魔法研究

 ガチャガチャ、ガツガツ。食器のこすれる音が居間に響いている。

「はぐっ、はぐっ!」

「がふっ! もぐもぐっ!」

「あらあら……」

 僕とマリーは一心不乱に食事をしている。パンを食べて、水で一気に胃袋に流し込む。二人は同時に食事を終えると、コップをテーブルに置いた。

「「ごちそうさまでした!」」

 あっにとられている母さんを置いて、僕たちは椅子から立ち上がる。

「行こう、姉さん!」

「うん!」

 急いで部屋を出ようとしたけど、寸前で思い出して、食器を洗い場に持っていった。

「うふふ、お利口さんね」

「じゃあ、出かけてくるよ!」

「ええ、いってらっしゃい」

 うれしそうに笑う母さんに背を向けると、僕とマリーは居間を出た。廊下を早足で通り、中庭にある倉庫に向かう。おけを三つと竿ざおかばんを抱えて正門を出る。鞄にはぬぐいや、釣りのための餌などが入っている。

 待ちきれないとばかりに全力で走って湖へと到着すると、僕たちは地面に荷物を置いた。

「はあはあっ……つ、つらい」

「もう! シオンはだらしないんだから! 普段、運動しないから体力がないのよ!」

「い、言い返す言葉もないよ……」

 ずっとだらだらと過ごしていたツケがきたらしい。これからは少しずつ身体を動かすとしよう。

「それで? まだ夕方までかなり時間があるけれど、どうするの?」

「湖のことを調べたいんだ。まずはあの光の玉の出どころを知りたい」

 僕たちはあの魔法のような不可思議な現象を調べるために湖までやってきたのだ。

「出どころ? 湖から出てるんじゃないの?」

「そうかもしれないし、湖の生物が出してるのかもしれない。それをきちんと調べないと、あの玉の正体もわからないからね」

「ふーん、よくわかんないけど、シオンが言うんならそうなのね! それで何からするの?」

「まずは三つの桶に湖の水を入れよう。それからそれぞれに砂と石、水草、魚を入れようと思う」

「よっし、わかったわ。よくわからないけど、やることはわかった! じゃあ、あたしが水草をとってきてあげる!」

 マリーは言うやいなや、服を脱ぎ捨てようとした。れいなへそが露わになり、僕は慌てて、姉の暴挙を止める。

「な、何してんの!」

「何って、脱がないとれちゃうじゃない。水草は湖の底にあるだろうし」

「そ、そうだけど、姉さんが脱ぐ必要はないよ! 僕が行くから!」

「シオンが? あんた泳げるの?」

 日本にいた時は人並みには泳げた。ただこっちに来てからは外にはほとんど出てないし、この身体で泳いだ経験はない。まあ、大丈夫だと思うけど。

「何とかできるよ。姉さんは女の子なんだから、人前で肌をさらしちゃダメだよ」

「そ、そう? で、でもシオンしかいないし」

「それでもダメ! とにかく、これは僕がするから、姉さんは砂と石、それと魚釣りをお願い」

「むぅ、わかったわよ。そんな怖い顔しなくてもいいのに……」

 マリーはふくれっ面になりながらも、服を整えた。納得はしてないけど、理解はしてくれたらしい。

 ちなみにマリーはちょっと厚手のワンピース姿だ。よく動くので下着が見えることも多い。

 実の姉なので何も思わないけど。というか相手は子供だし。

 僕はいそいそと服を脱ぎ、下着姿になる。

 この世界の下着は、現代に近い見た目をしている。素材や作りはかなり劣るけどね。

 ちらちらとマリーが僕のことを見ているが気にしてはいけない。

 僕は湖に入った。腰までつかると一気に顔を水に入れる。よく見えないけど、比較的近くに緑色のものが揺らめいている。水草だろう。僕はいくつかの水草を根っこごと手にして桶に入れると、身体を拭いて服を着た。

 一つ目の桶には砂と石と湖の水、二つ目の桶には砂と水草と水、三つ目の桶には湖の水しか入ってない。

「なかなか釣れないわ」

 マリーが持つ太い枝の先端には糸が垂れ下がっていて、その先にはゆがんだ釣り針がついている。そんな簡素な釣り竿で、餌もミミズみたいなものを使っているのだから、すぐに釣れるかは疑問だ。

 相手は淡水魚だし、これで食いついてくれるんじゃないかと思うんだけど。引きは悪いようだ。

 僕はマリーの隣に座ると、水面を眺めた。

 この時間には光の玉は見えない。これがどういうことを表しているのか、気になるがまだわからない。しかし、今の僕には無気力感はない。

 マリーのおかげだ。マリーがこの場所を教えてくれたから、今の僕がある。それにどれだけ僕のことを想ってくれているのかもわかった。

 もしも、湖の現象が魔法とは全く別の、ただの不可思議な現象だったとしても、もう大丈夫。つまらなかったとしても不幸ではない。家族がいてくれることの大切さを僕は学んだのだから。

「な、何よニヤニヤして」

「姉さんがいてくれてよかったなぁって思って」

「な、ななな、何言ってんの! そ、そんなの当たり前じゃない! お姉ちゃんなんだもん。い、いるに決まってるわよっ!」

 一気に顔が紅潮した。わかりやすい。でもその素直さが、可愛かわいらしかった。

 小さいけれどマリーは僕の姉だ。それが痛いほどにわかった。

「ありがとね、姉さん。こんなことに付き合ってくれて」

「……暇だし、それにシオンがしたいことなんでしょ? だったら付き合うのは当たり前じゃない。それに、もしね、魔法みたいなのがあったとしたらあたしも見てみたいし。なんかワクワクするじゃない?」

「ふふ、そうだね。僕もそう思う。だから……ここにいるんだから」

 それは湖の前に、という意味だけでなく、異世界に、という意味も含む。けれどそれを姉は知らない。僕が別の世界で生きていたということを。

 ……考えるのはやめよう。話すべきじゃないし、話しても誰も幸せにはならない。こんなこうとうけいな話は誰も信じないだろうし、話しても折り合いをつけるのはとても難しいはずだ。お互いに不利益しかないのだから、話すという選択肢自体を持つべきではない。

「魔法、あるといいわね」

「もし存在したら、最初に姉さんに見せるよ」

「ふふ、約束よ」

 僕はマリーと笑い合った。幸せな時間だった。僕には大切な家族がいるのだと実感した。そんなことを思っていると、釣り竿がググッとしなった。

「あ、きたきた!」

 マリーは立ち上がり、ぐいっと釣り竿を引いた。徐々に後方に下がり、タイミングを見て竿を持ちあげると、水面から何かが打ちあがる。

「やった! エッテントラウトだわ!」

 満面の笑みを浮かべたマリーは慣れた様子でぴちぴちと暴れる魚を手に取り、釣り針を外すと桶に入れた。

「エッテントラウトって一般的な魚なの?」

「ええ、どこにでもいる淡水魚ね」

「どこにでもかぁ」

 だったら光の玉の出どころではないのかもしれない。こんな現象がどこにでもあるとは思えないし。もしあるのなら、たとえ見ることができなくても両親が知っているはずだ。

 でも、両親には見えなかったし、マリーが説明しても二人は首をかしげていたらしい。ということは、やはりこの湖だけの現象という線が濃厚だ。そしてエッテントラウトがその原因ではない、という可能性が高い。

 とりあえず何匹か釣るようにマリーにお願いした。

 僕はマリーの隣に座り、談笑しながら魚が釣れるのを待った。僕も魚釣りがしたいけど、竿は一つしかないから仕方がない。

 その日は、残念ながら他の魚は釣れず夕方になってしまった。そして念のため、光の玉が浮かぶ現象を邪魔しないように釣りを中止し、時間を待った。

 夕方になると、再び湖畔には光の玉が浮かび上がり、天空へ昇った。この現象は毎日起こるようだ。一年を通して観察しないと断定はできないけど。季節や環境、何かしらの条件下で起きる一時的な現象ということではないのかな。

 僕は桶を眺める。どれも発光していなかった。

「光ってないわね」

「できるだけ湖の中と同じ状況にしてみたんだけどなぁ」

 ということはエッテントラウト以外の魚か、湖畔にある別の物質か別の生物が出どころなのだろうか。

 僕は思案しながら、マリーに聞いてみた。

「この湖にエッテントラウト以外の魚とか生物はいるよね?」

「いっぱいいるんじゃないかしら。でも全部集めるのは大変よ。どれくらいの種類がいるのかもわからないし」

 それはそうか。一つの湖にむ生物を網羅するのは簡単じゃない。うーん、仕方ないな。潜ってみるか。僕は再び服を脱いで、湖に近づいた。

「あ、危ないかもしれないわよ!」

「大丈夫だよ。多分」

「だ、大丈夫じゃないかもしれないじゃない! もう! あたしも行くわ!」

 マリーは僕が何かを言う前に、服を脱ぎ捨てた。キャミソールとドロワーズ。露出は少ない方ではあるけど、完全に下着姿だ。

「ね、姉さん、脱いだら──」

「ダメって言うんでしょ! でも、シオンを一人で行かせるのは嫌よ!」

 マリーは強い意志を瞳にともらせている。この状態の彼女には何を言っても無駄だ。絶対に考えを曲げない。

 僕は嘆息して、受け入れるしかなかった。

「わかったよ。二人で行こう」

「ふふん! 最初からそう言えばいいのよ」

 ぐっと手を握られて、僕は握り返す。最初は恥ずかしかったけど今は抵抗がない。

 二人で湖につかり、少しずつ進んだ。光の玉が浮かぶ中を歩くのは幻想的だった。これが現実なのか疑いたくなる。同時にすさまじい高揚感を抱いた。この現象にどんな意味があるのかもわからないけれど、僕が望んでいたものが近くにあるような気がした。

 僕は不意に玉に向かって手を伸ばす。

「ちょ、ちょっと!」

 マリーが制止する前に、僕は光の玉に触れる。

「あったかい。それにちょっとくすぐったいかな?」

「あ、熱くない? 大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ。なんかちょっと気持ちいいくらい」

 僕の言葉を聞き、マリーは恐る恐る光の玉に触れる。すると表情を柔らかくした。

「ほんと、あったかいわね。お風呂みたい」

 光の玉は手に触れると消失していく。これは一体なんなんだろうか。

 光の浮かび上がる場所まで行くと、僕は湖に顔をつける。どこから浮かんでいるのかよくわからない。比較的に綺麗な湖だけど、透明度が高いわけではない。水面は波紋や泡があって水の中がほとんど見えないし。

 光の生まれた場所を見つめた。けれど同じ場所からは浮かんでこなかった。

 なるほど、そういうことか。

 マリーも僕と同じように水中を見ていたけれど、同時に顔を上げた。

「ぶはっ! はあ、ダメだぁ」

「ふぅ……うーん、よく見えないわね」

「そうだね。でも一つだけわかった。光の玉は魚を含む水生動物が出してるっぽいね。植物じゃなくて、移動する生物だと思う」

「へぇ、どうしてわかったの?」

「光の生まれる位置が動いてるからね。でもそれがどの生物なのかはわからないなぁ」

「もっとよく見えればいいんだけど」

「そうだけど、いい手段は浮かばないね……とにかく今日はこれが限界かな。少しはわかったし」

 二人で湖畔に戻ると、身体を拭いて服を着た。

「ありがと、姉さん。助かったよ」

「お礼はいいって。そういうのなし! 家族なんだから、改めてお礼はいらないの!」

「そっか。でも、言いたいんだ。姉さんには感謝してるから。家族だからって伝えたいことは我慢しなくてもいいでしょ?」

 まっすぐに見つめると、マリーは困ったように顔をらした。でも嬉しそうにしていたのはわかった。だって横顔は間違いなく笑っていたから。

「ま、まあ、そうね、そこまで言うならしょうがないわね、うん。と、とにかく、帰りましょう。それでその桶はどうするの?」

「魚は念のため持って帰るよ。観察してみたいし」

 水草は多分、関係ないから湖に戻していいだろう。

「そう。じゃあ、他のは戻してから帰りましょう」

 桶の二つを空にして、魚を入れた桶はそのまま持ち帰る。収穫はあまりなかったけれど、落胆はじんもなかった。むしろワクワクしてしょうがない。

 楽しい。この世界に来て、ここまで楽しいと思ったのは初めてだ。

 それは魔法のきっかけらしきものを知ったから、だけではない。共にいてくれる人がいるからだ。この時間、生活を大事にしようと、そう誓った。


   ●○●○


 朝起きて、勉強。昼ご飯を食べて再び勉強し、午後三時頃になるとマリーと湖へ。そこで魚を釣って、桶に入れ、夕方を待ち、桶の中で発光するかを確かめる。

 結果はかんばしくなかった。色んな魚を調べたけど、無収穫だ。光の玉は存在する。その正体を突き止めれば、魔法の発見につながるかもしれない。そう思って、実験を始めたんだけど進展はない。やり方を変えた方がいいのかもしれない。

 この世界にはガラスが存在する。かなりもろいしそれなりに高価だけど、あるにはある。水圧に耐えるようにどうにか作れば、水中眼鏡ができるだろう。それで水中を観察すれば、効率がいいかもしれない。

 しかし僕たちは子供。両親にねだるにも限度がある。実在しないだろうものを開発するために金を払えとは言えないし、どれくらいかかるのかもわからない。さて、どうしたもんか。

 マリーが釣り竿を持って、僕は隣で水面を眺める。見慣れた光景だ。はっきり言ってマリーは退屈だろう。それなのに文句も言わずにずっと付き合ってくれている。

 本当にいい姉を持った。感謝してもしきれない。何かあった時、いや何もなくとも、僕はマリーの味方でいよう。

 しかし釣れない。今日は日が悪いのだろうか。そんなことを思っていたら、茂みからガサッという音が聞こえた。

 僕とマリーはとっに振り向く。誰か、あるいは何かがそこにいる。僕たちは顔を見合わせて、体を硬直させた。

 もしかしたら、魔物? 僕たちは恐らく同じことを考えていた。マリーは顔をこわらせている。恐らく、僕も同じような顔をしているだろう。ここは村や家から近い。けれど魔物がいないという確証はない。父さんや母さんが安全だと言っている範囲内でも、絶対はない。

 茂みが再び揺れた。その奥から黒い影が正体を現す。

 僕はぎょっとしてその何物かを凝視した。魔物……じゃない?

