少女短編集
水飴 くすり
憎悪の箱
三連休明け、クラスは騒然としていた。
たった一人の言葉が、急激なスピードで伝染していく。
あきは自分の机に肘をついて手の平で顔を支え、教室内の顔をぼんやりと見ていた。
嘲笑う顔、困惑する顔、疑惑の顔、憤怒の顔。様々な表情を浮かべるクラスメイト達。
教室の中では、異様な空気が漂っていた。
本日、何度目かも解からない言葉が聞こえてくる。
「真奈って、五組の担任の遠藤と不倫してんだってさ」
その時、教室の後ろのドアが開いて、ショートカットの少女が現れた。吊り目気味の眦は、見る者に意思の強そうな印象を与えた。薄い唇はきつく閉じられ、顔色は真っ白だった。
一瞬でクラス中がしんと静まり返り、少女に向かって視線が集中した。少女はそれに怯む事もなく、姿勢よく自分の席へと向かう。
少女が現れたと同時に席を立ち、あきは一直線に駆けていった。
「真奈……大丈夫?」
真奈と呼ばれた少女は、あきの言葉に困った風に肩を竦めると、薄く苦笑した。そのまま、あきの視線から逃れるように顔を逸らす。その眦が赤く色づいているのを見て、泣いたのだ、と気付いた。
あきはかける言葉を失いつつも、彼女から視線を逸らさずに次の言葉を待った。
胸が痛んだ。
それは僅かに残った罪悪感のようにも思えた。けれど、その中にある確かな満足感にも気付いていたので、あきはきゅっと唇を噛み締める。
「とりあえず今日は早退。明日からしばらくは多分来れないんだと思う。今日、会議するってさ」
冤罪なのに、まったくツイてないよね。
そんな風に真奈が笑うので、あきは震える手で強引に彼女の鞄を奪うように手に取った。そのまま、驚いた様子の真奈の手を掴むと、ドアに向かって急ぎ足で歩いていく。
「一緒に帰る」
「……だめ。あきは戻りなよ」
「じゃあ、昇降口まで」
妥協案を出せば、仕方ないな、とでも言うような目で真奈は小さく笑った。その疲れ切った目をなるべく見ないようにして、真奈を悪意の籠った教室から連れ去った。
予鈴が鳴ると、廊下は一気に人が居なくなった。
このまま誰も出てくるな。誰も、私たちを見るな。
思いながら、真奈の手を握る力を強めないように、細心の注意を払って加減した。そうしなければ、感情のままに指の一本でも握りつぶせそうだった。
あきは廊下に出てからは僅かに減速し、真奈の歩く足のスピードに合わせて歩いた。一歩遅れて連れられている真奈の気配が、僅かに緩んだのがわかった。
いつも、あきは真奈の歩く歩調に合わせていた。せっかちな性格の割に、歩くのだけは遅い、真奈の為に。
「……真奈さ、遠藤と付き合ってなかったんだよね」
問いの形をしていても、答えは知っている。疑問符はいらなかった。
案の定、真奈は一言
「当たり前」
と低く言っただけだった。
遠藤とは五組の担任で、英語を担当する教師だ。
爽やかな笑顔と明るい性格で、生徒からも教師からも人気がある。
昨年結婚したばかりの既婚者だというのは、彼が担当した生徒ならば誰もが知っている。授業で妻の惚気を散々話すからだ。
あきは「だよね」と言おうとして、口を噤んだ。
いつもと僅かに違う、真奈の声音に気付いてしまった。そんな自分を嗤ってやりたくなる。
そのまま黙っていると、真奈が溜め息を吐いた。重く、湿っぽい溜め息だった。
そうして数秒の沈黙の後、真奈は人生を全て諦めたような、空っぽの笑みを浮かべた。
「私が一方的に好きだっただけ」
低い呟きは、過去形だったが故に、あきの胸を思い切り刺した。
報われないなぁ、と、あきはぼんやりと思った。
それは自分なのか、真奈がなのかは解からなかった。
遠藤に消えて欲しかった。八つ当たりなのは解っていたけれど。
「遠藤は、二年の女子生徒と付き合っているらしい」。
たった一度口にした言葉の結果が口語の中で変容を遂げ、こうまでして歪み、結果真奈が泣くのを知っていたら。きっとあきはそんな事は言わなかった。こんな。こんな事を望んでいた訳ではなかったのに。
「なんでこうなったかなぁ」
真奈がそう言って自嘲するように口端を歪めた。あきもちょうど、同じように考えていた。
この噂の出所があきだという事を真奈は知らないだろう。けれど、仮に知ったとしても、あきを責めたりせずに、まずは理由を聞くだろう事は想像に容易かった。
それが真奈の一番素敵なところで、あきが一番反吐が出るところだ。
こんな事をした理由なんて、あきにすら解からない。
一見冷たそうに見えて、その実懐のものに優しすぎる女だ。きっと、誰の事も憎んだりしないのだろう。
ぼんやりと思考に耽っていると、突然真奈がふっと笑った。
「あき」
「……なに」
「あー……何でアンタが泣いてんのよ」
真奈はそう言って、困ったように眉を下げた。そうしていると、普段の鋭さは消え、まるで水墨画のような柔らかさがあった。
虚空を睨むように顔をしかめたあきを、慈愛に溢れる瞳で見つめている。
あきは優しすぎる人間を愛してしまった自分を、胸の内だけで嘲笑う。叫びだしそうだった。
アンタになんか解かんないでしょうよ、とあきは内心で皮肉を吐いた。
お互い、同じように叶わない恋をした。報われない思いを胸に抱いて、お互い誰にも、お互いにさえ言えずに。脳裏でそんな事を考えながらうつむいた。
アンタがもっと汚い人間ならよかった。そうしたら、私はこんなに汚い人間になんかならなくてよかったのに。頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、言えない言葉の代わりに、あきの頬を次々涙となって零れていく。
「……『真奈ちゃんが泣かないから』っていったら、漫画みたい?」
「みたいみたい。クサい」
「酷いなぁ」
そう言って笑う間も、涙は止まらない。
彼女の信じたであろう言葉は嘘で、本当は、自分の為に泣いているのだけど。
悪意に塗れたデマの噂を流して、彼女の傷を幾重にも抉りたかった。それは叶った筈だった。あきの予想しない結果となって。
けれど今後、彼女が遠藤の事を忘れたからといって、自分の事を好きになる事はないのだ。
あきが望む気持ちを、真奈は一生くれない。
それはいっそ甘美な程の不快感だった。
「ありがとう」
と静かに言って、真奈がまた歩き出す。
先程とは逆で、あきが遅れて真奈についていくように廊下を歩く。
いつもとは違う視界から、真奈の白いうなじを眺めた。
「ううん、……私、真奈ちゃん好きだから」
「知ってる」
「……うん」
嘘吐き、鈍感、最低、好き、大好き、ばあか。
ごめんなさい。
罵る言葉が脳内で溢れて止まらなくなる。もしかしたら、溢れそうなのは感情なのかもしれない。好き。好きなのに。呪いの言葉の合間に、あきはその言葉を何度も繰り返した。
窓からの風が濡れた頬を撫でる。こんなにも気温は高いのに、繋いだ手が冷え切って震えている。どちらの震えかわからない程に。
波のように押し寄せて来る罪悪感に潰されそうになりながら、それでも真奈を独占したいと思う自分に、吐き気がした。
いつか、この気持ちに気付いて、蔑み見下して、決して許さず、見限ってくれますように。
目を閉じて、あきは祈りの呪文を唱えるように思った。
たくさんの 愛してるを集めて
できたのは、憎悪の箱だった
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