この異世界には魔法がない

 最初の半年はつらかった。なんせ身体がまともに動かないし話せない。すべてにおいて誰かに世話をしてもらわなければならなかったのだ。思い出すだけで嫌になるところもあるので、詳しいことは割愛させてほしい。

 大体は寝ている。ぼーっと天井を見つめるだけのお仕事だ。退屈だった。でも未来に思いをせていたため、苦痛ではなかった。歳を重ねればできることが増える。そうすればいずれ魔法のことを知るだろう。

 ああ、楽しみだ。楽しみすぎて、おしっこ漏らしちゃった。ごめんなさい、母さん。

「あらあら、シオンちゃん。おしっこしちゃったのね、おむつ、替えましょうねぇ」

 柔和な笑みを浮かべる美しい女性が、僕の母親のエマさんだ。エマさんが動く度に、手入れの行き届いた茶色の髪が揺れていた。

 僕はシオンという名前だ。女性っぽく聞こえなくもないが、男である。

 正直、彼女をなんと呼べばいいのか悩んだが、こっちの世界の母親であることは間違いない。母さんかエマさんと心の中で呼ぶことにした。まあ話せるようになっても、実際には名前で呼ぶことなんてないと思うけど。

 エマさんはニコニコしながら、僕のおむつを替えてくれた。

 ちなみにおむつといっても、普通の下着みたいなものだ。あまり厚みがあっても通気性が悪くて蒸れるので、しょうがないらしい。

 おむつ替えを終えると、エマさんは僕を抱きかかえる。

「うーん、シオンは静かな子ねぇ。マリーとは大違いだわ」

 少し心配そうにしながらエマさんは僕を見下ろしていた。確かに僕は泣かないし、あまり笑わない。だってさ、ばーっとか言いながら変顔されても笑えないんだ。三十歳のおっさんの笑いの沸点はそこまで低くないよ。

 愛想笑いを浮かべてはいるけど、周りからはなんだこいつ、みたいな顔をされる。そんなこともあって、僕は無理に笑わないようにしている。

 エマさんがよしよしと言いながら、僕を優しく揺する。

 心地よい揺れが眠気を誘ったが、それをけたたましい音が遮った。

「おかあさ!」

 扉を開けたのは、小さな女の子だった。といっても、現在、一歳の僕よりは年上だ。

 彼女はマリアンヌ。愛称はマリー。僕の姉だ。三歳で、かなりやんちゃな女の子。癖が強いためか、肩まで伸びているあかだいだいの髪はうねうねしている。比較的れいにしているのだが、動きや仕草がそれをすべて台無しにしていた。

 彼女はどかどかと床を踏み鳴らし、僕たちのもとへやってきた。

「あらあらどうしたの、マリー」

「おかあさ! あたしも抱っこする!」

 お断りさせていただきます。君に持たせたら、絶対落とすでしょ。赤ん坊からしたら、少しの高さから落ちるだけでも危ない。やめてください、本当に。

 おおらかなエマさんもさすがに、マリーの要求には困っていた。

 おい、うーん、じゃないよ。断ってよ!

 僕は内心、冷や冷やしながら動向を見守った。

 マリーは「ねぇねぇ! おねがい!」と言いながら、エマさんのスカートを引っ張っている。

「ごめんなさいねぇ、まだマリーには無理かしら」

「そんなことないもん! あたしもできるよ!」

 子供は何でもできるって言うものなの! 君にはできないの!

「そうかしらねぇ」

「そうだよ!」

 そうじゃないよ! やめて、ほんと! 魔法を使うまで死にたくない! せっかく異世界に転生したのに、姉に落とされて死亡なんて最悪な結末、絶対に嫌だ!