「なぁんだ、ローズじゃないの」

 隣でほっとした表情を浮かべるマリーを見て、僕も警戒心を解いた。

 僕たちの正面には女の子が立っていた。腰まで伸びた金色の髪が微風に揺れている。格好は完全に村人なのに、容姿はどこか気品があって、流れるような仕草には粗暴さの欠片かけらもない。

 ローズと呼ばれた少女は僕たちに歩み寄ると、澄んだ声を発した。

「マリーと……そちらはガウェイン様のご子息かしら?」

「ええ、あたしの弟のシオン。ほらシオン、挨拶して」

 突然言われて、僕は戸惑ってしまう。なぜならば僕は人見知りだからだ。相手が子供だろうが何だろうが、初対面は緊張するのだ。

「よ、よろしく」

 若干、上ずってしまったがしょうがない。友達の友達とか、家族の友達とかに挨拶する時って、特殊な緊張感があるものなのだ。

 僕の反応を気にした様子もなく、ローズは髪を軽くかき上げる。

「わたくしはローズ。この荒涼とした村に咲く一輪の花ですわ」

 僕は驚いた。まさか現実で、ですわ、なんて言う人がいるとは思わなかった。なんだかちょっと感動したくらいだ。馬鹿にしているわけじゃない。ローズの見た目や所作と言葉遣いは妙にしっくりきているくらいだ。

 しかしこの、マリー並みに顔が整っているな。それに妙に品があるというか。

「言っておくけどこの子、普通に農民だからね。格好つけてるだけよ?」

「まったく、わざわざ言わなくてもいいでしょう」

 マリーの言葉を受けて、ローズは不機嫌そうにしていた。

 思ったよりも親しみやすい性格なのかもしれない。それに二人は仲が良いようで、マリーは楽しそうにローズをからかっていた。

「それで、こんなところで何をしているんですの?」

「見てわからない? 魚釣りよ」

「それはわかりますが、敢えてこの湖でする必要がありますの?」

 ローズはちらっと僕を見ると、マリーに視線を戻して目を細めた。何か言動に含みがあるな。

「シオンは知ってるわよ」

「あら、そうだったんですの。シオン、でしたっけ? あなたも光の玉が見えるんですのね」

 ローズは軽い調子で言う。

 そこまで聞いて僕は気づく。どうやら彼女が、マリーが言っていた光の玉が見えた子らしい。

「う、うん。まあ、一応」

「不思議な現象ですわよね。非常に興味深いですわ」

「もしかして、あんたも光の玉が気になってここに来たの?」

「ええ、とても綺麗ですから、たまに見に来ますの」

「じゃ、じゃあ、あの光の玉に関して知っていることはある!? 光の玉は何が生み出しているのかとか、光の玉が何なのかとか!」

 僕は勢いよくローズに詰め寄ってしまう。無意識のうちに顔を近づけた。普段、見に来ているのならば彼女は何か知っているかもしれない。

 ローズはわずかに目を見開いていたけど、すぐに僕の質問に答えてくれた。

「いいえ、わたくしはただ眺めているだけですから。光の玉が何なのかは知りませんわ」

「そ、そっか」

 僕が落胆していると、ローズが僕のほおを軽く指でつついた。

「離れてくださる?」

「え? あ! ご、ごめん」

 動揺した様子もないローズに対して、僕は激しく狼狽うろたえながら彼女から距離をとった。

 隣でマリーが頬をぷっくりと膨らませていた。

「もしかして、あの光の玉を調べているんですの?」

「う、うん。初めて見てから気になって調べてるんだけど」

「……実はわたくしもあの光の玉が何なのか気になっていましたの。よろしければ、一緒に調査をさせていただけないかしら?」

 ローズは手を胸に添えて、貴族然とした所作を見せる。

 これが演技というか模倣ならたいしたものだ。まあ、ただの農民だってマリーが言っていたからそうなんだろうけど。服は簡素で村人が着るようなブラウスとスカートだし。

 協力してくれる人が増えれば、それだけ調査は進みやすいだろう。ローズは光の玉が見えるみたいだし、何かに役立ってくれる可能性もある。

 それに彼女は年の割にはかなり知的で落ち着いているみたいだ。マリーや僕とは違った観点から、意見を言ってくれそうでもある。

 僕はうかがうようにマリーに視線を移した。マリーはちょっと不機嫌そうだった。

 あ、まずい。考えてみればマリーを仲間外れにした感じになっていた。会話も僕とローズだけでしていたし。

 ローズには少し申し訳ないけど、ここは我が姉の機嫌を取ることを優先させてもらいたい。

「ね、姉さんどうかな? 姉さんが決めてくれていいよ。僕はどっちでもいいし」

 言い方はあまりよくないかもしれないが、姉の意思を尊重し、その上で自分は受け入れてもいいというスタンスを維持する最適な立ち回りだと思う。

 幸いにも僕とローズは初対面なので、互いの好感度もゼロだ。この場合、どちらも知っているマリーが決めるのが妥当でもある。

 そして、僕のもく通り、マリーは機嫌を直した様子だった。

「そ、そうね、別にいいんじゃないかしら? ローズがいた方ができることもあるかもしれないし」

「そう言ってもらえると助かりますわ」

「じゃあ、今後は三人で調査をするってことで。もちろん時間が合う時だけでいいからね」

 マリーとローズは同時にうなずいた。

「ところでどんな調査をしていたのです? 湖に生息する生物を集めているところですの?」

 僕は簡単に今までの経緯と、これからの目的を話した。

「──なるほど。魚類が光の玉を出している可能性が高いため、魚を釣っているのですわね」

 マリーと同じくらいの年齢だろうに理解が早い。そうめいな子なんだろうか。これは本当に、調査にかなり役立ってくれるかもしれない。

 マリーがまた不機嫌になるかもしれないと思った僕は、我が姉を横目で確認した。しかし彼女は明後日あさっての方向に視線を向けていた。

「あ、かかってるわよ!」

 地面に突き立てて固定していた釣り竿がギシギシと動いていた。糸が引いている。マリーは猫のような俊敏さで釣り竿をつかむと、後方に下がりながら竿を引っ張った。

 僕には反応できない速度だった。やっぱりマリーは運動神経が抜群だ。

 マリーが一気に竿を引くと、綺麗な放物線を描いて魚が湖畔に打ちあがる。見たことがない柄をしている魚だった。でも形は見たことがある。

「メスのエッテントラウトね」

「メスの?」

「ええ。そういえば、釣るのは初めてね。オスはよく釣れるんだけど。メスは普段、深いところにいるみたいであんまり釣れないのよ。でもこの時期は産卵期だから浅いところまで来ることも多くて、結構釣れるみたい。お父様の受け売りだけれど」

 僕は思案した。何だろう、何かが引っかかる。その理由は判然としないけど、ひらめきにも似た直感に従い、僕は特に考えずに口を開いた。

「オスのエッテントラウトも釣ろう」

 以前釣ったトラウトは二人のお腹の中だ。さすがに飼い続ける気はなかったし、希少な魚でもなかったから。

「え? ええ。それは構わないけれど、釣れるかどうかはわからないわよ」

「うん。もし他の魚が釣れたら放していいから」

「わかったわ」

 マリーは特に何も聞かずに、僕の指示通りに魚釣りを継続してくれた。

「釣り竿は一つしかないから、僕とローズは待機だね」

「仕方ありませんわね。待つのはあまり好きではないのですけれど」

 ローズは小さく嘆息すると僕の隣に座った。位置的にはローズ、僕、マリーの順だ。

 考えてみれば前世の幼少期にも、こうやって女の子たちと遊んだことはなかったな。そんな経験があれば、三十歳にもなって童貞なんてことにはなってなかったかもしれない。

 しばらくして、オスのエッテントラウトが釣れたのでメスと同じ桶に入れる。

「何か起こるんですの?」

「多分。単純な思いつきだけど。とにかく夕方まで待とうか」

 ローズとマリー、二人と話しながら夕方を待つことにした。

 簡単な世間話をしてわかったことがいくつかあった。ローズは父さんが治める領地の村人らしい。領地内にある村は一つしかないので、場所は何となくわかった。

 家からは結構近くて、徒歩十分もかからない位置にある。僕はまだ一度も行ったことがない。だって他人とか怖いし、行く理由もないし。

 時間が経過して、世界があかだいだいに染まると湖には光のまたたきが生まれる。

 僕たちは顔を見合わせて、桶の中を見た。

「変化はないわね」

「うん、そうみた……いや、待って」

 じっと見ていると、桶の中から小さな光の玉が浮かび上がってきた。ぽつぽつといくつも浮かび上がり、やがてその数が増える。数秒に一個の時もあれば、同時に二個浮かび上がることもあった。

「で、出たわよ!」

「トラウトから光の玉が出ていますわ!」

「やった! やっぱり、そうか。求愛行動の時に光の玉を出してたんだ!」

「求愛行動って何?」

 マリーが首を傾げる。産卵期は知っているのに、求愛行動は知らないとはこれいかに。

 僕が苦笑を浮かべているとローズが代わりに説明してくれた。

「オスがメスに結婚して家族になりましょうと伝えることですわ。人間とは違い、魚は言葉を持ちませんから、行動で示さないといけないのです。すべての種類に言えることではありませんが。確か、エッテントラウトは夕方に繁殖する傾向にあると聞いたことがありますわ。つまりエッテントラウトは夕方になると、求愛行動として光の玉を出していた、ということですわね?」

 ローズに向かい、僕は力強く頷いた。

 今まで釣ってきたのは別種の魚ばかりだった。トラウトは釣っていたけれど、オスだけだったし、性別にまで考えが至らなかった。つまり根本的に調査方法を間違っていたわけだ。

 夕方になれば自然に光の玉が生まれると勘違いしていたけど、エッテントラウトが夕方に繁殖を行うという生態を知っていれば、共通点から求愛行動を連想できたかもしれない。

 これは反省だな。今後に活かすためにも覚えておこう。あらゆる可能性を考えておく必要がある。そんなことを考えていると、マリーが思いもよらない言葉を発した。

「へぇ、それじゃ、あたしとシオンには求愛行動はいらないのね。もう家族だもん」

 いきなり何を言い出すんだこの子は。なんと答えたものかと困ってしまった。マリーが言っていることは間違ってはないけれど、まさかこんなことを言われるとは想定もしてなかった。

 ローズも僅かに戸惑っているようだった。ローズの反応を見ている限り、やはり親族婚は一般的ではないようだ。

 僕とローズの様子に気づかず、マリーはさらに話し続けた。

「あたしは女の子で、シオンは男の子じゃない? ってことはいずれあたしが卵を産むのかしら」

「産まないよ! 人間は卵を産む生物じゃないから! というか、姉弟きょうだいでは結婚できないから!」

 我が姉は常識がないのだろうか。というか学校とかないし、こういうことを勉強する機会ってなかなかないのでは。

「え? どうして? シオンはあたしのこと好きじゃないの?」

 ローズの前でこうも平気に好きだと言えるとは。いや、考えてみれば子供の好きなんてそんなものかもしれない。お父さんと結婚する的なことを娘は言うとよく聞くし。そう考えるとマリーが言っていることはそれほど常識外れではないのかな。卵を産む、はさすがにびっくりしたけど。

 マリーはものすごく悲しそうな顔をしていた。僕が思っているより深刻に考えているのかもしれない。ローズの手前、どうしたものかとしゅんじゅんしていたら、ローズが気を利かせて離れた場所へ移動してくれた。

