまい、その父親らしき人にお腹を刺されてしまう、と言ったものだった。重要なのはそのあとで、死ぬ間際に少女は自分を殺した父親に呪いをかけるのだ。その影響で父親も発狂、二人そろって苦しみながら死ぬ、全く救いのない終わり方だ。これの投稿者は一体どんな生活をおくっていたらこんな夢をみるのだろうか。僕は、その凄惨な内容もさることながら、少女が死の直前に父親に呪いをかけるという所に興味をひかれた。僕はそこに妙な既視感があった。恐らくその既視感の正体は昨日見た悪夢のことだろう。それか、青井空。昨日彼女が僕に見せた、彼女の得体のしれない闇、そこにもこの呪いと通ずるところがあった。

 まてよ、もしかして昨日の悪夢って、青井空のことなんじゃないか?僕はふとそう思い立った。それならばつじつまが合う。悪夢の内容は、今開いているこのサイトに投稿されていたものと似通っている部分がある。そして、それは昨日の空にも同じ雰囲気が見られた。つまり昨日の悪夢と青井空にはなにか共通する部分があるとも言える。更に、昨日最後に話したのは青井空。そうだ、あの夢の内容には空がでてくるのだ。僕の頭の霞が段々薄れていくのが感じられた。あともうちょっと、ほんの少しで思い出せそうだ。

 僕がそう思った次の瞬間、びゅうと強い風が吹いてきた。

「うわ!」

 僕はおもわず顔を腕で隠した。その突風のもとはベランダの方だった。窓が開けっぱなしになっていたのだ。その後風はすぐに力を失い、あとは夏の生暖かいそよ風が、僕の頬をなでるばかりだった。

「なんだったんだ?」

 突風といっても住宅街のど真ん中、その二階に吹き込むものなのか?なにやら得体のしれない現象ではあったが、そこは風のいたずらということにしておいた。それで、僕は何を思い出そうとしていたのか、そうだ昨日の悪夢だ。えーっと、どこまで思い出したのか…。そこで僕ははっとした。昨日の悪夢についての興味が完全に失われている。ほんの数秒前まであんなにこだわっていたのに、全く思い出す気にならない、そしてあの嫌な吐き気もしなくなっている。これはどういう風の吹き回しだろうか。今となってみれば、さっきまでのその悪夢に対する強い興味にこそ違和感を感じる。僕は頭の整理をつけるためベッドに横になった。飼い猫のモクローが僕のお腹の上に乗ってくる。僕は彼を下におろすと、横になったまま腕組みした。

 まず時系列順に追ってみよう。まず僕は昨日の夜ある悪夢を見た。それはなにか吐き気を催すような内容だったらしく、僕はその詳しい内容に強い興味を抱き、そしてネットである投稿を見かけた。それによって僕は悪夢の詳細にたどり着きそうだったのだが…、今ではもうすっかり興味が湧かない、不自然なまでに。そして、その夢を思い出すことは、いや暴くことはなにか良からぬものをもたらしていたのではと感じる。うーん、なにか気分転換でもしたい気分だ。

「はあ、ギターでも弾くか」

 僕はベッドから起き上がると部屋の隅に置いてある白いストラトキャスターを手に取った。微かな傷はあるものの、ボディの輝きはそれを失っておらず、むしろ新品では出すことのできない味がでている。なんせ、高校入学のときから一日も欠かすことなく手入れして、自分の息子のように大事に扱ってきたのだ。我ながら素晴らしい状態である。僕はベッドに腰かけるとじっくり丁寧にチューニングを始めた。

 やはりギターを触っているときが一番落ち着く。それは今も昔も変わらない。ギターさえ握っていれば、あの体育館いっぱいに埋まった同級生や先輩、保護者たちの視線はむしろ気分を高揚させ、無限にも思える活力を生んだ。当時の僕は、ギターありきの僕だったと思う。

