月の糸
田ノ倉 司
月の糸
とろりと糸が降りてきた。
遥か上から、とろーりとろーりと。
思わず手のひらに受ける。
溶けたガラスのように見えるが熱くはなく、ひんやりつるりとして柔らかい。
透明な中に光を含んでいるかのようだ。
少し風に揺られながら真っ直ぐに降りてくる糸と、手のひらに重なっていく糸を交互に眺める。
やがて端が見えて、するんと手に収まった。
手のひらで水を掬ったくらいの量だった。
空を見上げたのは久しぶりだ。
月も星も変わらず光っている。
糸の端を取り、指に巻いて持ち帰った。
◇ ◇ ◇
糸が降りてきた頃の僕は、他人の五感を借りて生きているようだった。
慕っていた従兄の兄さんが急逝してしまい、まだ現実として受け入れられないでいた。
病気が見つかってから三月ばかりで、あっという間に旅立ってしまったのだ。
子供の頃は圭ちゃんの後を追って、今思えば危ない事もしていた。崖を登ったり、ほら穴探検とかね。
当時はただ面白いのと、とにかく圭ちゃんについて行くことしか考えていなかった。
ある時、丈の長い枯れた草が折り重なっている所を見つけて、ふかふかで気持ちよさそうに見えたんだ。
二人で飛び乗ったら下はずぶずぶの沼で、沈みそうになり、必死で脱出したなあ。
泥だらけになって怒られたっけ。
生きて大人になれたのは運が良かっただけだ、と思う事も結構ある。
中高生になれば、興味の対象も変わっていったけれども、相変わらず、圭ちゃんになんでも話して、圭ちゃんが始めた事を真似していた。
圭ちゃんは、落語とか苔観察とか、興味を持つと調べ尽くそうとする。
そうして知った事や面白さを僕に語って、仲間に引き込むのだ。
そういえばミステリー小説を読むようになったのも圭ちゃんの影響だ。
僕は怖い話は苦手なので避けていたけど、実話でないならと割り切って楽しめるようになったのだ。
僕の興味は後回しにされがちで、ちょっと不貞腐れる時もあったけどね。
でも、自分では選ばなかったであろうことを、知るのは楽しくて、結局は圭ちゃんの後追いをしていた。
圭ちゃんとは家族ぐるみの付き合いがずっと続いて、一緒におっさんになって、一緒に爺さんになるのだと思っていたのに。
糸が降りてきたのはそんな頃。
すんなり受け入れたのは、どこか正気ではなかったのだろう。
子供の頃に、綺麗な小石や木の実を見つけたような嬉しさを覚えた。
ずっと心が動いていなかったので、こういう感覚は久しぶりだった。
◇ ◇ ◇
糸は、絡まないように束ねても、手を離すと丸っこくまとまる。
小皿や盃などに入れておくと、器の形になった。
表面はゆっくりと固まっていき、内側には糸がうっすらと見えている。
指で押さえて力をかけると、解けて糸に戻る。
形を整えてから日にちが経つにつれて、つるりと透明な表面が厚くなり、より強く押さえないと糸に戻らなくなっていく。
なんとなく、ビー玉のようにまん丸にしたくなって、エッグスタンドに入れて少しずつ動かして固め、球にした。
硬くも柔らかくもある雰囲気が、琥珀のようで綺麗だ。眺めていると、不思議と気持ちが和らぐような気がした。
◇ ◇ ◇
僕は明日、誕生日なんだ。
圭ちゃんに一つ近づいて、いずれ圭ちゃんより年上になると思うと。
なんだろう、こういう気持ちを「切ない」って言うのかな。
高台の公園に足が向いていた。
こっそりと家を抜け出して、圭ちゃんと星を見に行ったところだ。
ベンチに腰かけて一服する。
ああ、このタバコ、圭ちゃんも好きだった。
いや、圭ちゃんのお気に入りだから、吸うようになったんだ。自分で選んだつもりでいたな。
煙が昇っていく。
半月が少しふっくらしていた。
だらしなく寄りかかったまま上を向いて、しばらく眺めていた。
ポケットにあの球が入っていた。
月を見せるように手のひらに載せたら、するするとほどけて、糸が噴水のようにくるくると舞い始めた。
「匠、聞こえるか」
圭ちゃんの声が聞こえる。空耳かなと思ったけど、いつものように返事をしていた。
「うん。どこにいるの?なんで話せるの?」
「どこって、説明できん。俺、お前と違う世界に来ちゃったからなあ。なんで、の方は今から教えるよ」
この声、話し方、圭ちゃんだ。
今、泣きながら笑って変な顔してるんだろうな。
「どのくらい話せるか、俺も初めてでわからないから、そのつもりでいてくれ。
今回は途中になっても、たぶんまた話せるから。
それ、その糸。それさ、月の糸なんだよ」
「月の糸?たしか夜に降りてきたけど、どういうこと?」
話したいことは他にあったのに、圭ちゃんのペースに飲まれている。
いつもこうだった。まあいいか。
この感じも久しぶりで、なんだか嬉しいし。