 すごい気遣いだ。僕が彼女の年齢の時に、あんな風にできただろうか。

 とにかく今はマリーへの対応だ。僕は胸中でローズに感謝しつつ、マリーに向けて慌てて首を振った。

「す、好きだよ。好きに決まってるじゃないか」

「だったらいいじゃない。あたしもシオンのこと好きだもん」

「い、いや、だから家族だし」

「オスとメスは家族になりましょうって求愛するんでしょ? あたしたちはもう家族だし、後は結婚するだけじゃないの?」

 結婚は知ってるんだな。あれ、僕が間違ってるんだろうか。いやいや、僕は正しい。姉と弟で結婚できるはずがない。なんか混乱してきた。

「血縁者は結婚できないの!」

「どうして?」

「ど、どうしてって、そりゃ、倫理観とか遺伝子とか色々と問題が」

「よくわかんない……」

 子供だもんな。理解できないことも多いだろう。多分、大人になるにつれて、わかっていくだろう。大人になってもわからないことも多いけど。

「と、とにかくさ、求愛行動のために光の玉が生まれているってわかったのはよかったよ。ありがとね、姉さん」

「…………うん」

 そんな顔しないでくれ。僕が悲しませてしまったみたいだ。

 今すぐにマリーを納得させることは難しい。きっと時間が解決してくれるだろう。そう考えるしかなかった。

 僕が強引に話を打ち切ると、ローズは用事があると言って先に帰ってくれた。

 重苦しい空気の中、道具を抱えて僕たちは家に戻る。その間、ずっとマリーは無言だった。


   ●○●○


 次の日から、観察が始まった。湖に行くことはなくなり、庭で桶に入ったエッテントラウトのオスとメスを眺める時間が増えた。

 マリーはあの日から、僕と顔を合わせてもそっけなくなってしまった。

 なんか遠回しに、あなたとは結婚できませんって言ったみたいなもんだしな。時間がてばわかってくれると思うけど。

 マリーはとてもいい子だ。わんぱくだし、わがままなところもあるけれど、優しくていい姉だ。頼りがいもあるし、一緒にいて楽しい。顔立ちも整っているし、将来、美人になるのは間違いない。

 でも、実の姉だし、というか僕は精神的には三十過ぎのおっさんなわけで。なんというか異性としては見られないし、見てはいけない。ここは大人な僕が長い目で見るしかないだろう。身体は子供だけど。

 しかし一人の時間が長いと寂しいな。最近はずっとマリーと一緒にいたし、普段もこんなに一人でいることはなかった。早く仲直りできるといいんだけどな。

 ローズは家の用事があるから後で来ると言っていた。この世界では子供も重要な労働力なので、家事や畑仕事などの家業を手伝うことが当たり前らしい。

 彼女が来るまでは一人か。そんなことを考えるとまた寂しさがこみ上げてくる。僕は頭を振って、邪念を振り払う。今は、エッテントラウトの観察に集中しよう。

 今、僕は庭先にいる。自室で観察してもいいんだけど、トラウトが動き回ると桶から水があふれたりするから、桶は庭に置くようにしている。母さんに怒られるし。

 しかしこのエッテントラウトの現象、どうして周知されていないのだろうか。見える人と見えない人がいるとしても、ここまで誰にも知られないものなのかな。

 近くの湖に住むエッテントラウトだけが、この現象を起こせるのか、それとも見えている人はいるがごく少数だから知られていないのだろうか。少数派だと、多数派の人に黙殺されそうだし。

 幽霊みたいなもんか。いや、でも幽霊は別か。信じてなくても怖がる人はいるし。

 すでに観察を始めて三日。状況は変わらず、ずっと同じ。夕方になると求愛行動が始まり、光の玉が生まれる。十分ほどでそれは終わる。また次の日に同じことが起こる。それだけだ。

 桶の中を見つめる日々が続く。でも何も進んではいない。水を見ても、意味はない。

「……どうしたもんかな」

 僕は正直、この光の玉は魔法に繋がる何か、つまり魔力なのではないかと考えていた。あるいは魔法そのものなのかと思っていた。

 魔力を消費し、何かしらの現象を起こすのが、魔法だと思う。つまり魔法を使うには誰か、あるいは何かが魔力を費やさなければいけない。

 それは恐らくは能動的なもので、その存在が生物とわかり、僕は期待を膨らませた。なぜならば生み出した存在が生物であれば、人間である僕も同じようなことができる可能性が高くなるからだ。

 現象と照らし合わせて、共通点が多いと同じような結果をもたらすこともある。

 ちなみに桶を眺めるだけで時間を過ごしたわけではない。まず光の玉を両親に見せた。マリーの言うとおり、何も見えないと言っていた。ここまでは想定通りで、収穫はなかった。だから僕は二人に頼んで、手を出して、光の玉を触ってもらった。そして『何も感じない』という結果が出た。

 これはつまり視認性以外にも触覚、温度感知という点においても、差異があるということ。見えない人には感触がないし、温度も感じないのだ。これに関してはまだ答えは出ていないが、もしかしたらという考えはある。

 ひとずそれは置いておくとして、そろそろアプローチを変えた方がいいかもしれないな。でもどうしたらいいんだろう。

 僕は思考を巡らせる。現実に起こった結果ばかりに目を向けていてはきっと答えは出ない。ならば仮定しよう。この光の玉が魔法か魔力だと僕は考えている。そこから一歩前に進み、別の観点から実験をした方がいいかもしれない。

 魔法は、僕の中では多少高度な術だという印象がある。魔力を使って何かしらの現象を起こすものだ。呪文や魔道具や魔法陣のような触媒を使うこともある。光の玉を生み出す程度のことだったとしても、そんな高度な方法で魔法を使うことが魚にできるだろうか。微妙な線だ。でもまずは『できない』と仮定しよう。

 ではこの光が魔力だとする。魔力を視認できる人、できない人がいる。それはつまり素質があるかないか、という指標になるのではないか。

 僕やマリーは見える。つまり素質があると仮定を重ねる。エッテントラウトには魔力があり、僕たちにはその素質がある。つまり僕たちも魔力を持っているのではないだろうか。

 魔力を持っているが、その使い方がわからない。あるいは知覚できていない。つまり魔力を放出する際のエッテントラウトの行動をつぶさに観察し、模倣すれば。

「魔力が出せる、かも?」

 観察から試行へと移行することにした。変化がない状況では、模倣するにしてもきっかけがない。

 まずは夕方まで待つことにした。夕方になると、再びエッテントラウトたちが光の玉を出す。

 僕はじっと二匹を観察する。

 互いにぐるぐると回り、泳いでいる。ふとした時に光の玉が生まれて水面を通り、虚空に浮かぶと消える。僕はオスの魚を掴んでみた。ビチビチと暴れるエッテントラウト。水しぶきが飛び散るが構わず、観察する。

「魚なのに少しあったかいな……もしかして温かいのは光の玉だけじゃない?」

 魔力を放出している魚自体も温度がある。水温は低いのに、魚は温かいのだ。ただし光の玉よりは冷たい。それと求愛時以外では冷たかったことを思い出した。これはつまり魔力を放出する生物も発熱しているということだろう。

 僕はじっと魚を見つめた。近距離で凝視する。魚の濁った眼が僕を見ている気がしたけど、構わず見た。じっと凝視していると、魚の周りに何かが浮かんだ気がした。瞬間、魚はひときわ大きく暴れ、跳ねて、桶の中に落ちていった。

 僕は呆気にとられて、虚空を見つめる。

「魚自体も発光してた……?」

 オーラのようなものが見えた。とても微弱な光だったけど、間違いない。結果を考慮した仮定を頭の中で思い浮かべる。

「僕にも魔力を帯びさせることができるかも」

 いきなり光の玉を生み出すことは不可能だと思う。でも、自分の魔力を感知することはできるのではないか。トラウトのおかげで、己自身に魔力を溢れ出させることができると知った。魔力があるのならば、あるいは。

「でも、どうすればいいんだろう」

 魔力について考える。魔力って何だ? 言葉では知ってるけれど、魔力の具体的な説明は難しい。創作の世界でもなんとなく使えてしまっているイメージだ。そもそも不可思議なエネルギーをどうやって体外に放出するんだ。しかもそれを火や風に置換するとか、できるのだろうか。

 待て待て、可能か不可能かで考えれば、不可能という答えが出るに決まっている。疑っちゃダメだ。思い込みもダメ。客観的に、すべての可能性を否定しないようにしないと。

 現状、魔力に関して確実にあると言えることについて考える。

 熱と光だ。

 魔力を放出する際に、必ず熱と光が生み出される。体温とは違うんだろう。そうでなければ、両親が温度を感知できないはずがない。魔力と単純な温度は別ということだ。

 それとトラウトたちを模倣するならば、求愛行動をする際に魔力が放出されているということになる。もちろん、単純な行動に伴う現象ではない。能動的なものだから、真似をすれば同じような結果が得られるとは限らないけれど。試す価値はあるのかもしれない。

 そこまで考えた時、正門の奥に見知った姿が見えた。ローズだ。

 彼女は僕に気づくと手を振って、優雅に歩いてきた。こういう時に小走りしないのは彼女らしい、というんだろうか。まだ知り合って間もないけど、少しだけローズのことがわかった気がした。

「ごきげんよう、シオン」

「こんにちは、ローズ」

 流麗に一礼するローズに僕は笑顔で答える。

 彼女は挨拶を終えると僕の隣に座った。子供だからなのか、距離感が近い。付き合いは浅いのに、多少なりとも友達っぽい関係性を築けているのは、相手がローズだからなのだろうか。

 人見知りの僕だけど、ローズ相手だとあまり気兼ねしなくて済む。ローズが大人っぽいからかもしれない。子供には話が通じないしどうしていいかわからなくなるけど、大人だと話せば理解できる部分もあるからね。

「マリーは、いないんですのね。何をしてるんですの?」

「さ、さあ。部屋に閉じこもってたみたいだけど」

「あのマリーがですか」

 マリーはじっとしていられる性分ではない。病気の時でも外で遊ぶとか、剣の練習がしたいとか駄々をこねるくらいだ。そのマリーが部屋から出てこない。もちろん病気ではない。

 原因は三日前のことだろう。それを僕もローズもわかっているから、妙な空気感が漂っていた。

「マリーでしたら、すぐにいつも通りになると思いますわ。けんをしても、次に会う時にはケロッとしてるんですもの。大丈夫ですわよ」

「そう、だよね」

 僕もそう思いたいけど、今回はいつもと違う気もする。またいつものように一緒に魔法の研究がしたいんだけどな。

「それでトラウトはどんな状況ですの?」

「今のところ何も変化はないね。ただちょっと考えていることはあるよ」

 僕はさっきまで考えていたことをローズに話した。

「──つまり、トラウトと同じ行動をとれば何かわかるかもしれない、と」

「かなり短絡的だけど、行き詰まってるからね。やってみる価値はあるかなって…………何?」

 僕が話している間、ローズはずっと僕をまっすぐに見つめていた。それが気になって思わず聞き返してしまう。

「あなた、変わってますわね」

 しまった。自分の年齢を考慮することを失念していた。子供が話すにしては内容が難しかったかもしれない。ローズは大人びているけれど子供だ。あまりに話しやすいから調子に乗ってしまったけど、僕の言動を見て違和感を抱いてもおかしくはない。

 僕は内心で冷や汗をかきつつ、誤魔化すように笑った。

「そ、そうかな? 別に普通だと思うけど」

「普通の子供はこんな研究はしないかと思いますわ。いえ、興味は持ってもそんなに深い部分まで理解できない。あなたはまるで……大人みたいですわ。それもかなり知識のある」

 図星すぎて何も言えない。この世界の人間からすれば地球の人間は知識が豊富に思えるだろう。実際はただ、誰でも情報を簡単に手に入れられる世界に生きていただけだ。もちろんそんなことを話せるわけもない。

「な、何言ってるのさ。僕は見ての通り子供だよ?」

「それはわかっていますわ。ただそんな風に感じただけですの。失礼、おかしなことを言ってしまいましたわね」

 上品に笑うローズに、僕は思わずれた。恋がれたというわけじゃなく、単純に綺麗な子だなと思っただけだ。それ以外の感情はそこにはない。本当だ。

 とにかく僕への疑いはなくなったらしい。転生したなんて発想ができるわけもないか。

「それにしても求愛行動、でしたか……どんな風にするつもりなんですの?」

「それはこれから考えるところだね。良い案は浮かんでないよ」

 求愛行動。つまり愛情表現だ。そんな相手もいないし、そんな感情も持ち合わせてはいない。家族は好きだけど、多分そういうのとは違うと思うし。

 どうしたものかなと頭を悩ませていると、ローズが事もなげに言った。

「どうしてもというなら、わたくしが相手になってあげてもよろしくてよ?」

「……はい?」

「ですから、わたくしに求愛行動をしても構いませんわ。マリー相手にするわけにもいかないでしょう?」

 確かに実の姉であるマリー相手に求愛するのは色々な意味でまずい気がする。それに考えてみれば、昨日の流れでマリーには好きだと伝えている。それなのに何も変化はなかったわけで。とするとやはり姉に好きと言うのは、求愛行動とは違うのだろうか。だったら相手はローズしかいない。