「う────ん、やっぱり、ごめんね」

「う、ううっ、だ、抱っこするの! あたしがするの!」

 泣き出した。感情を抑えきれずに、エマさんのスカートをぐいぐい引っ張っている。

「だ、だめよぉ。危ないものね」

「あううぅっ! うわああ! 抱っこするぅ! ずるぅっ!」

 子供が泣きだしたらなかなか泣きやまない。子供はわがままなのだ。

 部屋中に泣き声が響く。

 エマさんはおろおろとしながらも、僕をベッドに寝かせて、マリーと話し始めた。

「マリーちゃん。お姉ちゃんなんだから、わがまま言っちゃダメよぉ」

「ずるぅ、抱っこずるぅ! ずるぅ!」

 辛抱強く、エマさんはマリーに言い聞かせていた。すごい忍耐力だな。僕だったら無理だ。

 数十分そうして、ようやく泣きやんだマリーを前に、エマさんはにこっと笑う。

「マリーちゃんはシオンちゃんと遊びたかったのね」

「うん……」

「もう少ししたら、シオンちゃんも少しずつ話せたり、動けたりするから、それまで待ってあげて? 赤ちゃんは守ってあげないといけないのよ。家族みんなでね」

「……みんなで?」

「そう。マリーちゃんにも協力してほしいの。お姉ちゃんだから、頼りたいの」

「お姉ちゃんだから?」

「そうよ」

 ぐしぐしと目をこすって涙をぬぐうと、マリーはにぱっと笑った。

「わかった! マリー我慢する! お姉ちゃんだもん!」

「ふふ、ありがとう。さすがお姉ちゃんね」

 よしよしとマリーの頭をでるエマさん。

 なんだか心がほっこりする瞬間を目の当たりにしたが、僕は赤子である。

 とてとてと歩き、マリーがベッドの横に来た。僕の真横に顔を寄せて、つんつんとほっぺをつついてきた。

「早くおっきくなってね、シオン」

 僕もそうしたいよ。でも今はあんまり無茶をしないでね、お姉ちゃん。

 ちょっとはらはらしながらも、僕はマリーに手を伸ばす。マリーはうれしそうに優しくその手をつかみ、にかっと笑う。その様子を、エマさんが微笑ほほえましそうに見ていた。


   ●○●○


 二年が経過するとできることが増えてくる。まず簡単な言葉を話すことができるようになる。僕自体は言葉を知っているが、この身体は滑舌が悪く、脳の回転も遅いらしい。そのためなんというか、理性的な行動全般が難しい。欲望に任せた行動は簡単にできるのに不思議だ。

 ハイハイができるようになり、二足歩行も可能になる。ちなみに最初に話した言葉は「お米」だった。食べたかったんだからしょうがない。ここにはパンしかないし。

 そうして三歳を過ぎると家中が自分の活動範囲になる。

 僕の家はかなり広かった。二階建てで、部屋数は八つ。普段使ってない部屋もあって、台所もかなり充実している。もちろん現代に比べると粗末だが、この文明レベルの世界ではかなり裕福な方だと思う。家柄がいいんだろう。どれくらいの地位なのかはまだわからないけれど。

 家を出ると中庭もある。周辺に家はないので、結構な田舎らしい。家族以外と会ったことは今のところはないけど、近くに村があるということは知っている。

 木造建築で窓ガラスはあるけど、品質は良くない。食器は基本的に陶器か木製。銀食器もあるけど数は少ない。服は欧州の中世みたいな感じだ。

 僕の髪は燃えるような赤で、マリーの赤橙色や母さんの茶色とはちょっと違う感じ。顔立ちは完全に外国人。整っている方だと思うけど、ちょっと目つきが悪いかもしれない。表情の変化に乏しいから余計に、生意気な感じに見える。

 そんなことをぼんやり考えながら、僕はマリーが中庭を駆け回っている様子を眺めていた。子供ってなんであんなに走るんだろうか。謎だ。

 玄関前の階段に座っていると、マリーがこちらに走り寄ってきた。

「シオン! 一緒にあそぼ!」

「……走るの?」

「そう! 走るの!」

 五歳にして、走ることがマイブームの僕の姉は、満面の笑みで言った。

 どうしよう。僕は元々インドア派だ。運動はあまり好きではないし、三歳にして、ちょっと老成気味だ。できるならお断りしたいが、目をキラキラさせている我が姉に言っても聞かないだろう。

