愛しいあなたを
ジャック(JTW)
病弱な令嬢と堅物護衛の恋
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伯爵家の令嬢、フローレンス・ドラクレアは美しい少女だった。
白磁のような肌に透き通るような金髪の持ち主で、まるで月の女神のような儚げな美貌の持ち主。
彼女は陽の光に弱い体質で、いつもカーテンの締め切られた部屋の奥の寝台で寝ていた。そして今日も、フローレンスは暗い部屋の中、か細い咳をしている。
護衛として雇われた若き平民セオドアは、伯爵令嬢である彼女に身分違いの恋をしていた。
「ねえ、セオドア。わたし、一度でいいから陽のあたるお庭に出てみたいわ」
「なりません。御当主様からそれだけは許可してはならないと言い含められております」
「セオドアは真面目ねえ。ちょっとくらい、いいでしょう?」
「駄目です」
その言葉に、フローレンスは拗ねたように唇を尖らせる。その仕草も愛らしく、セオドアは内心、心穏やかにいられなかったが、それでも護衛としての職務を全うすべく姿勢を正した。
セオドアは、自分の恋を叶えたいとは思っていない。
ただ仕えるべき主、フローレンスの為に忠誠を尽くすことを誓っていた。
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フローレンスとセオドアの出会いは、彼等が未だ幼い頃に遡る。戦争奴隷として売られていた少年時代のセオドアが、ドラクレア家に購入されたことがきっかけだった。ドラクレア家は、まだ幼い令嬢、フローレンスの遊び相手として年頃の近い子供を購入したようだった。
今では考えられないことだが、幼い日のセオドアは、最初、フローレンスに冷たく接していた。
彼は、伯爵令嬢として恵まれた生まれのフローレンスのことが嫌いだった。身分は奴隷であろうとも、心までは折られまいとして、なけなしの矜持を奮い立たせて彼女を睨みつけたのだ。
しかしそんな無礼な態度を取られたにも関わらず、フローレンスは全く臆することなく、セオドアに優しく微笑みかけた。
「わたし、フローレンス・ドラクレア。ずっとずっとお友達が欲しかったの。お名前を教えて?」
「……セオドア」
小さな声でセオドアが答えると、フローレンスは花が咲いたような可憐な笑顔を向けた。
そして彼女はほどなく、セオドアを奴隷身分から開放する手続きを完了させた。正式な従者見習いとして雇用するように、ドラクレア家当主に働きかけてくれた。そのお陰で、セオドアは他国の生まれの元戦争奴隷という経歴でありながら、由緒正しきドラクレア家の従者兼護衛として生計を立てることが出来るようになった。
「……礼なんて言わないからな」
「あら。その気持ちだけで嬉しいわ」
セオドアは、心の底を見透かされた気がして急に恥ずかしくなり、顔を背けた。その様子を、微笑ましそうに見ながらフローレンスは楽しそうに笑っている。
あの笑顔を見た日から、本当は、セオドアは恋に落ちていた。
同時にその恋が叶わないことも痛いほど理解していた。
フローレンス・ドラクレアは、どんな宝石よりも美しい。
そんな彼女に、路傍の石であるセオドアが手を触れて良いわけがなかったのだ。
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フローレンスとセオドアの出会いから六年が経ち、フローレンスは十六歳、セオドアは十八歳になった。
フローレンスの病弱さは変わらないものの、触ると壊れてしまいそうな儚げな宝石の如き美貌には磨きがかかり、その零れ落ちそうな青い瞳はますます輝いている。
日に日に美しくなるフローレンスの姿に、セオドアは心惹かれていたが、従者兼護衛としての立ち位置を崩すことはなかった。
「ねえ、セオドア」
「何か御用ですか、フローレンス様」
「……昔みたいに、フローレンスって呼び捨てにして?」
「そのようなこと、いたしかねます。使えるべき主に敬称をつけない従者がどこにおりますか」
フローレンスは、彼女が拗ねたときにする態度を見せた。
唇を尖らせて、不満を表明している。
「……セオドアは、本当に堅物ね。昔はそうじゃなかったのに」
「――未熟だっただけです。今は、弁えております」
その言葉に、フローレンスは寂しそうに微笑んだ。
「あのね、セオドア。わたし、遠くないうちに、侯爵家へ嫁ぐことが決まったの。わたしの身体が病弱なのは先方も知っているけれど……侯爵家と伯爵家の縁が一時的にでも繫がれば、それで良いのですって。貴族として生まれたからには……こんな日が来るとわかってはいたけれど、切ないものよね」
その言葉を聞いた刹那、セオドアの中で何かが壊れる音がした。
それでもセオドアは、フローレンスの為に精一杯平静を取り繕い、わずかだけ震えた声で告げた。
「……おめでとうございます」
「セオドア。わたしが言われたかったのは、そんな言葉じゃないわ」
フローレンスは、寝台に横たわりながら、セオドアに手を伸ばした。その差し伸べられた手の意味が、彼には伝わっている。フローレンスとセオドアは、長い、長い時間を共に過ごした。その上で、彼女の望むことなら、言葉を交わさずとも、なんだって分かっていた。――分かっていたからこそ、セオドアは彼女の手を取ることが出来なかった。
「……俺には、あなたを幸せにすることができません」
「セオドア、わたしは……」
フローレンスは、微かな声で囁いた。
「……わたしの幸せは、ここにあるのよ、セオドア」
