第7話 清水さんと調理実習③
「次は玉ねぎか……」
清水さんの表情はどこか不安そうだ。
「キャベツも切れたから玉ねぎも大丈夫だよ」
ニンジンと豚バラ肉は既に僕が切ったから、玉ねぎを切り終われば僕たちの作業は終了だ。
「じゃあ切るぞ」
そうだ、さっきは言わなかったけど包丁を使う時の手の添え方を教えておかないと。
「清水さん、猫の手って知ってる?」
「猫の手?」
「包丁を使う時に食材に添えてる方の手を間違って切ったりしないように、添えている手は猫の手の形にしておくんだよ」
「猫の手ってどんな形にすればいいんだよ?」
もちろん指を軽く折りたたんだ状態だけど、口で言っただけでは伝わりづらい気がする。僕は左手を猫の手にして清水さんの前に突き出した。
「これが猫の手だよ。清水さんもやってみて」
清水さんは僕の左手を見て、ぎこちない動きで左手を猫の手にした。
「こうか?」
自分の手の形を見るために清水さんは顔の横に猫の手を添えているから、あざといポーズをしているようにも見える。本人は完全に無自覚だろうし、言ったら怒りそうだから口には出さないけど。
「おい、違うのか」
「ごめん、それでオッケーだよ」
慌てて返事をする。この動揺が伝わっていなければいいけど。
「気をつけて切ってね。あと猫の手を忘れないで」
「おう」
清水さんの持つ包丁が半分に切られた玉ねぎに下ろされた。
「切ったけどこれでいいか?」
「うん。大丈夫。ただ安全に切るために、もう少し猫の手の位置を変えた方がいいかも」
「手をどこに置けばいいんだよ」
包丁の腹に左手の中指か人差し指が接するように、と話しても伝わらない気がする。どう表現すればいいだろうか。言葉じゃなくて直接やって見せた方が早いかな。
「僕が玉ねぎ少し切るから見ててくれる?」
「ああ」
そうして何度か説明しながら切ってみたけど、うまく清水さんには伝わらなかった。
「どうしよう」
「私が間違ってるのはなんとなく分かるけど、正解がよく分からねえんだよ……」
言葉だと難しい。見ただけでは伝わらない。そうしたらあと残っている方法は実際に体験してみることくらいか。
「清水さん、ちょっと手触ってもいい……」
僕が全て言い終わる前に、清水さんは包丁を置き素早く両手を顔の前に引き寄せた。
「お、お前、私に何する気だ」
「猫の手を添える位置を清水さんの手を持って教えようかなって。でもごめん。嫌な気持ちにさせちゃって」
あまり気にしていなかったが、人に触られるのは嫌という人も大勢いるだろう。清水さんには申し訳ないことをしてしまった。
「別に嫌って……」
清水さんが何か言ったようだったけど、声が小さく聞き取れなかった。
「……いい」
「清水さん?」
「いいって言ったんだ。だから私の手を触って教えろ」
「本当にいいの?」
「二言はねえ。早く教えろ」
僕よりも清水さんはよっぽど潔い。いいというなら僕が遠慮するわけにはいかない。
「分かったよ。清水さんがいいならそうするね」
急いで僕は清水さんの後方に移動した。
「清水さん触るよ」
「来い」
清水さんの手の上にゆっくり僕の手を置く。
「ひゃっ」
予想外の悲鳴を聞き、班員の視線が僕たちに集まる。
「……見せ物じゃねえ」
清水さんが周囲の班員を睨みつける。その声を合図にみんなの視線が散った。どうやら先ほどの悲鳴は聞かなかったことにするらしい。
「大丈夫? 清水さん、やっぱり無理してない?」
「問題ねえ。さっきは少し不意を突かれただけだ。もう油断しねえから早く触れ」
「分かった。いくよ」
触ると言ってから触って不意を突くも何もない気がするけど、本人が言うのならそうなのだろう。僕はもう一度清水さんの手に触れる。今度は悲鳴が上がることはなかった。
「……それでどうすればいい?」
清水さんの声はなぜか先ほどより少し小さい。清水さんの後ろにいるから表情は窺えないが耳が少しだけ朱を帯びているように見えるのは気のせいだろうか。