 しょうがないとばかりに立ち上がると、マリーの横に並んだ。

「いくわよ! せーの!」

 二人して一斉に走り始めた。三歳の僕と五歳のマリー。体格は全く違うし、筋力も圧倒的にあちらが上だ。当然、僕が勝てるはずもなく、どんどん距離が広がる。

 マリーの背中を追って駆ける。三歳にもなれば走るくらいはできる。おぼつかないけどね。

 ぐるっと中庭を回ると、マリーが立ち止まった。

「あたしの勝ち! シオン、おっそいわよ!」

「ね、姉さんが速いんだよ」

「そう? ふふふ、まっ、お姉ちゃんだからねっ!」

 したり顔の我が姉を前に、僕は可愛かわいい奴だなと思うだけだ。

 マリーはおだてると素直に喜ぶし、嫌なことがあるとすぐに顔に出す。わかりやすい性格のようだ。子供にしてもそれが顕著だと思う。

 不意にマリーが正門の方に、ぐいっと首を動かした。

「お父様だわ!」

 何を嗅ぎつけたのか、正門に向かいダダッと走っていくマリー。

 まだ走るのかとへきえきしながらも、僕も後に続いた。

 ひづめの音が響き、金属の擦過音と共に門が開く。馬車が姿を現して、中庭を通り、玄関前で止まった。ほろがある荷台だ。今は何も積まれていない。

 御者台にはダンディなひげを生やした男性が乗っていた。彼は僕の父さんで、ガウェインという名前だ。マリーと同じ、赤橙の髪色をしている。髪はやや短めに切りそろえられていて紳士的な見目だ。

 父さんが馬車から降りてくると、マリーが飛びついた。

「おかえりなさい!」

「はっはっは、ただいま、マリー。相変わらず元気だな」

「うんっ! マリーね、髪の色と同じでお日様みたいに元気だね、って言われるの!」

「そうかそうか。はははっ!」

 父さんは嬉しそうに笑い、マリーの頭を撫でる。

 するとマリーは嬉しそうに目を細めた。猫みたいだな。

 僕はといえば、近くでたたずんだまま二人の様子を眺めている。さすがに抱きつくのは抵抗がある。というかそんなのできないでしょ、僕三十歳過ぎのおっさんだし。

 父さんはマリーを抱きかかえながら僕の前までやってくる。

「おかえりなさい、父さん」

「ただいま、シオン。相変わらず、しっかりしているな」

「そんなことないよ。姉さんの方がしっかりしてるよ」

 よいしょである。我が姉は、したり顔で鼻息を荒くしていた。

「さて、お父さんは馬車を直してくるな」

 父さんは馬車に乗って、庭の端にあるきゅうしゃに移動していった。

 父さんがどんな仕事をしているのか、具体的にはわからない。他にも僕が知らないことは山ほどある。この世界のことも、魔法のことも。

 そろそろ色々と知りたい。ある程度は自由に動けるし、話せるようにもなった。それに『年齢の割に、かなり落ち着いている』という印象を与えることにも成功している。これならばある程度、大人びたことをしても疑問を持たれないだろう。まだ三歳なので限界はあるけれど。

 魔法やこの世界のことを調べるにはやや早いかもしれないが、そろそろ我慢の限界でもある。生まれて間もなく、いきなり魔法のことを話したりしたら、いぶかしがられると思ったので、今まで黙っていた。今日から少しずつ、聞くとしよう。


   ●○●○


 僕たち、家族四人は食卓についていた。テーブルの上には皿が並んでいる。

 この世界の食事は簡素だ。大体は硬いパンとスープがあり、後は肉か魚があるくらい。多少のバリエーションはあっても、ほぼ同じようなラインナップだ。かなり飽きる。でもぜいたくは言えない。

 さて食事も終わったし、そろそろ話を聞こうかな。

「あの、父さんってどんなお仕事をしてるの?」

「ふむ、まだ話していなかったな。丁度いい。マリーにも、きちんと話しておかないといけないからな」

 マリーにも話していなかったらしい。

 横目でマリーを見ると、お腹一杯だぁ、といった顔をしている。この姉ならば、話をまともに聞きそうにないし、しょうがないかもしれない。五歳って、こんなもんなんだろうか。

「マリー聞きたい! よくわかんないけど!」

「僕も聞きたい」

 僕とマリーが言うと父さんはおうよううなずいた。

「マリー、シオン。私たちはね、下級貴族と言われる、この辺りを統治している領主なんだ」

 おっと、最初でいきなりつまずいたぞ。我が姉は目をパチパチとしているだけで、明らかに理解していない。

「あなた。それじゃわからないわ。もっと柔らかく言わないと」

「近くに住んでいる人たちのお世話をしてあげるお仕事ってことだよね?」

 僕が言うと、父さんも母さんも驚いたように目を見開いていた。

「あ、ああ、そうだ。シオンは賢いな」

「うふふ、将来有望ね」

「あ、あたしもわかるもん!」

 両親が僕を褒めるとマリーが負けじと声を上げる。別に褒められたくて言ったわけじゃないけど。

「ふふ、そうね。マリーも賢いわ。でも、今はお父様のお話を聞きましょうね」

「むっ! わ、わかったよぉ」

 明らかに不満顔だったが、マリーは口を閉じた。

「シオンが言った通り、近辺に住む人たちの世話をするのが、私の仕事だ。その人たちを領民、私の立場を領主と呼ぶわけだ。具体的には、領民が困っていたら助けたり、お金をもらって、国に渡したりする。貴族というのは、何と言えばいいか……ほんのちょっとだけ偉い人、だな。下級貴族は貴族の中でも一番下の、ちょっとだけ偉い人だ」

