不良少女と呼んじゃダメ

北見崇史

不良少女と呼んじゃダメ

 黒い学生服姿の、いかにも真面目な中学生男子が繁華街の裏路地を歩いていた。とっくの前に日は暮れている。実直そうな未成年者がウロつくには、ふさわしくない場所と時間帯だった。

「あ、すみません」

 下を向いていたために、彼の前方視界がおろそかになっていた。誰かに当たってしまい、あわてて謝った。

「ああーん」

 とても柔らかな感触のあとに不穏な声が返ってきた。

「どこに目ん玉つけてんだ、ワレェー、コラアー」

「ほ、ほんとにすみません」

 てっきり極悪非道な不良に絡まれてしまったと覚悟した少年は、恐る恐る顔を上げる。

「え」

 一瞬、目が点になった。

 怒声と罵声を浴びせかけているのが、彼が想像した姿とかけ離れていたのだ。

「ええーっと、JK?」

 とても可愛らしい女子高生だった。不良とはかけ離れている容姿であり、アイドルと間違われてもおかしくないほどのレベルでる。

「あーっ、JKだからなんだっつうねん。おどれは中坊だろうが。コラア」

 甲高くて好戦的な声が、戸惑う中学生男子に突っかかっていた。

「あ、あのう」

「なんだっつうねん、ああーーん」

「パンツ、見えてますよ」

「へ?」

 女子高生は股を開き気味にヤンキー座り(うんこ座り)していたのだが、ラフで無防備な姿勢をしていたために、スカートがめくれて下着がチラ見していた。

「うわあ、やばい~、油断しちゃったー」

 DQN言葉から、ごく普通の女の子になった。あわてて立ち上がり、スカートをパッパと叩くと、腕を組んでキッと睨みつけた。

「おどれ、見たいんかーい」

 ふたたび不良の態度となるが、その粗野な言葉とは裏腹に悪辣さを感じさせなかった。

「ええっと、見えちゃったかもしれないですけど。ていうか、ムリしてませんか。ふつうにしゃべったほうがいいですよ」

「ムリなんかしてねえ。DQNをナメてんじゃねえぞ」

「自分でDQNっていう人、初めて見ました」

「まあ、それほどでもねえけどな」

「褒めてませんよ」

「え」

「え」

 お互いの顔を見つめ合って、時が一瞬止まってしまう。

「あたい、猫屋敷華恋。この界隈じゃあ、ネコヤーって呼ばれているぜ。夜露死苦(よろしく)だっちゃ」

「ネコヤーさんは昭和時代のヤンキーですか。レディースとかって、ネットの動画でみたことあります」

「あたいのことはいいんだよ。おめえ、なんて名前だ」

「新(あらた)です」

「あらた?」

「そうです。新と書いて、あらたと読みます」

「おめえ、可愛い顔してイカした名前じゃんかよ」

「イカ?したですか」

「イカじゃねーよ。おめえ、イカくせえのか」

「べつにイカ臭くはないですけど、たぶん」

 かみ合わない会話だが、新は嫌がっているわけでもなかった。

「ええーっと、お姉さんの言葉づかいが、ヤンキーなのかヤクザなのか、オッサンなのかよくわからないんですけど」

「こまけえことは気にすんな。今日から新をあたいの舎弟にしてやっからよ」

 女子高生がまたうんこ座りして、さらに斜めに構えた。ただし、股の中央部分には放置されていたスポーツ新聞をあてがって見えないようにした。

「舎弟って、子分みたいな感じですか」

「子分だよ。ついてきな」

 華恋が立ち上がり、さっそうと歩き出した。言葉づかいと態度は{古き悪きヤンキー女}であるが、見かけは雑誌のモデルにでもなりそうなほど可愛らしく可憐であり、ギャップ萌えが甚だしいと、中学生男子は呆れていた。