 他に手段はないし、研究を進めるには手段を選んでいる余裕もない。

「そ、そうだね。じゃあ、お願いできる?」

「ええ、どうぞ」

 ローズと僕はたたずまいを直して、向き合った。いつもの冷静な彼女らしくない。瞳は少しだけ潤んでいるように見えたし、なんだか視線からは熱を感じる。気のせいだと自分に言い聞かせると、一気に鼓動が速くなってきた。

 あれ、なんか緊張してきたぞ。子供相手に何考えているんだ僕は。落ち着け。

 女性経験が皆無という事実がここにきて足を引っ張ってくる。たとえ子供だろうが、女の子であることは間違いない。形だけとはいえ、異性に告白した経験もない僕にハードルは高く感じられた。

 しかし行くしかない。魔法を使うために、前に進むんだ。

 深呼吸を二度、三度。おかしいくらいに心臓がドクドクといっている。

 さあ、言うぞ。

 僕が意を決して、口を開こうとした時、ローズが突如として顔をそむける。

「……時間切れみたいですわね」

 ローズの視線の先、正門前に一人の老人が立っていた。やや大柄で七十歳は超えているであろう白髪の老人は、姿勢正しくこちらを見ていた。眼光は鋭く、背も曲がっていない。質素な格好をしているから村人で間違いないみたいだけど。ローズのおじいちゃんだろうか。

 ローズは立ち上がるとスカートについたほこりを払った。しかしなぜかローズはこっちを一切見なかった。彼女にしてはなんだか違和感のある行動だった。普段はまっすぐこっちを見てくるのに。

「研究の続きはまた次回、ということで」

「あ、ああ。うん、わかった。またね」

 ローズは早口で言うと老人と共に帰っていった。

 去り際、甘い香りがこうをくすぐった。それに、僕の見間違いかもしれないけど、ローズの横顔は、少し赤く染まっていたように見えた。いやいや、まさか、ローズに限ってそんなこと。

 なんとなく恥ずかしくなってきて、僕は頭を振って邪念を排除する。

 どうも調子がおかしいな。

 気を取り直そうと考えた時、バンッというけたたましい音が聞こえ、僕は振り返った。玄関の扉が開かれ、その前にはマリーが立っていた。彼女はいかめしい顔つきのまま、僕の隣に座る。

 明らかに不機嫌だ。僕は硬直したまま、桶を眺めることしかできない。無言のまま時間が過ぎる。どうしたものかと思っていると、マリーが口を開いた。

「…………怒られた」

「母さんに?」

「…………うん」

 なぜ怒られたのだろうか。よくわからないけど、踏み込まないといけないらしい。

「どうして?」

「シオンと結婚するって言ったら怒られた。シオンと同じこと言われた……」

「そ、そっか」

 子供の戯言ざれごととあの母さんなら思うだろう。恐らく、にこにこしながら、そうなのねぇ、とか言いそうだ。そんな母さんが怒ったということは、それだけマリーがしつこかったか、本気だと言ったかのどちらかだろう。

「あたし、そんなに悪いこと言ってるの? シオンとずっと一緒にいたいだけなのに……」

「僕も姉さんとずっと一緒にいたいよ。でもそれなら結婚しなくてもいいんじゃない?」

「だって、結婚するって特別ってことでしょ? シオンとあたしが結婚しないなら、どちらかが別の人と結婚するじゃない。そしたら一緒にいられないでしょ。お父様とお母様みたいになるんだもの」

 結構考えてるんだな。確かにそうなる。もし、僕かマリーが結婚すれば、その相手との家庭を築く。そうなれば姉と弟の関係は継続するが、一緒に住んだり、ずっと共に過ごすことは難しくなるだろう。

 短絡的な考えかと思っていたけど、マリーはマリーなりに考えてのことだったようだ。それだけ好きだと言ってくれるのは嬉しい。本当に。

 それに、幸か不幸か僕はすでに人生二度目だ。一度目で色々と経験している。そして経験してないこともある。僕は童貞だ。そのまま三十年を生きてきた。だったらあと数十年そのままでも同じかもしれないな。

 目の前で泣きそうになっている姉のためなら、別にいいか。だって僕もマリーのことが好きで、大事なんだ。異性としてではないけれど。

「じゃあ、僕は結婚せずに、姉さんと一緒にいるよ」

「…………え? で、でも、それじゃ、お父様が困るんじゃ」

 貴族には跡取りが必要だ。そうでなければ領民が困るし、祖先に申し訳が立たないからだ。実際に父さんから言われたことはないけれど、貴族なんだからそうなるのが自然だ。そして跡取りは長男であることが多い。

「最近だと養子をとって跡取りにすることも少なくないし、そうしたらいいんじゃない?」

「か、簡単に言うわね」

「簡単じゃないよ。僕は本気。僕も姉さんと一緒にいたいし。僕はまだ子供だけど、この言葉はうそじゃない。誓ってもいいよ」

「そ、そんなの結婚するよりも、重い言葉じゃないの」

「姉さんは僕のためにって色々してくれるけど、僕だって姉さんのために色々としてあげたいんだ。こんなのは重くもなんともないよ。僕にとっては姉さんが……大事だからね」

 いつの間にか、転生してから大事なものができた。父さん、母さん、そしてマリーだ。最近ではローズという友人もできて、大事な存在が増えていっている。

 僕にとって、マリーは大切な存在だ。彼女の望みならば、できるだけかなえたいと思っているし、それは苦ではない。

 それに、童貞のまま四十五年過ぎれば妖精になるとかいうよね。六十年なら仙人だっけか。どうせならそこまで目指してもいいかも。だって実際、こうして異世界にいるしさ。そういった夢物語も現実になるかもしれない。魔法を使えてはいないし、魔法があるのかもわからないけど。

「だからね、姉さん。大丈夫。僕は姉さんのそばにいるから」

 マリーは顔を伏せて、肩を震わせている。

 僕たちは子供だ。でも真剣に悩んで、必死に生きている。大人からすればたいしたことじゃないことでも、本気なんだ。それが子供の身体で生きて、わかったことだった。

 マリーなりに悩んだことだ。きっととても苦しかっただろう。その思いは僕にはわかる。でも本当の意味ではわからない。だからできるだけ一緒にいよう。

 僕はマリーの身体を抱きしめる。小さな身体では、二歳年上の姉の身体を覆うことはできない。

 けれど僕の思いは伝わったらしい。

「シオンぅぅ……っ」

 泣きながらしがみついてきた。

 僕はよしよしとマリーの背中をたたいてあげる。初めて湖に行ったあの日、僕をあやしてくれたマリーのように。それが彼女の感情を揺り動かしてしまったのだろう。より激しく泣き出してしまい、僕はずっとマリーの背中をでてあげた。しばらくして、ぐすっという水音だけが庭先に響く。どうやら泣きやんだらしい。

 その時、僕は変化に気づいた。

「……光ってる」

 これは魔力熱?

 僕は慌ててマリーの肩を掴み、身体を引きはがした。

 彼女の鼻は真っ赤で、まだ瞳は濡れていた。なぜかその姿が大人っぽく見えた。

「ど、どうしたの?」

「これ、見て!」

 僕の身体が光っていた。ぼんやりと、でも確かに光っている。光の玉ほどではないが、間違いなく発光していた。

「ひ、光ってる……こ、これ、何?」

「魔力、だと思う。あ、消えた」

 光は消えた。数秒間しかもたないみたいだ。

「魔力って何?」

 きょとんとしたままの姉に、簡単に説明した。

「そう、トラウトが出してた光の玉と同じようなものなのね」

「うん、多分ね。仮定だったけど、正しかったのかも」

「でも、どうして突然出たのかしら……?」

 どんなきっかけで、魔力が放出されたのだろうか。僕は首をひねって、記憶を掘り起こす。

「わかった! ほら、トラウトは求愛行動で光の玉を出してたじゃない? つまり魔力を帯びていたわけだ。僕はそれをずっと見ていたから、無意識のうちに『求愛行動をすれば魔力を放出する』って思い込んでいた。それがきっかけで、身体に魔力を帯びたのかも」

「え、え? きゅ、求愛行動……って、あの、さ、さっきの?」

「そうだと思う。だって、姉さんのために誰とも結婚しないって、最大の告白じゃない?」

 自覚はなかったけど、湖で家族としての好意を伝えた時とは違って、別の感情を伴った求愛行動だと僕の身体は認識したのかもしれない。異性に告白するのとはだいぶ違うけど、それに近い言葉や感情でもあったということなのか。

 あんぐりと口を開けていたマリーは、徐々に顔を紅潮させた。しまいには赤面し、沸騰しそうなほどだった。そしてマリーはすっくと立ち上がり、走って家の中へと入っていった。

 その反応を見て、僕も恥ずかしくなってきた。勢いで言ったけど、改めて、かなり思い切ったことを言葉にしたと思う。しかしもう引き返せないし、後悔はない。なんか複雑な状況になったような気がしないでもないけど。まあでも本心だ。この件については深く考えないようにしよう。

 心臓がうるさいから黙ってほしいところだ。

 とにかく魔力はあった。魔力は放出された。これは現実に起こったことだ。そして、魔力が放出されたのなら、次にできることは決まっている。

 異世界には魔法がなかった。でもそれは魔法という技術が発見されていなかっただけではないだろうか。だったら僕のすることは決まっている。

 魔法を創る。ないなら創ればいいだけのことだ。僕がその第一人者になるのだ。魔法を使いたい。それだけのために。その夢のために。

 僕は震える身体を強引に手で抑え込んだ。

「楽しくなってきたよ」

 幸せだが退屈だった日常は終わった。これからは心躍る日々が続くはずだ。魔法以外でも色々と問題が起こりそうな気もする。けれど不安はない。

 きっと、つまらないという未来は僕にはないだろうから。


   ●○●○


 その日の夜。僕は不意に目を覚ました。

「……トイレ」

 尿意を感じてベッドからい出ると、火をつけたランプ片手に部屋を出た。電気がないので屋内は異常に暗い。そのため光源は必須だ。

 まだ文明レベルは低めだけどこの世界にもトイレはある。正直、汚い話なので言及は避けるけど。

 僕は廊下を進んでトイレへと向かおうとした。すると暗闇の中で何かがちらつく。光だ。居間の方で見える。誰かがまだ起きているみたいだった。

 僕は居間に向かおうとしたけど、声が聞こえて足を止めた。

「……そうか、マリーが」

「ええ、どうしたものかと思って、つい強めの口調で言ってしまって」

 父さんと母さんの声だった。声は小さめで、僕とマリーに配慮していることがみ取れた。

 会話の内容はどうやらマリーのことらしい。僕と結婚するって言ったらしいし、そのことかな。

 僕は聞き耳を立てて、ランプの光を消した。なぜか邪魔をしてはいけないと思ったのだ。

「どうしたものか。仲がいいとは思っていたが」

「子供の言うことだもの。気にしなくてもいいのかとも思ったのですけど」

「マリーの場合は少々行きすぎているきらいがあるからな。その上、頑固だ。君の対応もわからなくもない。強く言わなければ理解しないだろう。それに今のうちに言っておかなければ、後々に困ったことになるかもしれん」

「……ええ。あまり不用意なことは言えないけれど、それでも何も言わないままでもいられなかったわ。問題がないとも言えるけれど」

 問題がないってどういうことだ? 明らかに問題はあると思うけど。それともこの世界では受け入れられていることなのか? だとしたらなんで母さんは怒ったんだろう。

 何か不穏な気配を感じて、僕はより会話を聞き取ることに集中した。

「私たちの関係性は簡単ではない。安易に促すのもよくはないだろう。だがしかしマリーがな……シオンは何と言っているんだ?」

「聞いていないわ。けれどマリーと何か話していたみたい。その後、マリーの機嫌がよくなっていたのよねぇ」

「まさかシオンが受け入れるとは思わないが。あの子は聡明だ。理解した上で、く立ち回っていると思うが」

「あなた、過信はダメよ。あの子はとても頭がいいけれど、まだ子供なんだから」

「そうだったな。つい、な。どうしても時折、あの子が特別であると考えてしまう。あの子は……私たちと血が繋がっていないからな……」

 …………え? 今、父さんは何て言ったんだ? 僕は父さんたちと血が繋がっていない?

 僕は思ってもみない言葉に激しく動揺した。

 確かに僕は転生しているから、父さんたちの子供じゃない。でも僕のこの身体は父さんたちの子供のものだと思っていた。詳しい事情はわからないけれど、確かにこの家族の一員だと思っていた。

 でも違った。僕は父さんとも母さんともマリーとも血が繋がっていない?