 マリーは、うんうんと頷きながら理解しようとしていた。ただ横顔を見ると、よくわかっていないことはわかった。

「父さんは領主なのに、いつも馬車でどこに行ってるの?」

「ああ、あれは領民の様子を見に行ったり、ついでに作物やらの運搬や、人の移動を手伝ったりしている。あとは買い出しだな。馬車を持っている人はあまりいないからだ。実際に村の様子を見ないとわからないことも多いし、私兵がいなくてな。部下らしい部下もいない。だから私が直接、視察しているわけだ。それに私はえき労働を廃止しようとしている。そのため、この地にはそういう農民はいない。その分、労働力が足りないし、比較的自由に動ける私が……」

 父さんはそこまで話して、はたと気づいた。

 僕の隣に座っているマリーがあんぐりと口を開けている。

 父さんは母さんにジト目を向けられ、こほんとせきをすると姿勢を正した。

「父さんは色々と、頑張ってるんだ!」

 はしょったな。しかしその言葉はマリーには適した言葉だったらしく、我に返ったようだった。

「なるほど! お父様は、すごいのね!」

「あ、あはは、そうだな。そうかもしれないな!」

 あはは、うふふと笑い合うだんらんの空間だったが、僕は諦めたように笑った。話が進まない。

 とにかく我が家は下級貴族で、ある程度裕福であるということはわかった。

 賦役労働って確か、農民とかの階級に対して、無給で働かせることだったっけか。もちろん、彼らには普通の仕事があるのにだ。それ以外の仕事をタダでやらせるというブラック思考の経営だ。

 父さんはその体制を是正しようとしているわけだ。タダで労働力を得る機会を手放しているのに、僕たちの生活は豊かなのだから、父さんはかなり優秀みたいだ。領民たちもしっかりした生活をしているんじゃないだろうか。

 さてもういいだろう。いいよね。我慢の限界だし。もう無理。

 僕ははやる思いを抑えきれずに口を開いた。

「あ、あの、父さん。他にも聞きたいことがあるんだけど……ま、魔物っている?」

「いるな。だからまだ外に出てはいけないぞ。お母さんから出るなと言われていると思うが、それは魔物が危険だからだ。人を襲うし、命が危ない。近づいてはいけない。もしも見たら、すぐに逃げて大人に助けを求めるようにしなさい」

 いるんだ! 魔物がいるんだ! っていうか魔物がいるから外に出ちゃいけなかったのか! 初めて聞いたよ! もっと早く教えてほしかったけど。

 僕はこうよう感を抱きつつ、身体が期待に打ち震えていることに気づいた。なんか緊張してきた。汗がにじんできた。心臓がすごくうるさい。でも、踏み出したからには進むしかない。というか進みたい。

「妖精とか、精霊とかいたりなんかして?」

「いるな。精霊は聞いたことがないが、妖精は確かにいる。希少だし、なかなか遭遇しないが。専門の調達業者はいるな。確か小さな人型の生物、いや、生物なのかどうかもまだわかってないとか。突然消えたり、現れたり、不思議な力を持っていると聞いたが」

 いるんだ! 妖精や精霊がいるんなら、もう確定だよね!

 何やら戸惑っている様子の父さんと母さん。

 隣のマリーは僕や両親を交互に見て、状況を理解していない様子。

 僕も前後不覚になって、状況がわかっていない。早く質問しよう。本題だ。

「じゃ、じゃあ、ま、ま、ま……魔法は!? 魔法はあるの!?」

 思わず僕は椅子に立って、そのまま身を乗り出した。テーブルに両手をつき、顔を突き出して、父さんの顔を見つめる。あまりの勢いに、父さんはうろたえていた。

「ま、魔法?」

「そう! 魔法! 火とか水とか風とか光とか、色んなものを出したりする魔法!」

 父さんは母さんと顔を見合わせる。困惑していることはわかった。自分が何かまずいことを言ったんじゃないかということも。でも止められなかったのだ。だってずっと我慢していたのだ。この三年間。いや、三十年間以上も。

「ないな」

「ない……?」

 現実は無慈悲だった。父さんは困ったように首を振る。その様子が、ゆっくりに感じられた。

 え? ないの? 魔法が?