「ドライブしてた時に、ラジオで天文の雑学を聞いたの覚えてるか。
月のクレーターって隕石が衝突した痕跡で、比較的新しいクレーターの周囲には、衝突の際に飛散した物質が浮遊しているのを観測できるって」
「それが糸になって地上に降りていくことがあるんだよ。
大抵は、岩や土の窪みとか溝に降りて、人知れず固まるんだ。
糸の状態で、しかも人の手に降りるのは、珍しい事らしいぞ」
「それでさ、理由を説明できるほど俺もまだわかってないんだけど、この糸由来の石を持ってると、こんな風に話しができるんだ。
こちらとそちらが通じる条件は、こちらで聞いて分かった事と、予想でしかない事を混ぜて話すから、匠は匠でいろいろ試してみてくれよ」
圭ちゃんの声を聞いていたいから、ひとまず話しを聞こうと思った。
目を閉じて聞いていると、隣に座っているような気配まで感じる。
「えっと、まず糸が降りるのは、そちらから見て月がほぼ真上にあって、且つクレーターができる時。
衝突によって、隕石と月の物質が混じりながら飛散する時だな。
全て地球に届くわけではないだろうけど、クレーターは沢山あるから、かなりの数の糸が地上にあるんだ」
「で、この糸由来の石を持っていること。
月が上にある時に、月の光に石をかざすと糸に戻って、その間はこうして話せるんだ。
月齢はどうでも、真上にあればいいらしい」
「あと、一つの石は一人だけ使える。
一人が複数個持つのは良いけど、例えばこの石を他の人に貸しても、その人は使えない。
その石を最初に使った人だけが、こうしてこちらと話せるんだ。
お前は優しいから、人に貸そうとするだろうけど、貸してもその人はこちらと話しはできないから、その糸は匠が持っていてくれよ」
「普通は月の糸由来の石を偶然持っていて、何も知らずにたまたま条件を満たした人だけが、こちらと話せるものなんだって。
さっきも言ったけど、糸を直に受け取って、石のように固まるのを知れたなんて、匠は本当にラッキーだよ」
圭ちゃんと会えなくなったのに、何がラッキーなんだよ。と思ったけど言わなかった。圭ちゃんは、したい事も行きたいところも、まだ沢山あっただろうに、ぼんやりしている僕を励まそうとしているのだ。
優しいのは圭ちゃんだよ。
「もう一つ。
こちらとそちらで話せるのは、同時刻に一組だけらしい。地球だけのことか、宇宙の他の生命体も含めてのことなのかは、わからない。
だから月が真上にあっても話せない時はある。
でもさ、どこかで誰かが話しているんだと思えば、それもまた良いものだろ」
「この月の糸が固まった石は、川に流されたりして移動しているかもしれないし、そのまま地中に埋もれているかもしれない。
周りの石や岩には同化しないで、それだけぽつんと妙な形でそこにあると思わないか。
今度はその石を探しに行こうぜ」
僕は返事をしたけど、圭ちゃんは黙ってしまった。
もう一緒には行けないのだ。
「ねえ、僕、探すよ。クレーターができた時に飛散した物質によって、糸の質や色も違うと思う。
他のも見てみたいし、持っている人にも会ってみたい。
僕のは琥珀のように綺麗だから、宝石のなかにも、月の糸は混じっていそうじゃない。
あとさ、月の光にあてていなければ他の人もきっと使えるよね。見つけたら誰かにあげてもいいよね。
持っていてほしい人はいる?」
「そうだなぁ、誰から渡してもらおうか、正直迷うな。
もう一つ見つかったら、その時に考えるよ。
見つけたら、また話しに来てくれよ」
夏実さんのことを言わないな。
僕がまた月の糸を見つけるのは、いつになるかわからない。
その時にもう新しい人がいたら、自分のことは思い出さない方がいい、なんて考えているのだろう。
いつも物怖じしないくせに、そういう気遣いをするんだよね。
「うん。本当にまたね」
圭ちゃんが何か言ったような気がするが、声が遠のいて聞き取れなかった。
僕は泣きながら少し眠ってしまったらしい。
夢を見たのかとも思ったが、糸の塊が手にある。
ふうっと息を吐いて夜空を眺めた。
なんだか死ぬのが怖くなくなった気がするな。
別に死ぬつもりなんてなかったけど、向こうには圭ちゃんがいるのだし、僕が旅立つ時にはきっと迎えにきてくれる。
あーあ、どこまで行っても、僕が年上になっても、圭ちゃんは僕の道しるべなんだな。
◇ ◇ ◇
あれから川原や山で綺麗な石を見つけると、糸に戻りはしないかと押さえてみるのが癖になっている。
月の糸、か。
そうとは知らずに持っている人もいるだろうな。
心和らぐ石があったら、真上の月にかざしてみて。
月の糸 田ノ倉 司 @tanokura-fsg3189
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