「どこに行くんですか」

「あたいは不良だからな。不良がいるところにきまってるじゃん」

「だから、不良が不良って言わないと思うけど」

「てやんでえ」

「今度は江戸っ子ですか、いろいろと錯誤があるような気がしますけど」

「中坊のくせに、ムズい言葉を使うんじぇねえ。これからなあ、おめえを漢(おとこ)にしてやっからよ」

「お、おとこーっ」

 瞬間的に、中坊のハートがときめいた。

「あのあの、ええっと、そういう行為は初めてで、ホ、ホテルですか、ラブホ、みたいなてき、敵、的な」

 興奮してキョドリまくる中学生男子に向かって、女子高生の冷ややかな眼差しが注がれる。

「そういうスケベ的な意味じゃねえよ。もっと、こう、なんつうか、胸おどる暴力的なバイオレンスというか」

 漢の通過儀礼は、なにも生殖行為だけではないと、両手をあれこれしながら説明する。

「いや、じゃあ、遠慮しときます。僕、痛いのダメなほうなんで」

「グダグダ言ってねえで、さっさと来やがれってんだ、こんちくしょうめ」

 女子高生と男子中学生が、繁華街でもっとも猥雑な場所にやってきた。

「あそこにヤバそうなチンピラがいるだろう。ちょっといってケンカ売ってこい」

「イヤですよ、ボコボコにされちゃいますって。意味がわからない」

「しかたねえなあ。あたいがいってヤキいれてくるからよ」

「ちょ、危ないですって」

 落書きだらけのシャッター前に、五名ほどのチンピラがたむろしていた。すべてが男であり、首にタトゥーや唇にピアス、茶髪を通り越して白髪など、善良なる市民ならば目を背けたくなる者たちだった。

「おいおい、可愛いJKがくるぜ」

「俺たちにナンパされたいのか」

「いい女だなあ。拉致ってヤッて動画で配信してやっか」

 いかにも下卑た会話が交わされていた。無謀にも、華恋がケダモノたちの目の前まで来て、ビシッと指さして言う。

「おい、おまえら、アイス買ってこいや」

 一瞬?の表情が五つ並んだが、ほどなくゲラゲラと笑いだした。

「なんだ、こいつ」

「俺らをパシリにする気か」

「おい、アイス買ってやるからヤラせろや」

「いい体してんなあ」

 瞬く間に取り囲まれてしまった。いかにもガタイの良いクビにタトゥーの男が、華恋の胸に手を伸ばした時だった。

「あっちからヤクザがキター」と、女子高生があっちを指さして叫んだ。

 ヤクザというワードに反応したチンピラたちの注意が散漫になる。その隙をついて渾身の蹴りが炸裂した。

「ぎょっ」

 首にタトゥーが股間の真ん中を蹴りあげられた。右側の玉が内側にめり込んでしまい、カッコの悪い内股で崩れ落ちた。とっさのことで、ほかの者たちの理解が追いつかない。

 華恋が逃げた。ただし遠くにではなくて、近くで茫然としていた新の背中に隠れてしまう。

「クソJKが」

「シバいたる」

 股間がタイヘンな男をその場に残して、ほかのチンピラたちが突進してきた。

「いや、ちょ、ちょっと待って。僕は関係ないから」と中学生男子が焦る。

「新、ちょっと力を抜いててね」

「え」

 背後でささやく女子高生の吐息に、中学生男子の強張りが溶かされる。

「おんどりゃー」

「わあ、ま、まって」

 茶髪過ぎて白髪が右ストレートを放った。殴られそうになるが、華恋が新の両手首をつかんで、まるでマリオネットのように操った。

 白髪チンピラのパンチは華麗に躱されて空を叩く。逆に華恋のつま先が新のかかとを蹴りあげた。またもや股間にヒットし、茶髪に過ぎたチンピラが呻いてうずくまる。嗚咽とともに、口の端から唾液が垂れていた。

「てめえ、コラア」

 唇にピアスがつかみかかってきたが、なんなく躱した。そして、今度は急所蹴りではなくて、少し体を沈めてから浮き上がるようなアッパーを放った。そいつがのけ反って、路上にぶっ倒れてしまう。残りのチンピラは恐れをなして遁走してしまった。

「うわあ、あ、当たった、当たった。すごい手ごたえ」

 手足を操られているとはいえ、チンピラを蹴ったり殴ったりして、新が興奮している。ケンカをしたのは生れて初めであって、まるでマンガみたいに勝ってしまった爽快さに胸がおどっていた。

「すごい、すごいです、僕。いや、ネコヤーさんが」

「あたぼうよ。あたいのネコネコにゃんこ拳は世界最強だからな」

「これ、ネコネコにゃんこ拳だったんですね。ネーミングセンスが死ぬほどダサくて泣けてきます。お姉さんってすごく可愛いくてやたら強いけど、頭の中が幼稚園児ですよね、アホですよね」