「魔法という言葉も聞いたことがない」

「……そ、それはお父さんが聞いたことがない、ということではなく?」

「私が知らないこともあるだろう。だが、私もそれなりに教養がある。少なくとも魔法なんてものは一般的には知られていないし、そんな話は聞いたこともない」

 父さんは貴族。この文明レベルならば、貴族は多少の教育を受けているはず。平民ではそうはいかないだろうが、貴族ならば勉強する機会が与えられる。つまり貴族はこの世界ではかなりの識者であるということ。

 もちろん専門的なことは知らないだろう。だが、もしも魔法が存在するのであれば、そういう能力や現象があるという程度のことは知っているはずだ。けれど父さんは知らない。ということは本当に魔法が存在しない?

 うそだろ。嘘だよな。じゃあ、どうして僕はここにいるんだ。

 僕が転生したのは、ただの偶然なのか。僕が純粋に魔法を使いたいと望み続けていたから、そのご褒美だと思っていたのに。それは勘違いだったのだ。僕は何の意味もなく、ただ魔法の存在しない世界に転生しただけだったのだ。

 僕は落胆し、椅子に座った。

「シオン。魔物や妖精、その魔法とやらをどこで知ったんだ? エマは話していないはずだが」

「え、ええ。話してない、と思うけれど……」

 三歳の子供。しかもほとんど外に出ていない子供が、知っているはずがない。この家には本がない。そもそもこの世界に本がどのくらいあるのかもわからないけれど。だから外の情報は母さんか父さんからしか得られない。その二人が知らない言葉を知っている。その二人が話していないことを知っている。そこに疑問を持たないはずがない。

「シオン。どこで話を聞いたんだ? 話しなさい。大人と話したのか? お母さんがいない時に、誰かが来たんじゃないのか? どんな人だった? 男か女か?」

 いつもと違い、厳しい口調だった。僕は強い落胆の中で、まともに頭が働かない。

 母さんも父さんも話していないのに、外の世界の情報を知っているということは、別の誰かから聞いたんじゃないかと思ったのだろう。

 僕は答える気力を持てず、ぼうぜんとしてしまう。

 父さんが焦り始めていた。話せないことなのかと思ったんだろう。それが手に取るようにわかって、申し訳ない気持ちを抱きつつも、心は項垂うなだれたままだった。

 なおも、父さんが詰問しようとした時、パンという乾いた音が聞こえた。母さんが手をたたいたようだった。

「思い出したわよぉ。わたしが、外には魔物がいて危ないって話したんだったわぁ。それに妖精のことも、何かの拍子に話したかもしれないわね」

「魔法とやらは?」

「さあ? 子供の言うことなんて、大人にはわからないもの。子供はおかしなことを言うものよ。夢にでも出てきたのかもしれないわね。いつもわたしと一緒にいるんだもの。他の人と話したなんてことはないわよ」

 半分は本当で半分は嘘だ。母さんは僕をかばってくれたらしい。

 でも、実際、僕が他人と話すような機会はないし、母さんからすれば問題はないと思ってのことかもしれない。それでもありがたかった。

「……そうか。ならいいんだが」

 父さんは心配そうに僕を見ていた。そう、心配していたのだ。威圧的に感じたけれど、それは僕のことを思っての行動だ。それに胸を痛めはしても、言葉にはならない。

「ささっ! そろそろお片づけしましょう!」

 母さんは食器を片づけ始める。

 僕はうつむいたまま、食卓を離れた。隣にいたマリーはおろおろとして、僕の後についてくる。居間を出て、自分の部屋に向かう最中、マリーはおずおずと言った。

「シオン、大丈夫……?」

「え?」

「顔色悪いから……お腹痛いの?」

 言われて、少しだけ感覚が戻ってきた。鏡がないのでわからないけれど、僕の顔は青白いらしい。

 ショックだった。魔法がないなんて。魔法を使うことだけが楽しみだったのに。

「……ううん、大丈夫」

「そ、そっか」

 マリーはそれ以上何も言わず、僕の隣を歩いていた。

 気遣いが伝わる。五歳の女の子が、僕を心配している。その気持ちを理解しつつも、僕は元気な姿を見せることができなかった。

 だってこの異世界には魔法がないんだから。


   ●○●○


 それからの三年間。僕は異世界について勉強することにした。

 まず文字の読み書きを覚えた。この世界の言葉は日本語だ。というか日本語に聞こえる。だが文字はこの世界のもので、新たに覚える必要があった。マリーは五歳から始めたらしいが、僕は三歳から始めることにした。母さんに頼み込んで教えてもらったのだ。

