瞳の中のナグルファル

マグロの鎌

第1話


人が死んだ。

目の前で落ちてきたのは星空から注がれる、流れ星と比べられないほどに綺麗だった。

ただの一瞬を永遠のように感じさせ、彼女の見ていた走馬灯に僕の顔は重なった。

ただ、僕はそんなこともお構いなしに、彼女の瞳を見て、ただ綺麗だと、一輪の胡蝶蘭のように、一人では飛べないヒヨドリの嘴のように脆くて、水晶的で気兼ねないものだと感じてしまった。瞳が好きで彼女の顔が好きなのか、彼女の顔が好きで瞳が好きなのか、はたまた、死んだ人の顔が好きなのか、瞳が好きなのか。そんなことだけが、永遠と頭の中をぐるぐると回り、傘も差さず天の川を渡ろうとする織姫の気持ちに触れられた気がした。

向こうには、愛しいものがあって、煩わし者は全て置いてきて、着物も川に流されて、目付が引き留めようとする声がさっきまで私のいた所から聞こえてきて。ただ、手を伸ばせばあの川岸の小石を掴むことができる。そう、思いながら水中の足を進めてゆく。

人の歩んだ時間などここには存在しない。全ては平らで、そもそも時間など人の都合の良い概念に過ぎないことを悟らされ、パレードのように流れる人の顔の中に彼女はいなかった。

きっと、特別だったのだろう。それは、死後に特別になったのか、生前から特別だったのか、はたまた……結局、僕の二進数の頭では2345と同じものだった。


「何か欲しいものはないか?」

そう聞いてきたのは母の再婚相手だった。実の父は死体、それ以外のなに者でもない。

「赤いビー玉」

「ビー玉?高校生の君がそんなもの貰って……いや、分かった。探してみよう」

男は僕になんでも持ってきた。きっと、僕に気に入られて母に喜んでもらいたかったのだろう。そんな、誰でも気がつくような損得勘定の優しさは、糾弾されて正すべきことなのかもしれない。しかし、僕が男と討論したところで敵うわけがなかった。きっとそれは、年齢が足りてないからで、大人といった漠然としたものになれば勝てるようになるかもしれない。しかし、僕が歳を取るのと一緒で男もまた歳をとる。昔、数学の問題で僕が何歳になったときに母との年齢は倍になるのだろうかといった問題を出されたことがあった。今の僕が十でお母さんが、だいたい三十で三倍で僕が十一の時は三倍だから、三十三になるはずなのに、お母さんは三十一で三倍以下だ。こんなことが、僕には理解ができなかった。お互いに一歳ずつ歳を取るから差は開かないはずなのに、倍率は三倍から二倍に、二倍から一・五倍に、一・五から一・一倍に……時間が経てばその倍率は限りなく一倍に近づき、やがて一倍になる。

しかし、その計算が間違いだったことに僕は父が死んだときに理解できた。そうその倍率がいずれ零になることに。

「ほれ、ビー玉」

そういって、男はテーブルの上に赤いビー玉を二つ置いた。もちろん球体のビー玉は初めに与えられた力を使って僕に向かって動き出す。等速直線運動といった言葉を一昨日ぐらいに習ったのを思い出した。しかし、実際のビー玉は先生の黒板の中とは違ってテーブルから落ちそうなギリギリのラインで止まって見せた。ああ、これも偽物なんだ。

「いらない」

「なんでまたそうなんだ?」

「きっと、カボチャが足りないからかな。それとも黒い繊維の何かが」

「いっている意味が全くわからない」


孤独は常にやってくる、布団の中に宇宙は広がっているから。きっと、僕が天の川を渡ったら、新しい星が生まれて、新しい星はどこから生まれてくるのか考えたとき、それはきっと僕なんだということに気が付かされて、このままではあの瞳を手に入れることができないのだ。

蝉の鳴き声が聞こえてくる。掛け布団が必要な季節なのに。ミンミンミンでもカナカナカナでもなく、まるで冷蔵庫が起動しているようなジーって音。

落蝉 なくて惜しむは 春の声

ランダムな言葉が俳句っぽく並べられ、僕の頭は正常なんだって思い知らされる。だって、この前、大学のプログラミングの授業でエンターキーを押したら、初句、二句、三句にそれぞれに設定された十種類の言葉がランダムに表示され俳句が完成されるプログラミングを作ったからだ。今の僕の頭には十掛け十掛け十の1000通りが存在する。

よかった、僕はまだ考えていいんだ。彼女の瞳について。


「ほい、言われた通り白いピンポン玉を持ってきたぞ」

そうだった、瞳に赤が反射していただけで、それ自体は白いんだった。昔、美術の授業でピカソの絵を見たときに、肌はピンク色ではなく青色であることを知った。目に見えている色は初めから決められた色にあらず、周りの光の影響を受け見え方が変わってくるのだと、先生は言っていた。

「悪いけど、もうやめたんだ」

「なにをだね?」

「瞳。僕はさ、きっと死人の瞳に取り憑かれていただけでもなく、あの人の瞳だったから好きだったわけでもないんだ。彼女の哲学に触れたんだ」

「そうか」

「男はわかる?母さんが言ってたんだけどピアスの穴を自分で開けると、その穴から白い糸のような神経が出てきて、それを引っ張ると、地面に白い蚕の繭のようなものが溜まっていくんだって。僕はさ、今まで足の親指には穴が空いていて、そこから血を吸うことができるんだとばかり考えていたんだ。でも、それは違かった。繭は綿飴のように脆く、雨が降って仕舞えばすぐに地面へと帰ってしまう。つまり、そういうことだったんだ」

「さっぱりだ」


僕は再び、帰ってきた、ビルのすぐ下の花壇に。しかし、あの時の美化された思い出を主観ではなく客観視してあげると、瞳は花の上ではなくアスファルトの上に落ちていたことに気がついた。いいや、瞳じゃない。彼女自身が。

そのことに気がついた僕は急いでアスファルトをほじくり返そうとした。ガリッガリッと音を立てながら爪が削れてゆく。なぜか地面を掘っているはずなのに、先に削れていくのは僕の体の方だった。このままでは、白い糸にありつけるまでに何時間かかることやら。

僕は雨を桜の花びらのように掴む思いで指をアスファルトに擦り付けた。彼女の白い哲学を食べられさえすればよかったのだ。そうすれば、きっと分かるんだ。いや、分かってはいけない、まるで扉の前に落ちている鶴の羽のように気がついてしまったら……いや、ただ扉を開けさえしなければいいんだ。なんだ、やっぱり僕は間違っていない。どんなに凄い世界の真理に辿り着いてしまっても、光の速さを超えなければブラックホールは抜け出せないのだ。だから要するに……ゴリッゴリッ

「あっ……」

僕はふと我に帰るとあることに気がついた。そう、目の前には爪など等の昔に削られてしまい、地面一面が指の先から流れ出た血で一杯になっていることに。

そして、それを見て出た僕の白濁液は、彼女の白に反射する赤には届かなかったが、求めているものに、完璧に近かい……いや、一緒だと思い込むことにした、

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