「けれど、そんなことは関係ないわよ。シオンちゃんも、わたしたちの大事な家族なんだから」

 この母さんの発言で理解した。僕だけだ。家族の中で、僕だけが血が繋がっていないのだと。もしも母さんたちとマリーにも血縁関係がないのなら、名前を出したはずだ。でも僕のことだけ話していた。

 僕は小さく深呼吸し、現実を受け入れた。確かに動揺はした。けれど、元々僕はみんなとは違う。転生したのだから。それでもみんなを家族だと思って過ごしてきたんだ。だったら今までと何も変わりはない。そう思い込んだ。

 冷静になると頭が回転し始める。

 なるほど。だからマリーが僕と結婚したいと考えていることに対して、問題はないけれど複雑ではあると話してたのか。血が繋がっていなくとも家族であることは間違いないし、子供の僕たちに簡単に打ち明けられる問題でもないし。

 しかし、だったら僕は誰の子供なんだろうか。髪の色的には父さんは赤橙、母さんは茶色、マリーは父さんと同じで僕は赤だ。同じ暖色で近しい色だからあまり疑問を持たなかったけど、赤色の髪は珍しい色合いかもしれない。

 とにかくこのことは黙っていた方がいいだろう。父さんたちにも色々と事情があるだろうし。特にマリーには絶対に僕の口からは言えない。

 これからも一応、今の立ち位置を維持しておくとしよう。それがきっと一番いいはずだ。

 僕は自分に言い聞かせつつ、ゆっくりと廊下を戻ると自室に入った。そして思い出す。トイレに行こうとしていたことを。だけど今は父さんたちが居間にいるので通れない。二人が寝るまで我慢するしかなさそうだ。

 それからしばらく僕は尿意と戦い、なんとか勝利を収めた。


   ●○●○


 ここは自室。最近はもっぱらひきこもりだった。

 桶に入れていたトラウトは湖に戻した。あの二匹は仲むつまじく湖で暮らしているだろう。

 僕は目を閉じたまま静止していた。しばらくめいそうし、カッと目を見開いて叫んだ。

「ファイアーボール! サンダーボルト! ウインドブラスト! アイスストーム!」

 ダメだった。やっぱり何も起きなかった。

「うん、わかってた。やっぱりそうだよね」

 魔法が発動するなんてことはなかった。予想はしていた。当然の結果だった。

 でも試してみるっていうのは大事なことだと思うんだ。とりあえず、魔法が簡単には発動しないということは確実だ。きちんと足元を見よう。魔法なんてあるかどうかもまだわからない。でも、近しい何かは発見したのだ。焦らず、少しずつ進もう。

 僕は心を落ち着かせて、瞑想状態に入ろうとする。

 魔力を放出するにはどうすればいいのか、まだよくわかってない。

 とりあえず、漫画とか小説の基本である瞑想から始めてみることにした。実際、魔力はあったし、身体は光ったのだ。だったら後は発動条件を明確にしていけばいいだけ。ということで、今は色々と試す段階だ。

 一時間近く、心を静めて、腕や身体に意識を集中してみた。はい、何も起きませんでした。これも想定通り。そもそも、僕が魔力を放出できた状況を考えると、瞑想はまったくもって関係ない。やはりやるしかないようだ。

 と、バタンと扉が開かれた。

「シオン! いる? いた!」

「姉さん、ノックしようよ」

「何よ! 恥じるようなことがあるの?」

 まだないけど、それなりの年齢になったらあるんだよ。無神経な母親みたいなことしないでほしいんだけど。言っても聞かないんだよな、この姉は。

 昨夜、父さんと母さんが話していたことを思い出す。マリーと僕は血が繋がっていない。そう考えると、なんだかちょっとお互いの関係性を意識してしまいそうになった。

 しかしきょとんとしている我が姉を前にして、そんな考えは霧散した。そもそも最初から僕は、みんなの家族でありながらそうではない。大人だった時の記憶を持つ特別な子供だ。今さら、血が繋がっていようがなかろうが二人の関係が変わることはない。

 自分の中で割り切ることができた僕は、いつも通りの笑顔を浮かべた。

「丁度よかった。姉さん、ここに座って」

「お菓子の時間って言いに来たんだけど……まあ、いいわ」

 僕の言うとおりに、ベッドに腰かけている僕の隣に座るマリー。

 僕はマリーを真剣に見つめる。

「な、なに、じっと見て」

「姉さん。僕は、姉さんが好きだよ」

 しんな姿勢を崩さず、僕は言った。思いをそのままに口にした。本音だ。異性としてではなく、家族としてだけど。

 するとマリーは一瞬で白い肌を朱色に染める。

「な、ななな、なっ、何、何を、いい、い、いきなり……っ!」

 すると、僕の身体は光を放ち始める。ぼんやりと淡い光が生まれ、数秒して、消失した。

「ああ、やっぱり告白すると魔力が放出されるんだ。どういうことなんだろ……まさか、毎回告白しないと反応しないとか? いやいや、それはさすがに荒唐無稽だよね。ってことは」

「……ねえ、シオン?」

 思考を巡らせていると、マリーが僕をにらんでいることに気づいた。

 あ、まずい。これ、かなり怒っている時の顔だ。

 僕は頬を引きつらせて、答える。

「な、なんでしょう、お姉様」

「あんた、あたしをオモチャにしたわよね?」

「し、しし、し、してません!」

 額に青筋を立てて鬼の形相をする姉。

 やってしまった。しかし、自分の行動を考えると、怒られて当然だと、今さらながらに気づいた。僕は魔法のことになると周りが見えなくなるらしい。

「ほ、ほら、前に求愛行動したら魔力が発動したから……」

「それで嘘をついたの? ねえ?」

「い、いや嘘じゃないよ。本当だから! 本音だから!」

「ほ、本当、なの?」

 さっきまで憤怒の表情だったのだが、すぐに柔らかくなった。あ、この姉、チョロい。

「うん、本当だよ」

「そ、そそ、そっかぁ、じゃあ許してあげよっかなぁ。えへへ」

 はい、可愛かわいい。思わず頭を撫でたくなるけど、耐えた。姉の威厳もあるしね。子供扱いすると怒るんだ。一応、僕は弟なわけだし。本当は年上だけど。

「それで、何かわかったの?」

「うーん、告白すると魔力が放出されてるみたいなんだけど。多分、告白に限定して放出されるわけじゃないと思うんだよね」

「どういうこと?」

「ちょっとやってみる」

「ま、また告白するの!? ま、待って、そ、その、心の準備が」

「あ、いや、それはしないよ」

「……しないのね」

 顔を赤くした後に、すぐにしゅんとしてしまった。ころころと表情が変わるところは可愛いけど、今はやるべきことがある。

 告白は相手に思いを伝える際、自分もまたその思いを自覚する。つまり、強い感情を抱いているということ。これは愛情だけではなく他の感情でもいいのではないかと思った。

 そこで、僕は怒りを想像してみる。人間、生きていれば怒ることなんてごまんとあるし。

 …………あれ、ないな。そういえば僕、あんまり怒った記憶がないなぁ。そうだ。別に負の感情でなくてもいいじゃないか。前向きな感情だ。楽しい、ワクワク、嬉しい。そんな感情を込めてみよう。魔法を発動できる。その思いを強く意識してみよう。

 僕は明確に魔力を身体に帯びているところを想像し、喜びの感情を伴わせた。

 熱と光。それが僕の身体から生まれるイメージ。それを数分続けた。マリーは無言で動向を見守ってくれている。

 すると、心臓付近から熱が広がる感覚を覚えた。徐々に身体の末端まで温度がでんする。高熱の時のようなだるさはなく、また夏場のように不快な暑さもない。ただ柔らかな心地いい感覚が身体を満たした。


 僕の身体は光っていた。


「で、できた!」

「ひ、光ってる!?」

 マリーと視線を合わせて数秒すると、光は消えた。やっぱり意識を逸らすと、魔力放出は終わるようだ。

「い、意識してできたのよね?」

「う、うん! できた! ただ光っただけだけどね!」

「そ、それでもすごいじゃない! 光っただけだけれど!」

 身体が光っただけ。何の利便性もない。役にも立たない。だけど、それは常識的には考えられない現象だった。魔力の存在はここに確立されたのだ。

 心臓の近く、身体の深いところからそれは生まれた。

 ふとデンキウナギを思い出した。彼らは電気受容感覚というものを持っており、電場を感じ取ることができるという。そして体内に特殊な発電器官があり、その器官を利用して電気を発生させているとか。この世界の人間の身体にはそれに類する『魔力受容感覚』や『発魔器官』のようなものがあるのかもしれない。

 とりあえず、僕は現時点での魔力放出の状況を『帯魔状態』と名付けることにした。

 実際、身体に魔力を帯びているだけで、何も効果はない。発光はしているけど、それに意味はない。なぜならば、発光自体は世界に影響を及ぼさないからだ。見えない人もいる。それはつまり、発光する魔力の塊を知覚できる生物は限定されているということ。

 そして、光を放っているのに、物質に光を反射させることはない。知覚できないわけだから当然だ。特殊な現象のため、魔力の塊があっても周辺を照らす光源にはなりえない、ということだ。

 つまり帯魔状態になれても、暗闇を照らしたりできないので、何の意味もないということ。遠くから自分の存在を誰かに知らせることはできるかもしれないけど。

 まあ、トラウトの求愛行動に伴って生まれる魔力の塊も、たいした影響を与えることはない。あれはただのコミュニケーションなのだろう。クジャクが羽を見せて踊るのと同じようなものなんだと思う。ただ素質のある人間には、僅かな温度と感触を得ることはできるけれど。

 とにかく、僕は自分の意志で、自分の思う通りの結果を得たのだ。

 ただ光を放つだけ。それだけのことだったが、僕は嬉しくてしょうがなかった。

「う、うへへへ、魔法が使えたぁ」

「……すごい顔になってるわね」

 僕はだらしなく頬を緩めて、気持ち悪い笑い声を発し続けた。だって嬉しかったのだ。

 ずっと憧れていた魔法が使えた。正確には魔法にもなっていない。ただの魔力放出だ。でも、いずれは魔法を使えるんじゃないか、という期待を持つには十分だった。

 それに非科学的な、非現実的な現象を僕が起こしたのだ。たいしたことではないとしても、高揚を抑えきれない。

 嬉しくて、嬉しくてしょうがない。ずっと夢見てきたのだから。

「うへへへぇ、へへ」

「ふふ、変な笑い方。でも、そんなに嬉しそうにしてるシオン、初めて見たわ。よかったわね」

「うん! へへ、嬉しいよ、うへへ」

 よしよしと頭を撫でられた。

 優しい笑みを浮かべているマリーと、気味の悪い笑みを浮かべている僕。よくわからない空間がそこにはあった。けれど僕もマリーも確かに、幸せを感じていた。


   ●○●○


 いつもの自室である。見慣れた光景だけど、落ち着く光景でもある。

 僕はベッドに座り、瞑想状態だった。何も考えないのではなく、意識を集中させるように心掛けている。以前は頭をからっぽにすることに終始していたから、魔力放出ができなかった。今は、感情を強く意識して、魔力を発動させることに成功している。

 帯魔状態に至ってから、すでに一ヶ月が経過していた。

 さて、この一ヶ月でわかったことをまとめようと思う。

 一つ。帯魔状態になるにはある程度、強い感情が必要。そしてその感情を維持することは非常に困難だということ。

 どんな感情でもずっと維持することは難しい。よほどのことがない限り、その感情が薄くなる。

 二つ。一日に、帯魔状態になれる回数は限界があるということ。

 魔力の概念が正しいかどうかはまだわからないが、暫定的に僕はこの現象で放出されるエネルギーを魔力だと仮定している。当然、力を発現するには燃料が必要だ。魔力を費やし、魔法を使うのだから。現状、魔力を放出しているだけだと思うので、魔法には程遠いけど。

 当たり前の話、魔力は有限。そのため、ある程度の魔力を放出すると止まる。そうなると一気に無気力になり、何もしたくなくなる。

 一度それでも放出を続け、魔力が枯渇した日はひどかった。一日中、何もしたくなくなったため寝て過ごした。病気とかじゃなくて、ただ無気力になったのだ。

 最初は帯魔状態に五回なるだけでそうなった。

 三つ。魔力を限界近くまで放出すると、次は魔力量が少し増えるということ。

 魔力の限界値は、最初は帯魔状態五回だった。けれど、今は十回まで可能になっている。

 一ヶ月の間、毎日、限界一歩手前まで帯魔状態を維持した。枯渇しない限り、完全な無気力にはならないので、日常生活に大きな支障はない。ただ、だるくなるし、やる気がなくなりやすくはなるので注意が必要だ。

 四つ。帯魔状態は光の玉同様、魔力の素質がない人間には見えなかった。

 そして、素質のある人間には見えるし、触れば温かさを感じることもわかった。これはマリーに頼んで試したのでわかった。まあ、これくらいは別に驚くようなことではないけれど、大事なことだ。状況が変われば、変化があることもある。光の玉と帯魔状態が同一とは限らない。

 そして他にもちょっとした発見があった。

 魔力は自分自身にあまり刺激を与えない。僕の魔力で、僕自身は熱を強くは感じないし、感触もほとんどない。けれどマリーが触ると、温度を感じるし、僅かに感触があるということ。これはちょっと面白い発見だったと思う。

 そして五つ。これが最大の問題。

「ああああああああっ! 光の玉が出ないぃっ!」

 そう。帯魔状態で魔力量を増やしているのに、光の玉が出る様子はなかった。

 帯魔状態は、身体全体がぼんやりと光るだけ。魔力量が増えても、状況は変わらない。ただなんか光ってるという程度で終わる。魔力量を増やしても光の量も増えないし、変化は一切なかった。

「……うーん、もしかして魔力放出量には限界があるのかなぁ。僕の放出限界は、今放出している魔力の量なのかも」

 身体がぼんやり光る。これが最大放出量だとして、もしかして僕は光の玉を出せないのか。

 つまり魚以下の魔力放出量ってこと? あはは、ご冗談を。嘘だよね?