 基本的に勉強は母さんが教えてくれるようだった。

 我が家、オーンスタイン家の血脈は長くつながっており、比較的に歴史がある家柄らしい。父さんも母さんも貴族として教育を施されているため、僕たちに色々なことを教えてくれていた。

 子供の身体だからか記憶力がよく、半年で簡単な読み書きは覚えた。マリーはまだ時間がかかりそうだったけど、僕は大人の記憶もあるため効率よく学習ができた。

 読み書き以外には一般教養を学んだ。生活に必要な知識を吸収するためだ。貨幣制度、簡単な法律、地理や歴史などが主だ。

 オーンスタイン家は、リスティア国の西部にあるエッテン地方に位置しているらしい。田舎のため、人口は少ない。その分、領地は広く、農業には向いているようだ。田舎だが一応、近くにはそれなりに大きい都市が一つだけある。まだ行ったことはない。父さんが許可してくれないからだ。危ないとかなんとか。

 とにかく家の中で知ることのできるものはできるだけ勉強した。そして知った。

 この世界には、やはり魔法が存在しないということを。魔法という言葉自体がないということを。

 父さんや母さんが知らないだけ、ということに望みをかけた。その可能性はある。世界は広いし、二人が知らない場所に魔法がある可能性もある。でも、それは考えにくいだろう。父さんは別の国の出で、しかも若い頃に各国を渡り歩いた経験があるらしい。その上で、魔法というものはどこの国にもないと言われたのだ。

 三年間、僕は必死だった。勉強した。行動した。それは執着だったと思う。諦められなかったのだ。魔法がないなんて、思いたくなかったのだ。でもわかってしまった。

 この世界には魔法はない。存在しないということを。

 それらしい情報もなかった。日に日に、少しずつ理解させられてしまう。

 そして六歳にして、僕は生きる目標を失ってしまった。

 もしも日本でまだ生きていたなら、漫然と生きて、人並みの幸せを見つけようとしたかもしれない。だって、僕は別に後悔していたわけじゃないんだ。ただ魔法のない人生に落胆していただけだ。

 でも僕は転生してしまった。異世界に転生して希望を持ってしまった。魔法が使えるかもしれないと思ったのだ。それが打ち砕かれた。二度も。

 僕には過去の記憶がある。子供の姿になっても、大人だった時の記憶があり、形成した人格はなくならない。結局僕は、僕のまま。夢想家の僕のままだった。

 この世界に魔法がないと理解してしまってから、僕は無気力になってしまった。何もやる気がなくなり、気がつけばぼーっとしており、表情も乏しくなった。

 会話も自分からはしない。

 今も、中庭で走る姉を見守るだけだ。

 八歳になっても同じことしてるな、この姉は。肉体的には成長しているはずなんだけど。

 僕も三年でかなり背が伸びた。身体も思うように動くようになっているし、身体能力も上がっている。でもそれがなんだというのか。そんなことに喜びを感じない。不便じゃなくなったな、程度のことだ。

「うおおお! よいしょおお!」

 姉は元気だ。叫びながら走り回り、最近では木剣を持って、素振りをしたりしている。どうやらマリーのマイブームは剣術らしい。女の子でも剣術が扱えた方がいざという時に助かるかもしれない、と思ったらしい父さんが、たまに手ほどきをしているようだ。

 女の子はおしとやかに、という世界ではないのだろうか。それとも父さんがそういう考え方をしているだけなんだろうか。

「はあはあ、あー、疲れた!」

 かなりの時間を走っていたマリーは、荒い息を整えながら僕の前まで移動してきた。

 もうマリーは八歳だ。僕は六歳。子供ではあるけれど、ただ走り回るばかりの年齢ではないと思う。だというのにマリーはずっと同じように走っている。剣を握っても走ることはやめない。