「そんなに褒めなくてもいいんやで」

「褒めてないですけど」

「おっとー、やヴぁいのが来たようだぜ」

 ビビッて逃げ出していたチンピラが、ほかの仲間を引き連れて戻ってきた。筋肉質で引き締まった体格の、黄色Tシャツを着た男が走ってくる。新の手足を操っている華恋が片足をあげて左右の腕を広げた。

「これって、なんの構えですか」

「鶴の舞いだ、つるっぱげの鶴だぜ」

「ネコネコにゃんこ拳の要素がないんですけど」

「こまけえことはいいんだよ。ほらキター」

 黄色Tシャツが殴りかかってきた。これも華麗に躱すかと新は思っていたが、華恋の動きが一瞬遅くて左頬に食らってしまう。「ぐっひゃっ」

「な、な、殴られちゃいましたよ、ネコヤーさん」

「感動してるヒマはねえぞ、ボンズ」

「いや、感動とかではないかな。ぐはっ」

 二発目のストレートは鼻を直撃した。ツーンとカラシ十倍の刺激がひたいの内部を刺しまくる。

「うぎゃっ」

 三発目はボディーにきた。しかも蹴りであり、しなった右足が脇腹にめり込んだ。当然のように崩れ落ちる。

「こ、こ、これはヤバいです、ネコヤーさん」

 黄色Tシャツは格闘技を嗜んでいるようで、軽くステップを踏みながら挑発するように拳を突き出していた。   

「キックかムエタイか。どたま悪そうなのにやるじゃねえか」

「もう謝りましょう、ネコヤーさん。殺されちゃいますよ」

「いんや、あたいに高三の文字はねえ」

「高三じゃなくて、降参ですよ」

「あたいは高二だっていうの」

 強制的に立ち上がった。多少ふらついてはいるが、ファイティングポーズをとった。黄色Tシャツがニヤリとする。

「こいつ、見かけによらずいい度胸してるぜ」

「こっちは三人やられちゃってますんで、ぶちのめしてください、香田さん」

「おう。こういうのをボコすのは気が引けるが、まあ、しゃあねえわな」

 逃亡チンピラが揉み手をして煽ると、黄色Tシャツが胸を張って近づいた。軽いジャブをかまして弱かったので、見かけ通りと判断し油断していた。

「そいやっ」

 ヨロヨロしていたのは見せかけである。瞬時にしゃがんだ華恋のつま先が新のくるぶしを地面と平行するように蹴った。唐突な足払いはきれいにキマって、格闘技経験者がすっ転んだ。

「にゃんこパンチ」と新が叫んで、倒れている黄色Tシャツの顔面をぶっ叩いた。さらに間髪入れずに立ち上がると、そばでつっ立っていたチンピラを攻めた。

「うわっ」

 常日頃から強がっているわりには防御の姿勢がスキだらけだった。フェイントをかける必要もなく、無防備なボディーに華恋があやつる拳がめり込んだ。

「ぐへっ」

 下品な嗚咽をもらしてチンピラが崩れ落ちた。

「なんか、さっきので鼻血が出てきちゃったんですけど」

「かすり傷だ。気にすんな、ボンズ」

「ネコヤーさんがそう言うなら、気にはしませんけど」

 黄色Tシャツが立ち上がった。鼻を押さえて、手に付いた血を意外そうに見ている。

「ガキのくせしてやるじゃねえか」と感想を述べた。

「それほどでも」と、新の後ろで華恋が言った。

「じゃあ、手足折られても文句はねえな」

「お兄さんには無理じゃん。逆にタマタマ潰してやるぜ」

「やれるものならやってみろ、オラーッ」

 黄色Tシャツが突進してきた。右上段蹴りが頭部を狙う。華恋の手が新の頭頂を押し込んで姿勢を低くさせたが、それは誘いだった。蹴りが上段から中段へ瞬時に下降し、ちょうどしゃがみ込もうとしていた左頬に直撃した。

「ぐへえ」

 今度は、こちら側が下品な音を漏らしてしまった。

「い、いまのは効いちゃいましたよ、ネコヤーさん。奥歯が痛くて頭がクラクラします」

「ちょ、ちょっと油断しちゃった。って、危っ」

 回し蹴りの後はやや上方から圧し掛かるようなパンチだが、これはギリギリで躱した。路上に落ちていた空ペットボトル投げつけると、上手い具合に黄色Tシャツの右目付近に命中した。顔をかばおうとしたスキをついて、みぞおちにストレートな拳を打ち込んだ。

