第66話
アキラが神社に戻ると、水川さんは駐車場のコンクリート塀の横に1mほど積まれたブロックの上に座っていた。
塀の上の黒猫を向いて、何かの歌をうたっている。
彼女の後ろの方から静かに近づいていくと、なんの歌かすぐにわかった。
さっき話に出ていたゆずの『夏色』だ。
右手に握った大きな赤いお守りを小さく振りながら、原曲よりゆったりしたペースで歌っている。
それが水川さんの透き通るような声と相まって、どこか懐かしいような、それでいてなんだか胸がきゅうっと締め付けられるような、すごく綺麗な歌が響いていた。
「歌、上手いんだね。すごく綺麗だよ」
ひとしきり歌いきったところで声をかけると、水川さんがちょっとびっくりしていた。
「いつ戻ってきたの?…びっくりした」
彼女が思っていたよりアキラがずっと早く戻って来たので、油断していたようだ。
「ついさっきだよ。…あのさ、せっかくだからもう一度聞かせてくれない?」
自転車から降りたアキラが水川さんの隣に腰掛けてお願いした。
「ええー。恥ずかしいよ…」
「さっきは普通に歌ってたじゃん」
「だって、ヴァイちゃんしかいなかったから…」
「そういえば、他のみんなは?」
「電話したら、みんな揃ってベイロードのサイゼに行ったみたい。ちょっと酷くない?って言ったら『マジマジに送ってもらえばいーじゃん』って風香にガチャ切りされたー」
ぐでーっと水川さんが溶けたのを見て、アキラは思わず笑ってしまった。
「ちゃんと送っていくって。だから、サキの歌を聞かせてよ」
「うーん…。アキくんはやっぱりワガママだね。
でも今日は特別な日だから、しょーがないかなぁ。
…下手でも笑わないでね?」
水川さんはそう言って、もう一度『夏色』を歌ってくれた。
美しい歌声が辺りに響きわたっていく。
塀の上の黒猫は目を閉じて喉をゴロゴロ鳴らしているようだ。
アキラも彼女の横に座ったまま目を閉じた。
「………ゆっくり〜、ゆっくり〜〜、くだってく〜〜〜♪」
パチパチパチ!
アキラは歌い終えた水川さんに拍手した。
「すごく良かった。歌ってくれてありがとう」
「もう…、本当に恥ずかしかった。あ、そうだ。アキくんはこの歌のこと知ってる?」
「んー、どうだろ?昔の歌だからよく知らないけど、良い歌だよね」
「わたしは学園に入ってから友達になった子に『
「そうなんだ。今度聞いてみるよ」
「うん…。それでね、この歌の歌詞ってちょっと変なところがあるんだけど、知ってる?」
「え、そんなところあったっけ?」
アキラが首を捻った。
その様子を見た水川さんが笑った。
「一番最初の方の歌詞、『大きな5時半の夕焼け』ってところ。ねえ、今何時?」
「今?えっと、あ、もう6時過ぎてる…」
空を見上げるがまだ全然明るい。
「夏場だと5時半に夕焼けにはならないんだよねー」
「あ、マジか。なんでそんなことになってんだよ…」
「なんかね?作詞したときが冬だったんだって。それで時間を勘違いしたまま曲をリリースしちゃったみたい」
「へー。でもこの曲すごいヒットしたんじゃなかったっけ?今も夏場に聞くことあるし。よく誰も突っ込まなかったな」
「どうなんだろうね?当時のことはわかんないから。でもすごい良い曲だから、みんなスルーしちゃったんだろうねー」
「そっかあ…。みんな結構、勘違い、してるんだなー」
アキラが空を眺めながら物思いに耽っていると、水川さんが自分のカバンから四角い包みを取り出した。
「これ、わたしからアキくんにプレゼント。受け取ってもらえますか?」
「え…。なにこれ?」
「今日、アキくんの誕生日でしょ?日にちがなくて高いものとかじゃないんだけど、使ってほしいな」
「あれ?俺の誕生日のことなんて話したっけ?」
「うん。先週の木曜日に教えてもらったよ?」
「そうだったかな…。よく覚えてないな。まあいいか。わざわざありがとう!開けて良いか?」
「うん」
アキラがラッピングを開いて中の箱を開けると、白とベージュのフェイスタオルが1枚ずつ入っていた。
ハニカム構造というのだろうか。タオルの表地は蜂の巣のような6角形の凸凹生地で織られている。
とても良い肌触りのタオルだ。
広げると隅に小さく『Akira.M.』という刺繍が入っている。
「これからどんどん暑くなるし、良いかなって思って。あの、わ、わたしも使ってるタオルなんだ。ベイロードにあるお店ので、名前くらいなら1日で入れてくれるっていうからお願いしちゃった」
「うわあ、ありがとう!めっちゃ嬉しいよ」
「ふふっ。じゃあ、サキ猫からアキくんへのプレゼント、でした!」