「……総魔力量を増やしても、一度に使える魔力の限界が変わらないなら、意味ないんじゃ」

 例えば、総魔力量、つまりマジックポイントが百あるとしよう。魔法発動に必要なマジックポイントは五。でも僕が一度に放出できるマジックポイントの限界は四だとしたら魔法は発動できないのでは。

 たとえ総魔力量があっても、放出限界量が最下級魔法の必要魔力量未満だったら、魔力はあっても魔法は使えない。まだ結論を出すには早いけれど、可能性はある。

 なんてことだ。これが事実ならば、僕は身体を光らせるしか能がないただの人間ということだ。しかも光っているのが見えるのは魔力の素質がある人だけ。何の役にも立たない。ただ光るだけの発光人間である。

 あれ? 詰んだ? 詰んでる? これ。

「いやいやいや、待て待て。まだ諦めるのは早いって! 絶対に何かある。何かないと困る。こんなので終わりなんて絶対にやだ!」

 ここまで来て、実は魔法は使えませんでしたなんて認めてたまるか。諦めないぞ。絶対に。冷静になれ。まだやれることはある。

 トラウトのことを思い出してみよう。身体を発光させて、光の玉を出していた。どこからだったっけ。頭、あたりだったような。ということはもしかして。

 身体中から出せる魔力放出量は決まっていても、それは薄めたものだ。一ヶ所に集めれば別の結果が出るのでは。

 僕は意識を集中し、感情をイメージして帯魔状態になる。身体中が発光している。このまま、手に意識を集中した。腕に魔力がいくように。

 感情を維持したまま、腕へ魔力を伝播させるイメージ──なんてできるわけもなく、帯魔状態は解除された。

「難しすぎるよ……これ」

 感情に意識を割かないと魔力は放出されない。その状態のまま、身体のどこかへ魔力が集中するような想像をする。言葉だと簡単だが、実際にやるとどっちつかずになって難しい。

 喜びの感情を想起するという感情的な思考と、右手に意識を集中するという理性的な思考。相反する思考を同時に行うのは困難だ。

 いや違うな。そもそも間違っている。順番が逆なんだ。魔力を発動させて、右手に意識を持っていくからおかしくなる。つまり『右手に魔力が集まれば、嬉しい』と考えればいい。完璧だ。右手に魔力を集めること自体に感情を伴わせればいいはずだ。

 ということで、やってみた。

 帯魔状態になる。身体中が光を放つ。ここまでは慣れたもの。しかし今までと違うのは現段階で既に、右手に魔力を集めるイメージができているということ。

 身体中の光が徐々に右手に集まる。薄く伸びた光は、一点に集まると輝きを増した。僕の右手は真っ白に光っている。白色灯を思わせるほどにまばゆい光が、右手から生まれていた。

「う、うお……」

 僕は立ち上がり、右手を掲げた。光る手が天井へ伸びている。

「うへへへぇ! 僕の右手が光ってるぅぅっ! うへへっへっ!」

 このまま壁にぶつけたら、破壊とかできないだろうか。できそうだ。それだけの力の奔流を感じる。

 僕は興奮しすぎて、理性を失っていた。うへへと笑いながら、壁に向かう。もう止められなかったのだ。魔法が発動したら、試してみたいのが男の子ってものだからだ。子って歳じゃないけど。

「うりゃあっ!」

 僕は勢いよく木の壁に拳を突き出した。次の瞬間、バンという音が響き、拳に痛みが走る。

「い、いっつぅ……ぐぬっ! た、ただの光じゃないか……っ! なんか破壊する力があるかと思ったのにぃっ!」

 子供の拳だから、壁に穴が開くようなことはなかった。多分、力が弱いから痛みもあまりなかったんだろう。それは不幸中の幸いだったけれど、光は消えた。一瞬で。

 魔力を集めても、しょせんはただの魔力だったようだ。予想はしていた。というか当たり前だった。魔力の塊に触れてもただ温かいだけなのだ。壁を破壊するような衝撃が生まれるはずがない。

 落胆と共に、僕は壁を見た。幸いにも傷はない。穴も開いていない。

 反省だな。ちょっとテンションが上がりすぎてしまった。思った以上の結果は出なかったけど、思った通りの結果は出た。

「ま、いっか! うへへ、強い光は出せたし、うへへへっ!」

 僕は気持ちの悪い笑みを浮かべながら、右手を見下ろした。

 まだ練習が足りない。身体中の魔力を、完全に右手に移動させられなかった。まだ改良の余地はあるようだ。

 僕は帯魔状態から魔力を移動させ、特定箇所に集めることを『集魔』、集めた状態を『集魔状態』と名付けた。

 毎回、名称を付けるのは、後々を考えてのことだ。だって、魔法を創れたら、それを言葉や文字で明確に説明できた方がいいし。マリーにも教えるつもりだしね。まあ、まだその段階じゃないから、もう少し技術が向上してからにするつもりだ。

 以前に観察を手伝ってくれていたマリーとローズもそれぞれにやるべきことがあるみたいだ。マリーは剣術の鍛錬に、ローズは家の用事に時間を使っている。

 トラウトを調べる時は人手が必要だったけど、今は考える時間の方が多いしね。別に飽きたというわけじゃなく、時間を有意義に使おうということだ。

 じゃないと、マリーとローズのしたいことはできなくなっちゃうし。僕からもそうしてくれと言ったので、手伝いが必要じゃない魔法開発の時間は僕だけで過ごしているというわけ。もちろん進展があったら二人に話すようにはしている。

 さて、じゃあ、続きをしよう。とにかく進展はあった。

「う、うへへ……一歩前進したぞぉ、へへ」

 僕は頬を緩めながら、再びベッドに座った。そうして集魔の練習にいそしんだ。やりすぎて、魔力が枯渇してしまったのは言うまでもない。


   ●○●○


 僕はへきえきとしていた。

 見慣れた中庭。でもそこにはいつもとは違う光景が広がっている。

 僕とマリー、そしてローズの三人が横に整列している。

 僕たちの前には父さんが仁王立ちしていた。

 ああ、やだやだ。

「「「今日はよろしくお願いしますっ!」」」

 僕たちは同時にお辞儀をした。

 マリーとローズは多分やる気満々だけど、僕は違う。この場から逃げ出したいという思いでいっぱいだった。むしろ集魔の練習をしたい。

 まだ身体中の魔力の移動は円滑ではないし、十分に集めることもできない。それが何になるのか、という疑問はあるけれど、魔力の操作ができる方が何かできる気がする。分散している魔力よりも、集約している魔力の方がイメージとして魔法を顕現させられそうだし。

 とりあえずは、トラウトのように光の玉を出したい。

 それはそれとして、今僕たちの手には木剣が握られている。三人全員だ。これが何を意味するのか、言わずともわかるだろう。

「よし。では今日から、三人での剣術鍛錬を始める。ふざけたり、気を抜いたりしないように。木剣でも人は死ぬからな。わかったか?」

「「「はいっ!」」」

 端っこで見学したいなと思っていると、隣からジト目を向けられてしまった。マリーである。そもそもが、彼女の発言が発端でこんなことになってしまったのだ。

 僕は剣術が苦手だ。あんまりやってないけど、苦手だということはわかる。というか精神的に苦手。やりたくない。その考えからマリーが父さんに剣術の手ほどきを受けている時、見学していることが多かった。

 しかし、その状況をマリーはあまりよく思っていなかったようで。父さんに、僕にも剣術を教えるように進言してしまったのだ。

 僕にとっては不幸なことに、父さんも同じように思っていたらしく、男子たる者、いざという時のことを考え、剣術くらいは学んでおけ、と言われてしまった。そして強制的に参加させられた。それが今日。初日である。

 ローズは、自分から剣術を教えてほしいと父さんに頼んだらしい。なんとも向上心のある子だ。

 なんで剣なんて学びたいのかわからないが、僕は除外してほしい。この身体も、前の身体も運動神経はあまりよくなかったのだ。

 ドッジボールで最後まで残るタイプではあった。ただし、球を投げても当たらない。投げてもものすごく遅い。けるのだけは上手いという、よくわからないけど、なぜかクラスに一人はいそうなタイプだったのだ。

 道具を使う系のスポーツは特に苦手だ。身体だけを動かすスポーツなら少しはマシなんだけど。

 剣術は当然ながら剣を使う。だから、あまりしたくない。もう逃げられないので、やるしかないけど。

「ではローズの能力を測るために試合をしよう。手加減はするから、遠慮なく打ってきなさい」

「お願いしますわ」

 僕はごとのように試合を見物した。

 結果から言うとローズは平均的な剣術の腕前のようだった。彼女は剣を習ったことはないらしく、あくまで素人という前提での話。

 運動神経も悪くなく、目立った欠点はない。ただそのぶん長所もあまりなさそうだった。オールラウンダー型の剣士になりそうだと父さんは言っていた。

 さて次の番は僕だったんだけど、すでに結果は出ている。

 僕は地に伏して、息を整えることに必死だ。木剣は彼方かなたに放られている。身体中傷だらけ。これは父さんの攻撃でできたものじゃない。

 父さんは顔を手で覆いながら嘆息した。

「まさかこれほどまでに剣術の素質がないとは……」

「ぼ、僕も、ここまでとは、お、思わなかったよ」

 最近ではマリーに付き合って、走ったりもしている。だから体力は結構ある方だ。でもそれだけだ。がむしゃらに剣を振り続ければ体力はすぐになくなる。大ぶりのパンチを続けるのと、腰の入ったジャブを続けるの、どちらが体力を消費するのか、答えは簡単だろう。

 そして僕は疲労のあまり、盛大に転倒し、木剣を放って、ゴロゴロと地面を転がった。その際についた傷が身体中に残っている。

 時々、父さんが攻撃をする時は、比較的俊敏に回避できたと思う。でも、我ながら剣による攻撃はお粗末だった。へなへなだ。へなちょこだ。

「目は悪くない。回避はそれなりにできているようだ。ただ剣がどうという問題ではない。シオンは身体の動かし方がまったくできていない。木剣に振り回されていたし、強引に動かして、動きがバラバラになっている。なんというか……壊滅的に運動神経がない……」

「じ、自覚はあったよ。やっぱり、そうなんだね……」

 僕は乾いた笑いを浮かべると立ち上がった。

「回避はできているから反射神経は悪くないようだが。走るのはそれほど遅くはないんだったな?」

 父さんに尋ねられたマリーは二度頷いた。

「たまに走って鍛えてるから体力はついてるし、走るのも遅くないと思うんだけど……」

「ふむ、完全に運動神経が悪いわけではないみたいだ。たまに道具を使う運動が苦手な人間がいるから、それかもしれない」

 それです。すみません。僕は内心で謝ると、身体についた土を払う。

「どうするか。人よりもかなり努力すれば、人並みにはなるかもしれないが」

 ここだ! 僕は瞬時に父さんに向かって叫んだ。

「父さん! 僕には剣術の才能はないですし、他にやりたいことがあるので、やめておきます!」

「そ、そうか? しかし男子たるもの、多少は剣術を──」

「父さん! 剣術だけがすべてではありません! 僕には僕のできることがあるはず! なんでもじっひとからげにしては、個性も才能も伸ばせません! 僕は勉強とかは結構得意なので、そっちの方で頑張ろうと思います!」

「……一理あるな。勉強をさせるにしても、基礎教養以上はそれぞれの意思に任せるつもりでもあった。わかった。シオンは剣術をたしなまなくともいいだろう。ただし、肉体の鍛錬だけはしておきなさい。何かあった時、動けないよりは動けた方がいいからな」

「それは、もう! わかっております、お父様!」

 ビシッと敬礼する僕を見て、父さんはあきれたようにため息を漏らす。しかし、その後、仕方ない奴だなと苦笑した。

 隣でマリーとローズが僕を呆れたように見ている。

 ああ、そんな顔をされたら、気まずいのでやめてほしい。でもしょうがないのだ。人には向き不向きというものがあるのでね!