 しかし、どうしてそうも走るのかと聞いたことはない。だって子供だから、って理由で済むから。

 でもさすがに疑問を持ち始めていた。彼女はどうしてずっと走っているのか。どうして同じことを繰り返しているのか。それが楽しいのか。最近はそんなことを考えている。

 小さい頃に比べて、マリーの外見はかなり変わっている。女の子の成長は早い。まだ身長は百三十センチくらいだけど、女の子とわかるような成長をしている。

 スカート姿なので、たまに脚がのぞく。色気はないが、女の子らしさはあった。おしとやかにしなさいと言う両親だったら間違いなく怒られていただろう。

 ウチの両親は子供のことをよく見ているし、寛大だ。だからあまり怒るようなことはない。ただ、無茶をしたり怪我をしたり、誰かを傷つけたりしたら烈火の如く怒る。

「よいしょっと」

 マリーは僕の横に座って空を見上げている。それだけだ。彼女は何も言わない。僕が何を考えているのか、何を悩んでいるのか、聞いてきたことはない。

 それは両親も同じだ。ただ普通に接してくれている。

 この年齢の子供はわがままだし、かなり無茶をするという話も聞く。長男や長女は自己中心的な行動をとり、弟や妹はいじめられるのも常だ。けれど僕にはそんなことは一切なかった。

 僕はマリーの横顔を眺めた。整った顔立ちをしている。勝ち気で快活な彼女は、どこか勇ましくしい。僕にはないものをマリーは沢山持っている。

「ねぇ、姉さんはどうして、そんなに走ってるの?」

 マリーはうーんと唇をとがらせていた。何かを考えながら首をかしげていたが、やがて口を開く。

「お姉ちゃんだからねぇ」

「……よくわからないんだけど」

「うーん、ほら、何かあった時のために鍛えてるのよ」

 要領を得ない。走っている、剣術を学んでいる。その理由が何かあった時のため、ならばわかる。でもお姉ちゃんだから、という部分とは繋がっていないような気がする。

 マリーは会話が下手なわけではないけど、要点しか話さない時がある。彼女は勉強が苦手だけど、頭が悪いわけじゃない。

「何かあった時のため?」

「そう。魔物が出た時とか、悪い人が来た時、戦えた方がいいじゃない? あたしはそういうの得意みたいだし」

「それがなんでお姉ちゃんだから、なの?」

「そんなの、あんたを守るために決まってるじゃない」

「え?」

 寝耳に水だった。予想もしてなかった答えに、僕はただただ困惑した。

「あたしお姉ちゃんだもん。シオンに何かあった時のために強くなってないと困るじゃない?」

「僕の、ため?」

「そうよ。まっ、苦しかったりするけど、嫌じゃないし」

 マリーは当たり前のことでしょ、というように空を見上げながら言う。

「あたし、頭はあんまりよくないけど、身体を動かすのは得意だからね。こういうことしかできないけれど」

「じゃあ、姉さんは、ずっとそのために走って、鍛えてたの?」

「そうよ?」

 あっけらかんとしている。恩に着せるでも、自慢するでもなく、ただ当たり前のように言った。

 その自然な言動に、僕は言葉を失った。彼女の思い。その純粋さに何も言えなくなった。その思いの先に僕がいて、マリーは僕のために努力していたということ。それが嬉しかった。

 同時に、申し訳なく思った。僕はずっと僕のことばかり考えていた。それなのにマリーは僕のことを考えて頑張ってくれていた。

 両親もそうだ。いつも僕を気遣ってくれていた。心配してくれていた。

 でも僕は? 僕は自分のことしか考えてない。周りに心配をかけて、甘えていた。

 こんな小さい子が、僕のために頑張っていたのに。

 小さい体だ。でもとても大きく見えた。

 ちらっとマリーが僕をいちべつする。何か考えている様子だったが、立ち上がると、僕に手を差し伸べてきた。

「行きたいところがあるの。ついてきて」

「でも、母さんがあまり遠くに行っちゃダメって」

「大丈夫。近くだから。それに魔物がいない場所だしね」

 僕は戸惑いながらマリーの手を握る。

 この姉はいつも突拍子がない。ほんろうされることも多いが、それが嫌ではなかった。

 中庭を通って、外へ行く。家の外には草原と森が広がっている。

 マリーは道を進み、しばらくすると迷いなく森の中に入った。森に入ると、視界は木々に埋め尽くされた。

 僕は森の中にほとんど入ったことがない。大体は道なりに街道を進むからだ。しかしマリーは恐れなく、ずんずん進んでいった。見知った道なのだろう。頼もしい背中だ。相手は八歳なんだけど。