 ギターのチューニングが終わると、先ずは一通り知りうるすべてのコードを弾いた。ストロークは無し、一弦一弦の音に静かに耳を傾ける。これは昔からのルーティーンだ。これが無いと、若干腕が鈍る。すべてのコードを弾き終わるとやっと曲を弾き始めた。最初はストロークメインでローテンポな洋楽、運指の滑らかさを意識して、なるべく自分風に弾く。自分風というのは、つまりアレンジのことだ。ストロークを変えたり、アルペジオを入れてみたりする。これを本番でやるととても盛り上がるのだ。賃貸だが楽器OKなのでアンプも繋ぐ。高校生になって初めてしたバイトで貯めたお金で買ったミニアンプは、一つ一つの音がはっきり出るよう調整してある。

 弦の上を滑る手の感触を楽しみつつ、今度は全く逆、メロディーの複雑な邦楽を弾く。これはアレンジはせずに原曲そのまんまにいわばコピーする。そういえば高校では邦楽ばかり弾いていた。昔から邦楽の方が好きだったのだ。両親はあまり音楽をたしなむような人達ではなかったので大学生まで僕は邦楽だけ聞いて過ごした。ギターを始めたのは中学生の時だ。中2の夏、あるバンドのある曲がどうしてもギターで弾きたかった僕は、反対する両親をなんとか説得してこの白いストラトを買ってもらったのだ。それからはひたすら練習した。中学では受験もなかったので特に練習した。あまり友達のいる方ではなかったから没頭することが出来た。高校では勿論軽音部に入った。そこで僕は、周りの同級生たちが、随分自分よりギターの腕については劣っていることに気づいた。中学校生活の半分を捧げた代償か、ギターの腕は人並み以上になっていた。僕は自分を才能のある方だとは思っていなかったから、それは僕にとって意外な事実だった。そして僕はあのメンバーたちに出会い、バンドリバースを結成した。あの頃は楽しかった、それまでの人生の中で一番だ。バンドの評判も良かった。高3の時、軽音部の全国大会にも出場している。僕の彼女、府海幸ともそこで出会った。でも、最後の最後で僕は、いや僕たちはつまずいた。バンドメンバー同士のいざこざ、それが高校生活がもう終わるという時に起こった。結局僕たちは、卒業式の前日で事実上の解散をすることになった。僕の青春はそうしてあっけなく終わってしまった。だから僕は大学ではバンドを組まなかった。またあんなことが起きるのはいやだったから。

 でも、もし叶うとすれば、またあのメンバーで、バンドがしたい。他愛もない話をして笑いたい。そうだ、僕が空の話を受けたのは、お金に目がくらんだわけでも、空に同情したからでも、そして川瀬先生の身を案じたからではなく、僕のこの願いが理由だったんだ。僕はそう思うと、いつのまにかギターを弾く手を止めていた。その代わりに、僕の太ももにぽたぽたと何かが落ちる感触がした。

「あれ、俺」

 僕は泣いていた。なぜ泣いたのかはわからない。だが確かに泣いていた。それは悲しいから泣いているわけでは無かった。僕は悲しみを抱いてはいなかった。多分僕はほっとしたのだ。なぜ僕はこんな無茶な提案を受けてしまったのかという疑問に対する答えが、そして、いまだ衰えていなかったバンドに対する情熱が、昨日の悪夢を忘れさせてくれるような懐かしい記憶が、僕の心を優しくつつんでくれた。その在り方を示してくれた。僕はほっとしたのだ。

「俺は、またあのメンバーたちと、バンドがしたい」

 僕は自分の心の内を確認するように言った。やってやろうじゃないか、向こうが乗り気でなくとも、音信不通だろうとも、俺が説得して、探し出してまた説得して、復活させてやる、バンドリバース。

 僕は空に電話を掛けた。まずはバショーだ、あいつを必ずその気にさせてやる。そう意気込む僕の目は昔のように真っ直ぐに澄んでいた。ほかのことが全く目に入らないくらいに。

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