三位一体の実験

真狩海斗

第一の殺人(未遂を含む)

【日本 文久2年(1862年)8月21日】島津久光⚔️

 1

 1853年(嘉永6年)の黒船来航により日本は鎖国から開国へと大きな転換期を迎えていた。

 尊王攘夷運動が高まり、安政の大獄、桜田門外の変と幕末の物騒がしき世相が続く。旧東海道生麦村で、前代未聞の事件が発生したのは、そんな世相の最中であった。


 2

 その日は日曜日だった。陽が燦々と照りつける午後2時に、武士の集団がゾロゾロと歩く。その数、4百余名。幕府改革の勅命を幕府に伝える勅使大原重徳の護衛の任を終え、江戸から京都に帰る薩摩藩の隊列であった。

 その中心で厳重に担がれる駕籠から、ただならぬ怒気が噴出していた。


 怒りの主は、薩摩藩主の父、島津久光であった。狭い駕籠の中、島津久光は憎々しげに不満を口にする。

「本来であれば海路で帰藩できたものを。何の因果で、かような悪路に」

 呟いた直後に、駕籠は不規則に揺れ、島津久光を左右に揺さぶった。チッ。島津久光が大きく舌を打つ。駕籠を担ぐ藩士が恐怖に震え上がる。

 島津久光の怒りの矛先は幕府に向いていた。そもそも、薩摩藩としてはイギリスより購入し、引き渡しを終えた軍艦・永平丸に乗船して鹿児島に直行する手筈であった。最新鋭の軍艦に乗っての帰還はなんと快適なことだろう。潮風を浴びるのも風流だ。

 それをなんだ。石炭を満載して、まさに乗船完了した段階で、老中が海路での帰藩を禁じ、他の大名と同様に陸路とすることを命じやがるではないか。参勤交代では軍艦による海路での往復が許されているにも関わらずだ。嫌がらせとしか思えない。とうてい許せぬ。

 幕府への激情に駆られる島津久光の額から、大粒の汗がポタリと滴り落ちた。


 3

 隊列が生麦村にさしかかったとき、神奈川方面から馬を走らせてきた外国人4人と遭遇した。

 上海在住のイギリス商人リチャードソン、その友人で香港商人の妻ボラデール夫人、夫人の義弟で横浜在留商人マーシャル、そして、横浜のハーバード商会のクラークだ。

 彼らは、ピクニックに向かうべく、のどかに語らいながら馬を走らせていた。


 眼前に現れた4人の外国人に対して、行列を警護する武士たちは身振り手振りで要求をする。行列に近づくな。下馬をせよ。

 しかし、リチャードソンらは下馬するでもなく、前進を続ける。彼らは、大名行列が通るとき土下座するという日本の国の習慣を知らなかった。一方で久光の行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、騎馬のリチャードソンらは脇に寄ることもできない。結果として、行列の中を逆行して進行することとなる。

 そして、彼らは鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れてしまう。あの、憤怒の島津久光のすぐ近くに。


 4

 供回りの藩士たちは慌てふためいて、無礼を咎める。何しろ、島津久光は元来より市中を我が物顔で行き交う西洋人に嫌悪感を抱いていた。ましてや、今の島津久光の機嫌はすこぶる悪い。何が起こるかわからなかった。ようやく事態の深刻さを認識した外国人らであったが、もう遅い。引き返そうとするが、あわれにも、その場で馬が堂々巡りをしてしまう。


「やってしまえ。やらねばならぬ」

 実際に島津久光が指示を出したのかは定かではない。だが、薩摩藩士の耳には島津久光の低く殺意に満ちた声が聴こえていた。

 薩摩藩士・奈良原喜左衛門が鬼の形相で、刀を抜く。刃がゆらりと煌めいた。刀身にリチャードソンの顔が反射する。これから自らが味わう惨状を悟り、その表情は硬直していた。

 一瞬の静寂。続けて、他数人の藩士も抜刀し、一斉に斬りかかる。無礼なり。


 薩摩藩士の刃は、リチャードソンの肩に食い込むと、しろがねの流星となり、腹までを一直線に切り裂いた。流星の軌道をなぞるように鮮血が鳩走り、心の臓が果実の如く両断される。臓腑がゆっくりと顔を出し、そのままボトリと溢れ落ちた。

 リチャードソンを乗せた馬が、一目散に逃げ去ろうとする。しかし、臓腑を失ったリチャードソンは200メートルほど戻った松原で落馬、追いかけてきた海江田信義にあえなく止めを刺された。


