プロローグ2

 地震と間違う程の強い揺れ。けれどそれにしてはあまりに短く、爆発音に近いものがした。

 ドン、と揺れた衝撃で窓がガタリと鳴り、電球がからんと音を立てる。

 二撃目を警戒する間もなく、ライフルと拳銃を携え、外へと飛び出した。

冷たいはずの夜風が妙に生ぬるく異臭を運んできた。

 真っ赤な炎。

 空襲か、とロゼは疑い空を見上げるが、立ち込める煙でそれも見えるはずもない。

 無線には何の指令も出ていない。ロゼは爆炎が上がる南西を視認しその場へ急行する。

 火の元から飛び出して灰を被り、黒ずみをつけた人、人、人。火のまわりが速い上に夜中の爆発だ。視界を確保できる桟橋へと駆け上り、スコープを覗いた。要塞が破壊された形跡はない。内部から突発的に起こったと見るべきか。無線の応答を待つが、待機も出動もいずれの指示もない。

 爆発から数十秒経ってようやく警報が鳴り、一層辺りは騒然となる。

 逃げ惑う人を掻き分け、ロゼは一目散に走った。まるで逃げるように。

 パラパラと燃え尽きた灰が舞う中、バキバキと破壊音を立てて食らいつく炎がそこにあった。立ち並ぶ木々も火柱と化してしまっている。夏の強い風が吹いているせいだ。

 このままでは町全体に火が移ってしまう。

「ロゼ!」

「——っ、セタ! 敵襲か?」

「いや、違う」

爆炎でなびく小麦色の髪の男、セタ。その馴染みの中尉が戦場ですら見たことはない程

冷静さを保てていない。上官であるセタに従い、事態に対処すべきだ。

途端、また噴火のような爆発音が襲った。風圧と熱と灰————。それがまた唸りを上げて辺りを覆い始めた。

ロゼは爆発された建物を凝視した。爆発する前ならドーム状の施設が大・中・小ときれいに並んでいるはずなのだ。それが三つとも火にのまれているではないか。

「火元は研究施設だ。すぐに避難しねぇとまずいぞ。発電所に引火するかも」

「研究所だと? 消防隊は? 来ているのか!」

 ごうごうと燃え盛る炎が二人の顔を強く照らす。皮膚が痛い。

「そんなこと言っている場合じゃない! いいから来い!」

強く引っ張るセタは異常と言っていいほど焦っている。

 泣き叫ぶ住民を追い越し、並び続く廃墟の中へぐいぐいとセタはロゼを連れて行く。燃え盛る火の波からどんどんと遠ざかる。

「おい! どこへ行くんだ。そっちは何も」

セタは足を止め、握ったロゼの手を払いきびすを返した。夕日に照らされたような彼の表情は、何かの痛みに耐えているようだ。

 何も分からぬまま、ロゼは足元へ目を下ろし、そして、息が詰まるような光景を目の当たりにした。

 わずかに飛ぶ火の粉と煙の中、ロゼの中にわずかな静寂が訪れた。

叫び声も、火の燃える音も遠くへ追いやられた。瞬きも忘れ、目の前のそれから目が離せなかった。わずかに息を吸い、絞り出した声はひどく震えている。

「——シャルル?」

ロゼは友人の名を呼んだ。曇り空の色の髪が炎の光で明るく照らされている。いつもの清潔なはずの白衣には腹部を中心にべっとりと血で染まっていた。

 見慣れたはずの血の色なのに、ロゼは震えが止まらない。

 シャルルの口元からは血が流れている。皮肉なことに、腹部の出血からもう助からないことがロゼにはわかってしまった。


——この子を。


 うつろな目で、消えそうな声でシャルルはロゼに告げる。

 シャルルの傍らにある布に包まれた小さなもの。規則正しく膨らむそれは、赤ん坊だった。ロゼはそれをまるで壊れやすいガラスを扱うように、優しくそっと、慣れない手つきで抱きかかえた。

 雲のように白いふわふわとしたまだ少ない髪。甘いにおい。

 すやすやと気持ちよさそうに眠っている。ただの赤ん坊にしては随分と上品な顔つきだった。淡雪の妖精では、と疑ったほど真っ白だ。暫時、見ほれていたロゼは再びシャルルに目を戻した。

「その子は、フィンだ。………俺がつけた」

 何故か誇らしげに笑うシャルル。困惑するロゼには理解できない。抱いたことすらない小さな命を目の前に、ロゼははっと息を呑んだ。

「………頼、む。逃げ、ろ」

 数多くの死に慣れすぎたロゼは、死への絶望を忘れていたはずだった。

 けれど全身の力が抜けて、周囲の叫び声すら飛んでいく。聞こえるのは自分の心臓の鼓動が速くなる音だけ。武者震いではない、純粋な震えだった。

 シャルルは鮮血を流す口元で、笑みを浮かべて、それこそ幸せそうに友人である二人の名を呼んだ。空虚を見つめるその瞳は、ゆっくりと生気を失っていった。

 崩れ落ちるロゼの後ろで、セタは壁にもたれ頭を押さえていた。わずかに震える彼からは、小さな嗚咽と、友人の名が聞こえる。

——逃げろ。フィンを連れて。

 この日から、友の言葉で始まった。

国を捨て、振り返ることなく走り続けた真っ赤な夜。

 黒く空にあがる煙だけが見送る。

赤ん坊を連れた兵士二人は、長く続く国道を下っていった。それはどこまでも果てしなく、長い道のりになるとも知らずに。


 これから記される全ては僕らが生きていく壮絶な逃亡の記録。「いつかの救い」を願って歩き続け辿り着いたその先にあったもの。

 生まれた理由、闘い続けた理由。

 その全ての答えが、迷いながらも求めた答えが、いつか分かると信じて——。

 僕らは逃げ続けた。

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