「ネコネコにゃんこ拳奥義、ネコパンツ」と華恋が宣言した。

「ネコパンツになってますよ、ネコヤーさん」

「間違えた。パンチよ、パンチ」

 黄色Tシャツが立ち上がる。腹を押さえながらも感心したように頷いていた。

「いまのは効いたぜ。いいパンチだった」

「それほどでも」と返したのは新だ。 

「打ち合いになるな。たのしくなるぞ」格闘技の男が言う。

「でしょうね」と新。

 壮絶なる格闘が始まった。パンチの応酬、キックの連打、バチバチと空気が唸っていた。新には格闘の技を駆使する能力がまるでないのだが、後ろで操っている女子高生がじつに適格な動きで経験者の意表をつく。体格とパワーの差を俊敏さと知恵でかわし、一撃を浴びせては素早く後退するのだ。数発は喰らってしまったが、それは黄色Tシャツも同じであり、ダメージは同等である。しばし打ち合ってから、お互いが距離をとった。闘気が一息ついて、閑話休題となる。

「けっこうやるな。俺はキックだが、そっちはなんだ」

「ジークンドー」

「ブルース・リーかよ」

「アチャーッ」

 ふたたび格闘となった。華恋が操る新の蹴りやパンチがヒットし、黄色Tシャツもやり返す。お互いの顔が腫れあがった。 

 そこへ応援のチンピラどもがやって来た。彼らは、いつもどこからともなく湧いて出てくる。

「香田さん、遊んでないで早く〆ちゃってくださいよ」

 痩せたスキンヘッドが、トラの威を借りているくせに調子にのって煽っている。だが黄色Tシャツは構えを解いた。

「今日は面白かったぜ。この先の古着屋の隣にジムがあるんだ。平日の午後はたいていいるから、ヒマだったら来いよ」

 ピンと上にあげた親指を突き出してニヤリとする。新は、不敵に頷いて返事とした。

「おまえら、こいつに手を出したらシバくぞ。まあ、逆にやられるのがオチだがな」

 スキンヘッドの尻を蹴飛ばしながら、黄色Tシャツたちが去った。殴ったり殴られたりの緊張と疲れがどっとでてきた新だが、表情は晴れやかだった。

「不良でしたけど、なんかいい人でしたね」

「しょうもねえチンピラだっつうの。クズ人間とて、百パーセント純粋な悪はおらんって。たとえ地獄にでもな」

 華恋にそう言われても、さっきの相手を憎めなかった。また会いたいという気持ちもあった。 

「じゃあ行くか」

 華恋が歩き出した。

「ネコヤーさん、どこへ」

「きまっているだろう。おめえの課題を片付けにだ」

「僕の?」

「そうだ。いまの格闘で体があったまってきたろう。まだまだやりてえはずだ。やっつけたいヤツがいるだろう」

 華恋が立ち止まり、わざわざウンコ座りをして怪しげな目線を流した。

「いや、でも、僕の相手は強すぎるからムリだよ。きっと敵わない。ボコボコにされる。ネコヤーさんでも勝てないよ」

「勝てるかどうかじゃねえんだよ」

 華恋が立ち上がった。ポケットから細長い棒を取り出して口にくわえる。そのまま空気を吸い込んで、「フー」と吐き出した。

「じゃあなんで」

「それは、おめえが知っているだろう。フー」

「ネコヤーさん。かりんとうをタバコ代わりにしても、ちっともカッコよくありませんよ」

「ほら、きたぞ」

 女子高生がガリゴリとかりんとうを咀嚼していると、通りの先から男子高校生たちがやってくる。この時間帯に、こういう場所をウロついているのは、彼らが不良生徒だからだ。

「ああ、きちゃった。あいつらは・・・」

 新が真下を向いた。そのまま立ち去ろうとするが、華恋が逃がさなかった。

「いっちょ、暴れてくるか」

 背後に回り、また手足を操りだした。女子高生の豊満な部位に背中を押される新は、前進せざるを得ない。ほどなくして彼らと対峙することになった。

「おい、おめえら、うっぜえんだよ。アイス買ってこい」

 華恋が吠えた。新は声が出ない。目を白黒させている。

「なんだ、こいつ」

「突然かよ」

「けっこう可愛いな」

 三人の不良男子が好色そうな目で撫でまわした。

「アイスを買ってこないやつは、こうだっ」

 いきなりの右ストレートだった。

 真ん中にいたリーダータイプの高校生男子の鼻にヒットし、彼は「ぐはっ」と呻いてその場に崩れた。突然のことで左右の二人は対応できず、オロオロしている。

 よろめきながら立ち上がろうとするが、すかさず膝蹴りが炸裂して路上に転がった。女子高生の蹴り上げでリーダータイプのガラスハートが粉々になった。仲間に手を借りながらなんとか起立し、目の前に来てペコリと頭を下げた。