 5

 続けて、薩摩藩士は、マーシャルとクラークにも斬撃を浴びせる。血が舞い、地面を朱に染める。悲鳴を上げるボラデール夫人であったが、彼女も例外ではない。容赦なく、刃が彼女に迫る。縦一閃。振り下ろされた刃は、彼女の帽子を弾き、髪を切断する。帽子は風に揺られて宙を舞うと、赤黒い血の海にゆっくりと着地した。


 3人は命からがら、横浜の手前の神奈川まで逃げ帰り、保護された。

 後世に語り継がれる"生麦事件"の一部始終であった。


【英国 1925年】オッペンハイマー💣

 1

「また同じ夢だ」

 布団を払い落とし、22歳のJ・ロバート・オッペンハイマーはため息混じりにこぼした。苛立ちをぶつけるように髪をくしゃくしゃと乱暴に掻き乱す。時刻はまだ午前4時32分。窓の外は薄暗く、夜と朝の混じり合った狭間の色をしていた。


 悪夢は決まって同じ内容だった。

 爽やかな朝の風が吹き込む研究室で、オッペンハイマーはひとり実験に励む。今度こそ成功する筈だ。赤子を扱うように、慎重に、慎重に機械をセットする。しかし、最後のスイッチを押した瞬間、オッペンハイマーの指先から漆黒の闇がズズズと漏れ出した。指先を掴み、一心不乱に漏出を止めようとするが間に合わない。質量を持った闇は掌の隙間をすり抜け、煙のように範囲を広げていく。闇は機械を覆いつくすと、一気に圧し潰した。

 闇は、いつしか、オッペンハイマーの白衣も黒に染め、あっという間に、底なしの闇に引き摺り込む。闇はオッペンハイマーの両脚を粉砕し、研究室、大学、街をも飲み込んでいく。

 全身を潰される直前、オッペンハイマーが見たのは、闇に堕とされる無数の人々と世界の姿であった。

 

 2

 原因はわかっていた。

「私は実験がどうにもダメなんだ。理論は得意なんだがね」

 オッペンハイマーは鏡に映る自分に向けて自嘲する。澄んだ水色の瞳が、自信なく揺れている。鏡の中の自分が返事することは、この日はなかった。

 この時期、オッペンハイマーは博士課程の学生として、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所でパトリック・ブラケットの下で量子物理学を学んでいた。

 オッペンハイマーはブラケットを尊敬しており、彼の承認を得られるよう熱心に努力した。しかし、ブラケットは実践的な実験物理学者で、オッペンハイマーが不得手な実験をもっとやるよう、うるさく言いつけるのだった。

 ブラケットは多分それを気にしていなかったのだろう。だが、オッペンハイマーの動揺した精神状態にとっては、この関係が激しい不安の元となった。心の天秤の片側に、質量をもった闇が重くのしかかる。闇の重さが増すほどに。天秤の傾きは大きくなる。安定を欠いてなお、傾き続ける天秤はいずれ壊れるほかない。

 幼少期から秀才として知られ、ハーバード大学をわずか3年で、それも首席で卒業し、のちに"原爆の父"と呼ばれるオッペンハイマー。ドストエフスキーを愛する、若き日の彼は、感情的な問題や孤立感の高まりを起因とする重篤な鬱病に苦しめられていた。


 2

 1925年の秋も終わる頃、とうとう天秤が壊れた。オッペンハイマーの精神の不安定が頂点に達したのだ。彼は友人のファーガソンにある告白をする。

「私は恐ろしいことをしでかした。毒入りのリンゴをブラケットの机に置いてきたんだ」

 自らの適性のなさと、激しい嫉妬の感情に突き動かされ、彼は情緒的混乱に耐えられなくなっていた。


 3

 幸いにも、ブラケットがリンゴを食べることはなく、悲劇は起こらなかった。それでもケンブリッジにとっては一大事ではある。しかし、両親の熱心な交渉もあり、オッペンハイマーが大学から追放されることはなかった。