「では最後にマリー。どれくらい成長したか、見てあげよう」

「お、お願いします!」

 マリーは父さんとたいし、剣を構える。僕やローズに比べると、やはりいちじつの長があるためか、堂に入っている。それだけではない。彼女は普段とは別人のようにりんとしている。一言で表すなら格好良かった。その綺麗な横顔に、思わず見とれていた。

 マリーが地を蹴る。速い。

 速さのあまり、僕は彼女の動きを一瞬だけ見失いそうになる。なんとか視線で追うとすでに彼女は父さんの眼前に迫っていた。

 けんせん。斜めの軌道を通る一太刀は、父さんの肩に向かう。

 しかし先読みしていたのか、父さんは木剣を掲げる。

 触れると思った瞬間、マリーは剣を静止させる。フェイントだ。反対に回転すると、しゃがみながら、横なぎを放つ。足元への攻撃。かなり回避しにくいだろう。

 しかし、それを一歩下がるだけで父さんはかわしてしまった。必然、マリーには大きなすきができる。トンと頭に木剣を当てられると、マリーは呆気にとられたように父さんを見上げる。

「私の勝ちだ」

 マリーの動きは大きい。対して父さんの動きは非常に小さかった。必要最低限の動きしかしてないように見えた。圧倒的な力量の差がそこにはあるようだった。

 マリーは悔しそうにしながらも立ち上がると、離れて一礼した。

「ありがとうございました……」

「うむ、悪くない。ただ動きが大きい。しかし、相手の虚をつこうとするところはよかったな。これからも精進しなさい。マリーなら数年でかなりの腕前になるだろう」

「うん、頑張る。もっと強くなれるように」

 マリーは悔しさを保ったまま、瞳に闘志を宿らせている。強くなる。その理由は僕を守るため。それだけではないけれど、大きな理由だ。そう彼女が言っていた。

 その気持ちが嬉しいと共に、僕も自分にできることを探さないといけないという焦燥感を抱いてもいる。剣術では何もできないことは確実だけど。

 ということで、一通り稽古も終わったし、僕はこれくらいでおいとましようかな。多分、これから剣術の基礎の鍛錬とかだろうし。ほら、僕には関係ないからさ。

 そう思い、僕は中庭から逃げ出そうとした。

「では、次は……シオン? 何をしている?」

 こそこそと気配を消しながら家に入ろうとしたけど、父さんに呼び止められてしまった。

「い、いやぁ、僕にはもうやる必要はないかなぁ、と」

「何を言っている? まだ剣術の練習は始まったばかりだ。これから素振りを始める。確かにシオンには剣術の練習は必要ないだろう。しかし先ほども言ったが肉体の鍛錬は必要。つまり、おまえは別練習だ」

「と、言いますと?」

「走りなさい」

 走ってばっかああぁぁ───っっ! 何なの? この世界の人は、何かあったら走るのが基本なの? わかるよ。走ることは大事だってことは。でも他にあるじゃない、もっとあるでしょ。なんで走るの。なんで走らせるの。ああ、やだ。もうやだ。

 そうは思うけど、父さんの圧力はすさまじい。マリーの父親だけあって頑固だし、こうと決めたらもうダメだ。逆らうことは不可能。

 僕は目を泳がせながら、父さんに従うしかなかった。本当は魔力の鍛錬をしたかったけれど、しょうがない。これもいつか役に立つ時がくるかもしれない。こないかもしれないけど。

 僕は父さんの言う通り走り始めた。それは、みんなの練習が終わるまで続いた。


   ●○●○


 現在、自室にて魔力の鍛錬中だ。僕は帯魔状態から、集魔で右手に魔力を固定した。

 白色灯を思わせるような色と光。しかし光の量はそれほどではない。見つめるとまばゆいけど、光量で言えば豆電球ほどだろう。それでも人体が発光していると考えればすごいことではある。

 帯魔状態から集魔状態への移行はスムーズになってきている。問題は、身体中に帯びている魔力のざんがあり、魔力が完全には一点に集まらないということ。必ずある程度の魔力は残ってしまう。

 右手に集魔しても、他の部位は淡く光ったままだ。完全に一部に集めるのは無理なのだろうか。

「うーん、やり方が違うのかな……一度立ち止まって、考え直した方がいいかも」

 何かを新しく生み出すことは簡単ではない。教科書もないし、他に見識のある人間はいない。すべて自分で考え、仮定して、結論を出していく。アルゴリズムとしては単純だが、仮定と結論の間には大きな隔たりがある。

 まず魔力に関して。魔力自体がどういうものなのかはまったくわかっていない。確実なのは、魔力は身体から生み出されているということと、魔力を持っている他人と接触すると何かしらの影響を及ぼすということ。

 細かいところを言えば他にもあるけど、概要はこれくらいだろう。

 さて、ここで一度考えてみよう。そもそも、魔力とは何だ?

 生命エネルギーのようなものだと考えても、それを視覚的に具現化することは不可能。それがなぜできるのかはこの際、置いておこう。突き詰めても僕にはわかりそうにない分野だからだ。

 科学もそうだが、結果から過程を分析し、能動的に活用するものだと僕は思っている。世界は物理法則に縛られており、すでに存在しているものを掛け合わせることしかできない。

 その上で何かしらの反応、現象が起こることで、人は活用することを覚えた。

 発見者は、火を生み出そうと思って生み出したのではない。火が何かしらのきっかけで生まれ、どうすれば火を起こせるのかと考えたはずだ。

 魔力も同じ。結果として魔力は存在し、視覚化されている。だが、魔力自体はおぼろげに存在するだけ。今のところは、だけど。

 魔力自体の説明はまったくできる自信がない。まだ発見したばかりで、これが何なのかという部分は不明だ。これから少しずつ実験し、知っていくしかないだろう。

 ただし、現段階でわかっていることもある。

 トラウトの件を考えると、魔力はコミュニケーションの手段として使われていることは明らかだ。しかしあれは魔力の塊、つまり光の玉を生み出すことで求愛しているということを伝えているにすぎない。愛してると言葉にすることと何ら変わりはないだろう。

 魔力そのものを上手く利用しているかどうかは疑問だ。トラウトの習性を鑑みても、魔力を魔法へと変換させる方法はわかりそうにない。ただトラウトが魔力の玉を作り出していることには興味がある。

 集魔状態では、身体の一部分に魔力を集めているだけだ。つまり魔力と身体が接触している状態でないと維持できない。集魔状態から、魔力を体外へ放出するにはどうすればいいのか。

 帯魔状態は感情を強く意識することで生まれるもの。そして集魔は意識を伴って、魔力を移動させるもの。どちらの状態も保ったままでいるには、一部分に魔力が集まれば喜びを感じるという意識が必要になる。

 喜び、の部分は怒りでも悲しみでもいいだろう。ただ僕には喜びが最も適していたというだけだ。

 まず体外へ放出するにはそれ相当の魔力が必要だ。帯魔状態からだと難しいことは実証済みだ。恐らく魔力量が少なすぎて、放出する前に霧散するんだろう。つまり一部分へ集魔してからの放出が必要だ。

 だがこうなると、少しだけ複雑になる。『右手に集まった魔力を体外へ放出できれば嬉しい』という思考が必要になるわけだ。

 もちろん試してみた。結果は放出されずに消えてしまった。まったくできないわけではなく、魔力が僅かに身体から離れようとしている瞬間は見える。しかし、トラウトのように完全に身体から離れた状態で、数メートル上空へ浮かべるなんてことはできない。

 かなりの高等技術が必要なのか、あるいは僕のやり方が間違っているのか。

 体外放出ができても、役に立つわけではないけれど、できないとむずむずして落ち着かない。他人が知れば、そんなことにむきになるな、なんて思うかもしれない。

 でも、僕が実現したいって思うんだ。誰が何を言おうと関係ない。僕が、そうしたいんだ。

 魔力を発見して半年以上が経過している。しかしただ身体から光を放ち、自分の意思である程度動かせる、くらいの進展しかない。

 これだけでもかなりの発見だ。でも、だからなんだというのだ、と言われればそれまで。僕は研究者ではない。新たな発見に心を躍らせることもあるが、それはあくまで魔法を使うという目的に向かっている、という前提があるからだ。

 現状、研究は停滞している。何かきっかけが欲しい。それが何なのか、まったくわからず、結局、集魔の練習を続けるしかない。

 最初は数回で限界だった帯魔状態の維持も、二十回程度まで可能になっている。ただ、最初に比べると回数の上昇は緩やかだ。

 帯魔状態を維持するには、体内からの魔力放出が必要だ。これは体内魔力、つまり僕が持つ『総魔力量』によって、帯魔状態に何回なれるのかがわかるということ。いわゆるマジックポイントだが、この上昇値が少しずつ減っている。一度に放出できる限界値もほんの少しずつ増えている気がするけど。総魔力量の上昇も限界がありそうだ。

 とにかく、そろそろ進展が欲しい。さすがに気がえる。

 どうしたものかと考えていると扉が叩かれた。これはマリーではないなと思いつつ、僕は返事をする。すると入ってきたのは、珍しい人だった。父さんだ。

「勉強中だったか?」

「ううん、大丈夫。どうしたの?」

「うむ。実はこれからイストリアへ行こうかと思っていてな。シオンも行くか?」

 イストリア。それはエッテン地方にある都市のこと。家から最も近い中規模の都市だ。といっても、僕たちが住むリスティア国はかなりの小国らしいので、期待はできないけれど。

 正確な人口はわからないけど、国の総人口は十万程度しかいないとか。領地も広くはなく、村々は分散しており、大都市と言える場所はイストリアとリスティアの王都であるサノストリアの二ヶ所だけ。

「でも、いいの? 街に行くのは父さんと母さんだけって言ってたよね?」

 僕も街には行きたかった。魔法に関しての調査がしたかったからだ。ただ、街へ行くのは危険だからと父さんに止められていた。何度か、ねだったけどダメだったのだ。

 ちなみにマリーも行ったことはないらしい。

「今日は特別だ。私だけでなく、何人か馬車持ちがいてね、彼らも街へ買い出しに行くというから、丁度いい機会だと思ったわけだ。他にも用事があるからな。で、どうだ、行くか?」

 馬車は高級だ。牛車は畜産を営んでいる人たちであれば持っていなくはないが、移動速度は遅い。そのため買い出しは馬車が基本だ。

 ただし馬車は高く、維持費も馬鹿にならないため、所持している人は少ない。貸し馬車業などを営んでいる人もいるらしいけど、村にはいない。

 ある程度距離がある街まで移動して、一日のうちに戻ってくるには馬車が必須だ。そして街での買い出しはどこの村でも必ず必要になる。村だけで自給自足することは困難だからだ。

 そこで大体の村では共同で馬車を購入したり、比較的裕福な人間が購入、管理をして、買い出しをする代わりに手間賃を要求することが多いらしい。

 僕たちの村では父さんが前貸しして、少しずつ返してもらっているとか。父さんが購入し、貸し出すという方法をとらなかったのは、領主に依存しすぎることを嫌ったからみたいだ。

 完全に返済すれば馬車は村の財産になるので、領主に何かあっても所持し続けられる。父さんは領民の自立を促しつつ、互いに支え合う生活を模索しているようだった。

 それはそれとして、父さんの提案はありがたかった。

 まあ、図書館なんて便利なものはこの国にはないから、魔法関連の書籍があるとは思えないけど、街を見ておきたいとも思っていた。

「うん、じゃあ行くよ」

「そうか。では準備しなさい。日が暮れるまでに帰らないといけないからな。それとマリーとエマも一緒だ」

「わかった。すぐ準備するよ」

 父さんは居間の方へ戻っていった。イストリアまで徒歩で三、四時間程度らしい。馬車だと一時間程度だろうか。

 途中で日が暮れると野宿しないといけないが、これは非常に危険だ。夜になると凶暴な魔物が現れる。この世界では、野宿には危険が伴うということが常識なのだ。

 ようへいや軍隊、多人数の移動であれば見張りを立てたりすれば対処は可能だ。それでも基本的には夜の移動や野営は非推奨とされている。当然、僕たちのような一般人が野宿するのは命取り。だから必ず夜になる前に村や街へ到着しなければならない。

 魔物か。どんな生物なんだろう。魔法に執心していたため、関連しそうな情報や、歴史とかばかりに目を向けていた。そのため魔物や妖精のことはよく知らない。

 それになんか、あんまり詳しく教えてもらえないんだよね。子供には恐ろしいものを教えない、ということなのだろうか。

 ただ魔物は危険だから近づくな、とかは散々言われている。外に出るにも、必ず父さんか母さんの許可が必要だし。思っている以上に、この世界は危険が溢れているのかも。

 まあ、出あうようなことをしなければ大丈夫だろう。父さんもいるし。

 そう思いながら、僕は鞄を背負って部屋を出た。


   ●○●○


 馬車の荷台に僕とマリーが乗り、父さんと母さんは御者台に乗っている。

 他の村人たちも同じように馬車に乗っていた。話したことがないのでちょっと気まずい。

 乗り心地は悪い。でも、この世界でぜいたくは言っていられないし、なにより街へ行けるというのが嬉しかったので、あまりストレスはなかった。

 楽しみだという話をマリーとしながら、道中を過ごす。街道を進み、平原と森を抜けた。道中で旅人らしき人や商人らしき人とすれ違う。会釈をして、再び先を急ぐ。

「見えてきたぞ」

 父さんの一声で、僕とマリーは前方へ視線を向ける。

 街だ。思ったよりもしっかりした造りのようだ。防壁もあるし、門衛もいるし、入場待ちをしている人たちもいる。結構広い気がするけど、これでも中規模なのだろうか。

 列に並び、門衛の審査を受けると、僕たちはイストリアの中へと入っていった。

 大門を抜けた先にあったのはまっすぐ伸びた通り。しかし先の方は左に曲がっており、遠くまでは見えない。細道はあるが、大通りは直線ではないようだ。

 建物で全体像が見えないけど、格子状に通りがあるような構造ではないようだった。そのためかやや雑多な印象が強かった。なんというか整備されてない、発展途上の街って感じだ。