照れ隠しなのか水川さんがまた猫ポーズをとっている。
「なんか、悪いな…。そうだ、今度はサキの誕生日に何かプレゼントするよ。誕生日いつなの?」
「うーん…。ずっと先だからプレゼントの代わりにもう諦めて降参しない?」
「しないって。で、いつなの?」
「わたしの誕生日、4月なんだ。だからアキくんよりちょっとお姉さんだったのに、追いつかれちゃった」
そう言って水川さんが照れくさそうに笑った。
アキラはその笑顔に見惚れてしまったが、もらったタオルをリュックに入れる代わりに、先ほど思い出したラング・ド・シャを取り出した。
「じゃあ、そんなサキ猫さんに俺からもプレゼント」
「え?なにこれ?シュヴーのお菓子っぽいけど…」
「ラッピング開けてみて」
「うん…。あ、ラング・ド・シャだ!」
「サキが好きだって聞いたんだけど、受け取ってもらえる?」
アキラがにっこり笑った。
が、水川さんは固まったまま動こうとしない。
「『
小さな声で呟いている。
「ジュ、ドンマ?」
「う、うん。フランス語の慣用句で、『猫に舌をあげる』って言うんだ。さっきのアキくんの言葉だと、『サキ猫にラング・ド・シャをプレゼント』だから『サキ猫に猫の舌をあげる』になっちゃうんだけど…」
「へえー。サキはすごいな。いろんなことを知ってるんだなあ」
「ブリジットさんに教わったの…」
水川さんが少し潤んだ目でアキラを見つめて言った。
「ねえ、アキくん。本当に貰って良いの?あとでやっぱりナシって言われたら、わたし泣いちゃうからね?」
「そんなに好きだった?もちろん、そんなこと言わないよ」
「じゃ、じゃあ、わたしに向かって『
「ああ、良いよ。じゃあサキ猫さん、あなたに舌をあげるよ。
『
アキラは真剣な顔をした水川さんに笑いかけた。
「うん、うん…。アキくんは約束なんて知らないなんて言わないよね」
やっと笑顔に戻った水川さんが箱からラング・ド・シャを一枚出して口にした。
「すごく美味しい。ありがとう」
潤んだ瞳の水川さんにお礼を言われると、アキラはとても照れ臭かった。
なんとなく話題をずらしたくなって、彼女が歌いながら握りしめていたお守りを思い出した。
「そういえば、さっき持ってたお守りってこの神社のお守り?」
「うん。巫女ちゃんが特別に作ってくれたの。これだよ」
水川さんが赤いお守りをカバンから取り出した。
金糸や銀糸に色糸を交え文様が浮き出るように織った
とはいえ、通常社務所で販売されているお守りの倍くらいある気がする。
「なんかこれ、普通のお守りより随分大きくない?俺のスマホの半分くらいあるよ」
「絶対勝ちたい勝負があるって言ったら、巫女ちゃんが作ってくれたんだ」
「サキはバスケの強豪校のレギュラーだもんな…。良かったね」
「うん!頑張るよ」
アキラが笑いかけると、水川さんも笑ってくれた。
とはいえ、もう6時を過ぎている。
じきに日も落ちてくるだろう。
ノースフェイスのリュックを開けて先ほどとって来たヘルメットを取り出した。
赤と黒のツートンカラーのそれを水川さんに手渡す。
「あ、このヘルメットかわいいね。アキくんとお揃いだ」
「まあ、帰りながら話すよ。とりあえず自転車に乗らない?」
「うん…」
アキラは自分のリュックと水川さんのバッグを自転車の前かごに入れた。
シュヴーの大きなケーキ箱を入れることが出来たサイズのバスケットは、アキラのリュックと水川さんのバッグを余裕で収納してくれた。
アキラが帰る準備をしていると、水川さんはコンクリートの塀の上の黒猫に手を伸ばしていた。
帰る挨拶を黒猫にしているのだろうか。
自転車をその場に停めて、水川さんに歩み寄った。
彼女はまだヘルメットを被っていない。
「サキ、どうかした?」
「…ううん。なんでもない」
「そうしたらメット被って。そろそろ行こう」
「うん。あのね、帰る前に、アキくんの傷跡がもう大丈夫か見たいから、ヘルメット脱いでもらっていい?」
「ん?ああ、別に良いけど。もう大丈夫だよ?」
アキラがヘルメットを脱いで、さっき水川さんと座っていたブロックに腰掛けた。
水川さんが近づいてきた。
暮れ始めてきた夕日のせいか、なんだか頬が赤い気がする。
彼女がアキラの額にかかった前髪を手でかき上げた。
「ちょっと暗くなってきちゃったから、見辛いね…」
「そう?」
「もう少し近くで…。やっぱり傷跡が少し残っちゃってるのかな…」
「別に痛みとかは無いし、ほんの少しだから大丈夫だって」
少しだけ薄暗くなってきた神社の駐車場で、アキラの額の傷跡に水川さんが顔を近づけている。
「アキくん。やっぱり可愛いね。