 実際、オッペンハイマーがリンゴに毒を仕込んだという証拠はなかった。友人らの中には、当時のオッペンハイマーは幻覚に取り込まれていたと考える者もいた。

 友人のワイマンは後に語っている。

「本当のリンゴだったか、あるいは、想像上のリンゴだったかは結局わからなかった」

 オッペンハイマーが毒を仕込んだのは想像上のリンゴだったのかもしれない。しかし、彼は想像上のリンゴに、限りない実感を持っていた。


【英国 1888年8月31日】アバーライン👮

 1

 第一の犠牲者が発見されたのは、ホワイトチャペル・ロードに面した地下鉄ホワイトチャペル駅の裏側に当たるバックス・ロウだった。


 金曜日の午前3時40分頃、霧の都の朝はまだ暗く、ひとけはなかった。遠くに青いガス灯がボンヤリと薄暗い光を投げかけてくる。

 道の片側は倉庫の壁、反対側には連棟式集合住宅が並び、南端には厩舎跡の空き地や寄宿学校がある。この辺りにしては、豊かな商店主が住む地域であった。

 同時刻、荷馬車の御者チャールズ・クロスがバックス・ロウ入ってきた。チャールズは眠い目をこする。早朝出勤は何年経っても辛い。欠伸すると、目尻に涙が浮かんだ。

 ハウスと寄宿学校の間、ブラウンの厩舎跡に続く通路前まできたとき、彼は防水シートのようなものを見つけた。

 荷馬車から落ちたのだろうか。防水シートは屠畜した馬の胴体をくるむために使われることが多い。

 拾っておいて損はないだろう。防水シートに近づいたチャールズだったが、直後に悲鳴をあげて尻餅をつくこととなる。

 防水シートに包まれたそれは、女性の死体だった。


 2

 翌朝、死体仮置き場では死体の司法解剖を行うために女性の衣服が剥がされていった。

 粗末な赤褐色のアルスター・コート、褐色のリンゼー(リンネルと毛混紡)上着、黒い木綿のスカート、白の木綿の肌着、フランネルとウールのペチコートが各1枚、褐色畝織りのコルセット、黒のウール靴下、この時代の常としてショーツやパンティは履いていない。下層階級の女ではあったがきちんとした身なりである。8月末とはいえ、ロンドンの夜は涼しい。昼間で摂氏15、6度、夜間は11、2度しかない。


 死体解剖の結果を当時の新聞スター紙はこう報じている。

「被害者の咽喉には二カ所深い切り傷があり鋭い刃物で無残に抉られている。

 一方の数は左耳下から咽喉の中央部へ、もう一方の傷は右耳下から左耳下まで達している。その長い傷のために頭部が身体から切断されそうになっていた。しかしこの傷も他の個所の傷に比べればまだましである。

 およそこれほど残忍で酸算な殺人はいまだかつてなかった。大きく鋭いナイフは被害者の下腹部を二度にわたって抉っている。最初の一撃は右から左腎部に抜けている。第二撃は下腹部から身体の中央部へと切り上げられ胸骨に達している。かくも恐ろしい仕業は狂人の犯行としか思えない」


 3

 リック・ジョージ・アバーライン警部を主任とする捜査本部が立ち上がる。まずは被害者の身元確認が必要であった。


 身元はすぐに判明することとなる。仮置き場に死体を確かめにきた者の中で、二人の女がその身元を証言したのだ。

 エレン・ホランドは遺体がスピッタルフィールズのスロール・ストリート一八番地の簡易宿泊所に一緒に住んでいた通称ポリーという娼婦だと確認した。

 もう一人の証人でラムベス救貧院に住むメアリ・アン・モンクもまた、遺体がメアリ・アン・ニコルズ、通称ポリーであると証言した。

 最期の晩、宿貨がなく宿泊所を追われたポリーは、娼婦仲間に帽子を自慢していたという。黒いビロードで緑取られた新品の麦藁帽。死体の脇に落ちていた帽子であった。

 

 4

「犯人は一体何者なんだ」

 アバーライン警部は犯行現場で思案する。諸々の状況から、犯人はポリーをこの場所で殺したとしか考えられなかった。それも一瞬でだ。目を閉じて、犯行時の様子を想像する。

「俺が犯人だったらどう動く?」

 

 まず、はポリーに声をかける。紙幣を見せ、買春を持ち掛ければ簡単に着いてくるだろう。そして、連れ添って歩きながら、現場の暗がりに連れ込む。そして、いきなり襲いかかる。一気に咽喉を切り裂いた。被害者は声を立てるひまもなかった筈だ。そのあとで腹部を刺し、ズタズタに切り裂いた。


 アバーライン警部が目を開く。犯人の気持ちに入り込みすぎていたらしい。無意識のうちに、拳がナイフを握るように形取られていた。残忍な犯行を追体験したためだろう。酷い吐き気がした。だが、不快と引き換えに、アバーライン警部は一つの結論に辿り着いていた。

「こうした一連の行為を暗がりで手際よくやるのはとても素人では難しい。犯人はナイフを使い慣れた男だ」

 医師、屠畜人、肉屋、靴職人、ギャングなどが容疑者として浮かんできた。

 なんとしても早急に犯人を逮捕して、治安を保たなければならなかった。

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