「包丁持ったよね。玉ねぎの切りたい部分に包丁の刃を乗せてみて」
「おう」
清水さんが僕の指示通り包丁の刃を次に切る予定の箇所に乗せた。
「そうしたら手を添える位置はここ」
僕は清水さんの左手を玉ねぎの上に動かした。
「おう。じゃあ切るぞ」
「僕の手が邪魔になるなら離そうか?」
「……そのままでいい」
そう言うと清水さんは包丁の刃を下ろし玉ねぎの切断に成功した。
「いい調子。次はどうすればいいか分かる?」
「包丁の位置がここだから左手はここか?」
清水さんが僕の手ごと自分の左手を動かす。
「うん。僕もそこでいいと思う。それが分かったらもう大丈夫かな」
「……邪魔じゃないからそのままでいい」
「え?」
「だからそのままでいい」
「う、うん。分かった」
清水さんの気持ちは完全には分からないけど、まだ不安が残っているのかもしれない。僕は清水さんがいらないというまで補助を続けることに決めた。
「それじゃあ続けてもらってもいいかな」
「ああ、いくぞ」
その声はなんだか少しだけ楽しそうに聞こえた。その声と共に包丁が動き始める。
「ここでいいか?」
「うん。大丈夫だよ」
清水さんが僕に確認を取りながら少しずつ作業を進めていく。包丁を止めている間、ふと清水さんの耳を見ると、そこは熟れたトマトのように赤くなっていた。
「清水さん大丈夫? 耳が赤いけど」
「は? そ、そんな赤くねえ!」
「いや、赤いって。鏡とかないから今は見せられないけど」
「それは……」
こんなに近くにいるのに、清水さんのそのささやきは僕の耳まで届かなかった。
「とにかく私は大丈夫だ! ほら遅れてんだから作業進めるぞ」
「清水さんが平気ならいいや。じゃあ再開しようか」
結局、玉ねぎを切り終えるまで僕の手が清水さんの手から離れることはなかった。
「清水さん、肉野菜炒めおいしくできてよかったね」
調理実習を終えた昼休み、僕たちは調理室で作った肉野菜炒めをみんなで食べていた。僕と清水さんが食材を切った後は、残った班員のみんなが上手に炒めたり味付けしたりしてくれたおかげで、肉野菜炒めは無事にできあがった。
「まあよかったんじゃないか」
隣で食べる清水さんも肉野菜炒めの出来栄えに満足しているみたいだ。
「それならよかったよ」
「……本堂、一ついいか」
肉野菜炒めを食べ終えた清水さんが顔を僕の方に向けた。
「どうしたの?」
「私と一緒に調理してどうだった?」
この質問にはどういう意図があるのだろう。清水さんの顔を改めて見る。その表情にはわずかながら不安が感じられた。もしかすると清水さんは自分が役に立てなかったと思っているのかもしれない。どう答えれば不安を取り除けるのか。
「正直最初は結構怖かった。清水さんにケガさせちゃいそうで」
「うっ」
思うところがあるのか、清水さんが僕から視線を背ける。
「だけど最後は清水さんが僕と一緒に調理してくれて嬉しかったな」
清水さんが僕の方に顔を向け目が合う。
「清水さんが一生懸命やってくれたから、一緒にやっててとても楽しかった。よければまた調理実習の時に一緒にやってくれないかな?」
なんだか結局思っていたことを全て口に出してしまった。清水さんは一体どう思っているのだろうか。十秒ほど待っていると清水さんが口を開いた。
「ど……」
「ど?」
「どうしてもって言うならまた一緒にやってもいい」
「ふふっ」
「な、なんで笑ってんだよ!」
しまった。思わずこらえきれなくて笑ってしまった。
「いや、断られると思ってたからさ。それじゃあ次もよろしく、清水さん」
「お、おう。しょうがねえな」
清水さんが腕を組んで答える。僕は次の調理実習が少しだけ待ち遠しくなった。
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