 しばらく歩くと、視界が開ける。そこにあったのは湖だった。

「少し待ちましょう。夕方になれば見えるわ」

 何がとは聞かなかった。なんとなく聞くのがはばかられたからだ。

 ここから家まで十数分もあれば着く。夕方になって帰路についても夜になる前に辿たどり着くだろうけど、母さんには何も言わずに来てしまった。

「母さんに怒られないかな?」

「怒られるかもね。でもその価値があると思うわよ。多分」

 不安ではあった。怒られたくないのではなく、心配をかけるからだ。ただマリーの真剣な横顔を見ては、それも言えなかった。

 彼女はじっと湖を眺めて、目を離さない。

 僕はマリーの横に座ってじっと時を待った。湖畔から湖を眺めるだけの時間が過ぎて、夕方になっていく。何があるのかという疑問は氷解しないまま、空は赤く染まりつつあった。

 そろそろ帰ろうと言おうとした時、マリーが身を乗り出した。

「ほら、見て!」

 マリーが指差す先に視線を移す。

 湖には変化がなかったはずだった。しかし水面に何か違和感があった。何かが動いている。

 それが一つ、二つ、三つと増えていき、やがて水面から浮かび上がった。水の中から空へ立ち上るそれは『光の玉』だった。

 湖の中で生まれて、空へ浮かぶ。

 徐々に消え、また水の中からそれは生まれた。

 幻想的だった。そして非現実的だった。こんな現象は現実にはないはずだ。でも存在している。光の玉は湖中に現れ、風景を彩る。美しいという言葉以外に浮かばない。

 あっにとられていると、マリーが言葉を発した。

「夕方前になると、こうやって光の玉が現れるの。なぜかは知らないけれど」

「と、父さんたちは知っているの?」

「話したことはあるわ。それで連れてきたこともあったんだけど、不思議と見えなかったのよね。だからちょっと不安だった。シオンにも見えないんじゃないかって」

「大人には見えないのかな……?」

「ううん、子供でも見えない子もいたわよ。見える子は一人だけだったわ。それに、見え方も違うみたい。あたしにはまたたいて見えるけど、その子にはちゃんとした光に見えたみたい」

 ちなみに僕には友達がいない。家からほとんど出ないし、出る必要もないからだ。マリーは頻繁に外に行っており、村の子供と遊ぶこともあるらしいけど。

 僕は光を見た。はっきりと色濃く見えている。これは一体、何なんだろうか。

「不思議だね」

「そうね、不思議。でも『魔法』みたいじゃない?」

「魔法……?」

「そうよ。あんたが言ったんでしょ。光とかそういうのを生み出すとかなんとか。ほら、それっぽいでしょ?」

 言われてみると、そうかもしれない。湖から浮かぶそれは、不可思議な現象だった。魔法と言われれば、否定はできないかもしれない。

 しかし驚きはそれだけではなかった。マリーはたった一度、三年前にした会話を覚えていたのだ。僕が父さんに魔法について尋ねた時のことを。

「覚えてたんだ」

「まあね。あたし記憶力は悪いけど、シオンのことだもん。覚えてるわよ。あれから、あんた元気なくなったしさ……なんか関係あるのかなって。それで最近この場所見つけて、連れてこようと思ったの。危ないかもしれないから、色々と調べてたらちょっと遅くなったけどね」

 見ていてくれたのだ。マリーはずっと、僕のことを。

 情けないと思った。自分を責めた。あまりにまっすぐすぎる思いに胸を打たれた。そして、たまらなくなって僕は泣いてしまった。

「ご、ごめん……姉さん……」

「なんで謝るの! なんで泣くのよ。もう! しょうがないなぁ」

 ぽんぽんと頭を軽く叩かれた。それが優しすぎて、余計に涙を促した。

 嬉しかった。こんなにも自分のことを考えてくれる人がいることが。

 マリーはそっと僕を抱きしめてくれた。子供の体温は高く、温かい。僕も同じだろう。だからこそ互いの存在が色濃くなった。情けない。僕は大人なのに。そう思うのに涙は止まらなかった。

 しばらくして、ようやく泣きやんだ僕は、恥ずかしさのあまり俯いた。マリーはそんな僕を茶化すことはなく、何も言わずに背中を撫でてくれた。本当に優しい姉だ。

「さっ、帰るわよ」

「……ありがとう、姉さん」

「お、お礼が言ってほしかったわけじゃないから……ちょっとは元気になった?」

「うん! すごく元気になった」

「そう、よかった」

 自然と手を繋ぐと、僕たちは家に向かって歩いた。

 肩越しに振り返ると、まだ湖は光で満ちていた。マリーの優しさを実感し、嬉しく思うと同時に僕は思った。

 もしかしたらまだ諦めるのは早いのかもしれない、と。

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