それでもセオドアは、何も出来なかった。
彼女は寂しげに微笑んで、それ以上何も言わなかった。
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フローレンス・ドラクレアの輿入れの日は、日光が弱まる冬の寒い日に決まった。本来、侯爵領へ向かう旅路には、雪の少ない季節の方が適していたが、フローレンス・ドラクレアが日光に弱い体質であることと、侯爵家と伯爵家の縁談が纏まるのに早いに越したことはないとされ、彼女は寒空の下、馬車に乗って生家を後にした。
輿入れの際、フローレンス・ドラクレアの願ったことは、たった一つ。
セオドアを御者に任命することだった。
セオドアは、恋する相手の嫁ぎ先まで、彼女を送り届けるというあまりにも残酷な役割を引き受けることを躊躇したが、それでも、それが忠義を尽くした彼女の最後の願いとあれば、引き受けない訳にはいかなかった。
フローレンス・ドラクレアは、旅路の間、一切の弱音を吐かなかった。寒く冷たい季節の中、彼女の体は苛まれていただろうに、それでも彼女は微笑んでいた。
「わたし、ずっと、セオドアと一緒に御屋敷の外に出たかったの」
そう言って、フローレンスは微笑んだ。その言葉を聞いて、セオドアは、涙をこぼしそうになった。
「……冷えます。毛布を」
「ありがとう」
セオドアの手から毛布を受け取ったフローレンスは、チラチラと降り始めた雪を眺めながら、小さな小さな声で囁いた。
「もっと雪が降って、道が塞がってしまえば……いつまでも、セオドアと一緒に旅ができるのかしら」
同じことを、セオドアも考えていた。
しかし、言葉に出すことは出来なかった。
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フローレンスの願いが天に通じたように、冬の寒波は激しさを増し、大雪が降ってきた。彼女は降り積もる雪を見て楽しそうに笑っていた。彼女が冷えないように防寒具を着せてやりながら、セオドアは彼女と過ごす時間が僅かでも延びたことを心の何処かで喜んだ。
セオドアが用意した温かい飲み物で喉を潤しながら、彼女は微かに口元を緩めていた。
「セオドア。あなたが今何を考えているか、わたし、わかるわ」
「……どうしてですか」
「わかるわ。小さい頃からずっと一緒にいたんだから……」
フローレンスは、少し俯いて、微笑みを消した。
「……本当はね、お父様もわかっていたのよ。わたしがセオドアのことを愛しているって」
その言葉を聞いたセオドアは、胸を掴まれたような衝撃を覚えた。
「だけど、お父様は、わたしをセオドアの元に嫁がせるわけにはいかないって仰ったわ。ドラクレア家の領地の状況があまり良くないの。お父様も努力なさっていたけれど、長年続く不作のせいで、誰にも……どうしようもないことなの。だからわたしは、伯爵家の者として、領民を守るために、豊かな侯爵家との縁を繋がなくてはならないわ。その決意と覚悟は、わたしにもある」
「フローレンス様……」
「だから、セオドアを御者に任命したのは、わたしのわがまま。わたしの人生で、最後の望み……」
彼女は、ゆっくりと、セオドアに手を伸ばした。
フローレンスの白雪の精霊のような手が彼の頬に触れる。
「セオドアのほっぺた、あったかい」
フローレンスは、幼い頃と変わらない笑顔を浮かべた。
セオドアは、彼女に従者として仕えると誓ってから、ずっと、フローレンスに触れたことはなかった。頬に触れる彼女の手の感触を、目を細めてセオドアは感じ取る。
「……フローレンス様の手は、冷たいですね」
「言ったわね? セオドアの体温全部奪っちゃうんだから」
そう言いながら、くすくすと笑ったフローレンスは、セオドアの頬にずっと触れていた。
それ以上の接触は、互いにできなかった。
フローレンスの覚悟をセオドアは知っていたし、セオドアの従者としての誓いも頑固さもフローレンスはよく知っていた。
二人はいつの間にか、涙を流していた。
「愛しております、フローレンス様」
「遅いのよ。何もかも。セオドアのばか、頑固者……」
そう言いながらも、フローレンスはセオドアの気持ちを確かめて、泣きながらも微笑んでいた。
あれほど降り続けていた雪は止んで、溶けていく。
馬車が通れるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
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セオドアは、御者として任務を果たし、侯爵領までフローレンス・ドラクレアを送り届けた。
侯爵家の屋敷で、侯爵は優しく丁重にフローレンスを出迎える。フローレンスよりかなり年上ではあったが、それでも彼の眼差しの奥には慈しみと優しさが伺えた。
――若き花嫁、フローレンス・ドラクレアは、侯爵に嫁いだ。
愛のない政略結婚ではあったが、侯爵は彼なりにフローレンスを大切に慈しんだという。
彼女の美しい花嫁姿を見届けたセオドアは、馬車に乗って独り、ドラクレア領への帰路についた。
フローレンスがその人生をかけてまでも愛し守ろうとしたドラクレア領を支えることで、彼女の決意と覚悟に報いようとしたのだ。
セオドアは、何年経っても、フローレンスただひとりを愛していた。
彼は、フローレンスの愛したドラクレアの地で、生きていた。
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