 でもこれだけ人が多いところに来るのは、転生して初めてだったので、落胆はなかった。むしろ高揚感が強かった。ここなら少しは魔法に関する情報を手に入れられるんじゃないだろうか。

 村人たちといったん、別れる。後で合流するみたいだ。

 馬車が慎重に進む中、父さんは肩越しに振り向きながら言った。

「まずは買い出しだ。それから屋に寄って、帰宅する。はぐれたら迷子になるから、絶対に私たちから離れないように」

 子供だから当然か。これは自由に調査できそうにないな。

 それに魔法に関する何かを調べるにしても、何を調べたらいいものか。他に何かないかと辺りを見回すくらいしかできない。

 まあいいさ。まだ子供だから見回れないけど、ある程度成長すれば自分で街へ来られるだろうし。無理に希望を言っても、わがままな子供だと思われるだけだ。良い子でいるように心掛けているのに、その努力が台無しになる。だから今は良しとしよう。

 さて、街並みを観察しよう。まず木造と石造の混合建築が多い。造りは現代に比べると雑だけど、この時代ならこんなものだろうと思われる見た目だ。

 僕たちの服装はシンプルで色合いも地味。男性はシャツとズボン姿が多く、女性はワンピースかブラウスとスカートが多い。正確には部分的に形は違ったりするけど、大体は同じだ。

 街を行く人たちも同じような感じ。ただよろいを着た兵士や傭兵のような人も散見された。村にはいないタイプなので少し珍しい。ああ、ここは異世界なんだな、と改めて実感した。剣と鎧があるのなら、魔法があってもいいんじゃないかとは思うけど。

 通りをゆっくりと進みながら、途中でいくつかの店の前で止まると、僕とマリーは馬車で待たされた。大概の店は狭く、大勢で行くと邪魔になるかららしい。大型店舗なんてほとんどないらしく、大体は個人店だ。だから別に不満はなかった。暇だけど。

 それにしても、今日のマリーは少し様子がおかしい。いつも以上にニコニコしているしソワソワしている。待っている間も、気もそぞろで、周囲を見回したりしている。何かあるんだろうか。

 何店舗かハシゴすると荷台の中には木箱やたるが増えていった。僕とマリーの居場所は狭くなったけど、ちょっと楽しい。何もない車内より、荷物が多い車内の方がなんかワクワクするよね。僕だけかもしれないけど。

「よし、買い出しはこれで終わりだ。次は鍛冶屋に行くぞ」

 鍛冶屋。その言葉の響きに多少の浪漫ロマンは感じる。だけど僕には関係ないことだ。剣術はできないし、何より僕は剣士より魔法使いを選んだからだ。

 鍛冶屋と聞くと、マリーのソワソワは極限に到達していた。彼女の足元はガタガタと揺れ始めている。貧乏ゆすりである。こんなマリーは珍しい。

 鍛冶屋で何かあるのだろうか。そう思いながらも、なんとなく面白いので、マリーを観察するだけにとどめた。そして、街に入って結構な距離を進み、細路地に至ると馬車が止まった。

 荷台を下りて、店を見上げる。子供だからかなり大きな店に見えるけど、普通の店だ。四人全員が入っても問題ないくらいには広い。看板には剣と盾らしきイラストがあり、『鍛冶屋グラスト』と書かれている。

 父さんが中へ入ると僕たちも続いた。内部には多種多様な武器防具が飾られていた。剣、やりおのつち、盾、鎧、ほかにも色々。魔法に関するものがないかと探ってみたけど、やはりなかった。

「あー、いらっしゃ……あんだよ、ガウェインか」

 気怠そうに出てきたのは父さんと同年代くらいの男性だった。短髪の男性は僕たちを見つけると、嘆息する。細身だけど、身体は引き締まっていた。

「なんだとはたいした言い草だな。グラスト。お得意様だろう」

「あー、そうだな。悪い悪い。あれだな、注文の品を取りに来たんだろ?」

「ああ。できているな?」

「上等なの作ってやったぜ。嬢ちゃんの剣だしな。おっと、自己紹介が遅れたな。俺はグラスト、こいつ……あー、おまえたちの父さんの、友達みたいなもんだ」

「こ、こんにちは。マリアンヌです」

「こんにちは。僕はシオンです」

 僕とマリーが挨拶すると、隣で母さんが嬉しそうに笑った。グラストさんはうんうんと頷き、父さんに向かって言う。

「おまえの子供とは思えないくらい礼儀正しいな、おい」

「殴るぞ」

「やめろ。おまえの拳はマジで痛いから。っと、ちょっと剣とってくらぁ、待っててくれ」

 言うや否や奥へ行くと、すぐにグラストさんは戻ってきた。手には小さい剣が握られている。マリーの剣みたいだ。

「ほらよ。子供用に刀身を短くして、重量も軽くしてある。扱いやすいと思うぜ。さやには装飾を施してあるから、かなりお洒落しゃれなはずだ」

 マリーは父さんをいちべつする。父さんが頷くと、マリーはグラストさんから剣を受け取った。

 鞘には一部、宝石のようなものがあしらわれていた。鞘の表面には綺麗な模様が描かれており、貴族が持っていそうな剣だ。安物とは思えない見た目だった。

 マリーが剣を抜くと、刀身が見える。

 なるほど、確かに短い。わきざしよりもさらに短いかも。それでもギリギリ長剣程度の長さだ。しかしかなりの業物なのではないだろうか。素人目にも切れ味はよさそうだった。

 マリーは剣を再び鞘に戻すと、グラストさんに一礼した。

「あ、ありがとうございます」

「いいさ。金はもらってるし。ただ結構、本腰入れて作ったからよ、頑丈だし、滅茶苦茶斬れる。扱いには気をつけな。嬢ちゃんくらいの年齢で自分の剣を持つ子供は多くねぇ。買い与えたってことは、それだけ嬢ちゃんを信頼してるってことだ。その信頼を裏切らねぇようにしな」

 言葉遣いは荒いが、そこには間違いなくマリーへの想いが込められていた。会ったのは今日が初めてだけど、父さんから話を聞いているのだろう。

 グラストさんからすれば、僕たちはおいめいみたいな感じなのかな。グラストさんの言葉を受けて、マリーはぐっと唇を引き締めて、真剣な顔をした。

 マリーは真面目だからな。間違いなく、信頼を裏切るようなことはしないだろう。

「しっかし、あのガウェインが子供を作るとはなぁ……いまだに信じられねぇよ」

「おい、グラスト。余計なことを言うなよ」

「え? 若い時はほうとう息子で、世界中を旅するとかわけわからんことに俺を巻き込んで、その旅の途中で出会ったエマちゃんに一目ぼれして、リスティア国へ住むようになったとかか?」

「グ、グラスト! お、おまえ、しゃべれないようにしてやろうか!」

「やー、こわいー、やーめーてー、子供が見てるのー」

 青筋を立てる父さんと、棒読みで助けを呼ぶグラストさん。二人の関係はかなり深いようだ。

 なんとなくうらやましく思うと同時に、父さんもこういう顔をするんだなと、なんだか嬉しくなった。

 しばらくして父さんは我に返り、僕たちを見ると、せきばらいをして佇まいを整えた。まだ父さんの顔は赤いし、後ろでは母さんがクスクス笑っているけど。

「と、とにかく、ま、また来るからな! それと、たまにはウチに来い。仕事ばかりしてるんじゃないぞ」

「誘いはありがてぇけどな、案外繁盛してんだよ。修理とか相談に来るお得意さんもいるしよ」

「誰か雇えばいいだろう? 金はあると言っていたじゃないか」

「まあな。でも、店を大きくするために使いてぇんだよ。それまでは一人でやろうかと思ってよ。ま、なんとか回ってるし、現状、問題はねぇよ。休むのが難しいってだけで。それに、おまえが会いに来てくれるから、いいだろ?」

「……たまにだがな。まあいい。また来る。これからは時々、子供たちも連れてこよう」

「お、そうか。へへ、次は息子の方か。あー、じゃなくてシオンだったな。おまえも剣術習ってんだよな?」

「一応習ってはいたんですが、向いてないので別のところで頑張ろうかと思ってます」

「そうか。まっ、親と子供は別だ。親が得意なことが子供も得意とは限らねぇ。自分にできること、できないこと、したいこと、したくないこと。この四つだけ気をつけて生きりゃ、それなりに楽しく過ごせるだろうよ」

「好きなことを仕事にしている人間の言葉は重いな」

 子供のような笑顔を浮かべるグラストさんを見て、父さんは呆れたように笑った。

「へっ、これでも大変なんだぜ。色々とな。まあ、楽しいけどよ」

「おまえの次の夢、店を大きくした際には花の一つでも贈ってやろう。では私たちは行く。邪魔したな、グラスト」

「おう。また来いよ!」

 ぶんぶんと手を振るグラストさんに向かって、僕とマリーも手を振った。店を出て、馬車に乗ると、情景が流れ出す。

「良い人だったね、グラストさん」

「悪い奴ではないな。ただ、やや言動が荒いが」

「あら、あなたも昔は同じようなものだったわよ」

「そ、そうだったか? む、昔のことは忘れたな」

 楽しそうに笑う母さんの横で、父さんは視線を逸らしていた。二人にも色々とあったようだ。あまり踏み込むつもりはないけれど。

 僕の隣ではマリーが嬉しそうに剣を抱えていた。

「よかったね。姉さんがソワソワしていたのは、剣が貰えるからだったんだね」

「え、ええ。まあ、そうよ。ドキドキして落ち着かなかったわ。誕生日が近いし、剣を買ってくれるってお父様に言われたの」

「でも、どうして隠してたの? 別に普通に言えばよかったのに」

「隠してたっていうか……ほら、シオンは何も貰えないのにあたしだけが貰うから、ちょっと悪いなって思ってたのよ」

「誕生日の品でしょ? それに僕は弟だし、剣が欲しいとは思わないし。別に姉さんが気にする必要はないのに」

「……シオンはもうちょっとわがままになっていいと思うわ」

「わがままだよ。姉さんに、色々と付き合ってもらってるでしょ」

「そういうのじゃないのよね」

 じゃあ、どういうのなんだろうか。ああ、そうか、物をねだれってことか。そういえば、何か頼んで買ってもらったことってないかも。マリーはお菓子とか服とか剣とか買ってもらったりしているけど。

 僕はないな。だって欲しいものないし。魔法関連の何かがあれば欲しいんだけどな。存在しないものを望んでも、手に入るわけもない。

「シオンは何か欲しいものはないのか? 高価なものは無理だが少しなら何か買ってやるぞ?」

「ううん、欲しいものはないし、いいよ」

 僕が即答すると、父さんと母さんは顔を見合わせる。

「本当にいいのか? 別に遠慮はいらんぞ?」

 父さんはマリーと同じように僕のことを気にかけてくれているようだ。やっぱり、僕が何も欲しがらないからだろうか。でもなぁ、本当に欲しいものなんてないし。

 もう一度、断ろうと思った時、僕は遠くの方に何かを見つけた。それが何かはすぐにはわからなかった。けれど、視線を奪ったその店は、僕の興味も一気に奪った。

「あの、あそこは?」

 僕が指差した先に、三人の視線が移る。反応は三者三様だった。

 マリーはきょとんとして、母さんは困ったようにして、父さんは顔をしかめていた。

「あそこは……シオンが知らなくていい場所だ」

 その店の看板には大きく『妖精屋』と書かれている。なぜかその文言を目にした瞬間、僕は不穏な空気を感じ取った。それは馬車の中にも漂っていた。

 父さんと母さんは、何やら妖精屋を忌避しているように見えた。

 もしかして妖精を売っている店なんだろうか。以前、父さんが妖精の話をしている時に、調達する人がいると言っていたことを思い出す。

 妖精は生物かあるいは現象に近いものと思われているらしいけど、わからないことが多いとか。僕にはこの程度の知識しかない。でもそれだけでもある程度の予想はできる。

 妖精は人の形をしている。それを調達する人間がいる。そして……それを買う人がいる。人の形をした何かを買い、飼う。それはペットのように扱うということ。

 この世界に愛玩動物がいるかどうかはまだ知らないけど、そのペットが人の形をしているというだけで、受け入れられない人も多いだろう。

「ごめん。ちょっと気になっただけだから、気にしなくていいよ。帰ろう?」

 僕はただ、困らせたくなかっただけだった。でも僕のその言葉は、両親の困惑を解消することはなかったようだった。むしろ、少し悲しそうな顔をさせてしまったくらいだ。聞き分けが良すぎたか。でもそう言うしかなかった。

 どこか気まずい雰囲気の中で馬車は通りを進んだ。

 僕は妖精屋を一瞥した。店からは裕福そうな親子が出てきて、子供は鳥かごを手にしていた。中には小さな人型の何かが入っていた。なぜかその光景が目に焼きついた。

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