「すんません、買ってきます。ガリゴリ君でいいっスか」

「マグロ納豆味や。二つな」

 不良高校生たちは駆け足でコンビニへと向かった。彼らを待つことなく華恋が歩き出す。新も一緒である。

「あいつ、ぜんぜん弱かった。さっきのお兄さんよりも手ごたえがない。あんなのを怖がってしまって僕は・・・、僕は」

 そのあとが続かず、下を向いて沈黙してしまう。

「そんじゃよう、新の家に行ってゲームでもすっか」

「え」

「ハラへったから、カップ麺でも食うべ」

「僕の家は、ちょっと、まずい、かも」

 一軒の住宅の前にいた。郊外の、どこにでもあるふつうの二階建ての家である。

「へえ、新の部屋がそのまんまだな」

「そうですね、ちょっと意外です。すぐに片付けられちゃうと思ってました」

 新の部屋の真ん中に立って様子を見ていた。

「なしてさ」

「だって父さんも母さんも、僕のことなんてどうでもよかったんだ。二人とも、仕事にしか興味がないから」

「んなこた、ねえぜ。新」

 二人は一階に降りていた。居間の隣に和室があって、そこに中年夫婦がいた。小さめだがしっかりとした仏壇があり、そろって手を合わせている。女のほうはしきりに息子の名を口にしていた。

「新の父ちゃんとおっかさん、毎日こうしてるんだぜ。たしかに仕事は忙しかったけど、息子に興味がない、ってのはないぜよ。けっしてない」

「母さん」

 新の声は、もう響かない。沈みきった母の心に届くことはないのだ。

「もう三年が経つなあ、おい」

 華恋が後ろにいる。言い方はぞんざいだが、吐息は生温かく柔らかだった。

「僕はイジメられていたんだ。アイス買いにいったあいつに、中学生の時に毎日毎日殴られていた。お金もとられて、足りないから父さんの財布から盗んだ」

 思い出したくない光景が心の中で再現される。一秒を経ることに苦悩が蓄積されてゆき、ひたいにぶっ太い血管が浮き出ていた。

「怖いし辛いしで死のうと思って」

 新が振り返って華恋を見た。肝心なことは面と向かって言おうと決心していた。

「死んだんだ」

「そだね」

 体育館の広大な空間には二人しかいない。夜の街から漏れた灯が入ってきて、絶妙に薄暗かった。

「死んでからもずっと怯えていた。すごく凶悪なやつだと思っていたから、心の底から怖かったんだ。でも、ぜんぜんたいしたことなかった。こんなに可愛いJKに命令されてパシリにされていたくらいで」

「褒めてくれてありがとう。でも、いまのネコヤーは、ちょっとブサイクになっていますよ」

 女子高生の顔があちこち腫れあがっている。激しく殴り合ったさいに、格闘技経験者のパンチや蹴りを何発も喰らっていた。青や赤の痣は痛々しく見えるが、とびきりの美少女であることになんら変わりはなかった。

「高山新」

 壇上で声を張り上げたのは猫屋敷華恋である。

「はい」

 新の返事も負けていない。むしろ吹っ切れた分だけ明瞭であり、意志の清澄さを感じさせた。

「ここに卒業証書を授与する」

 紙の卒業証書はない。だから華恋は、少年をそうっと抱きしめた。天上の案内人である彼女の背には真っ白な翼があって、ゆっくりと拡がっている。

 新は号泣している。その時が来たことを知ったのだ。

 遥か天空から一条の光が差し込んできた。二人を包み、えもいわれぬ熱量で新をあたためる。

「ネコヤーさんが連れて行ってくれるのですか」

「そだよ」

 凛とした静寂の中、純白にして無垢なる翼が音もなく羽ばたいた。昇ってゆく少年が、もう下を見ることはなかった。

 

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