降参してくれて、ありがとう。
大好きだよ。わたしのヒーローさん」
水川さんはそう言って、アキラの唇にゆっくりキスをした。
5秒、10秒、20秒………………。
フリーズしていたアキラが、水川さんの両肩に手をやって引き離した。
「ぷはあっ!な、な、なななな何するんだよ!」
真っ赤な顔をしたアキラが動揺している。
「わたしがゲームに勝ったからチューしたの」
水川さんが頬をピンクに染めてにっこり笑った。
「え?俺、降参するなんて言ってないぞ!?」
「さっき言ったよ?『
「………はあ?」
久しぶりにアキラが猫ミームと化した。
「だから本当にいいの?って聞いたんだよ。でも、アキくんがちゃんと言ってくれたの。とっても嬉しかった!これからは、彼氏と彼女だね!」
「ソウッスネ…」
連絡先交換しなきゃ!と喜ぶ水川さんの横でアキラが呆然としている。
そんなアキラの様子を見た水川さんが声を震わせた。
「……あ、アキくん。本当はわたしとキスとか、嫌だった?」
「い、いや。そんなことないよ。ただ、こう言う時って、チュって軽いキスなのかなって思っただけで…。ほら、俺、ファーストキスだったから…」
すると、水川さんがアキラの唇に、チュッと可愛いキスをした。
「こんな感じ?」
水川さんがにこりと笑った。
もう完全にアウトだった。
というか、もう時間の問題だったのだから、遅かれ早かれの違いでしかない。
所詮は一介の男子でしかないアキラが、サキのような美人に目をつけられた時点で終わっていた話だ。
アキラが塀の上に目をやると、黒猫が呆れたように「フンッ」と鼻息を吐いた。
水川さんを見ると、もうヘルメットを被っていた。
「アキくん!早く自転車に乗ろう!」と騒いでいる。
なんだかもう笑ってしまった。
アキラはヘルメットを被ると、自転車に跨って荷台に水川さんを乗せた。
アキラがゆっくりとペダルを踏みこむと、水川さんがアキラの腰に手を回してぎゅっとしがみついてきた。
彼女の体温と柔らかさが背中に伝わってくることにドキドキしながら、神社を出て、自転車専用道路に入った。
そして、そのまま学校の近くを通り過ぎ、緩やかな坂を降っていった。
緩やかなくだりの自転車専用道路をブレーキレバーに指を当てて、ゆっくりとしたスピードで走りながら、アキラは水川さんに二つの疑問を投げかけた。
「なあ、サキ。ん〜っと…、もしかして、だけどさ。今までずっと猫被ってた?」
「アキくんは何を言ってるのかにゃー。サキ猫はわからにゃいにゃー」
後ろから嬉しそうな声が聞こえた。
「なんか答えを言っている気もしなくないんだけどな…。
…あとさ、本当に俺で良かったのか?
偶然、あの時神社にいたのが俺だっただけで、もしかしたら他の人がサキのヒーローだった可能性もあるじゃん」
「もう、アキくんは往生際が悪いなー。
…じゃあ、もう一つ教えてあげるね。
一昨日、お姉ちゃんが甥っ子を連れて遊びにきてたの」
「ああ、そんなこと言ってたなー」
「甥っ子と一緒にテレビでスーパーヒーローの番組見てたんだけど、わたしが『悪者に襲われても助けに来てもらえなかった人はどうなるんだろ…』って呟いたら、怒られちゃった」
「なんて?」
「『ヒーローはピンチのときにぜったいくるから、ヒーローなんだよ!』って」
「ははっ!そりゃそうか」
「だからわたしも『でも、ヒーローの中の人が悪い人だったらどうするの?』って聞いたの」
「結構厳しいこと言うねー」
「そしたらね、
『おねえちゃんはわかってないなー。ヒーローはいいひとだからヒーローになれるんだよ!わるいひとはヒーローにえらばれないんだ!』
って言われちゃった。…だから、アキくんが神様に選ばれたのなら、多分意味があったんだよ」
「…そうかなあ。俺はサキの勘違いだと思うよ」
「アキくん。勘違いでもいいよ。だから、ずーっとわたしに勘違いさせてね!」
アキラの腰に回されたサキの手にぎゅっと力が込められた。
「さあ、帰ろう♪」
サキの声を背にしてアキラがペダルを踏み込むと、電動アシスト自転車は軽やかに前進した。
そのまま二人を乗せた自転車は、夕暮れ迫る坂をゆっくり、ゆっくり、くだっていった。
二人を乗せた自転車が坂を下っていく姿をコンクリートの塀の上から見届けた黒猫が、んーっと伸びをして立ち上がった。
そして、なんだか機嫌よさそうに「ニャー♪」と一声鳴いて塀から飛び降りると、ピンと立てた尻尾を振りながら神社の奥へ消えていった。
<おしまい?>
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