1558年〜1560年 天下統一へ 3

 上杉が佐渡島を資金源にしていることは義植はよくわかっていたが、それを海上封鎖するような事はしなかった。


「何故海上封鎖しないのですか?」


 鍋島が茶を点てながら聞いてくるが、同じく大坂の茶室で茶を楽しんでいた大友義鎮が答える。


「どうせ義植のことだ。利益になるのだろう?」


「まーな。純度が劣る金銀だ。買値を釣り上げてもあちらは取引してくれる商人達を斬ることができないだろう」


「で、その商人達もこちらの紐付きと···悪どいなぁ」


「天下人になったんだ。仁君でいるわけにもいかんだろ」


「越前は今地獄らしいがな」


「対謙信用に幾重もの防衛線を構築したのだ。上杉謙信がいくら強くても三方向から攻め込まれれば破綻だ」


 上杉謙信が異常な強さなのは報告が上がっていた。


 雑賀衆から鉄砲の技術と持てるだけの鉄砲を手に入れた謙信は高い高い火薬を買わされて、金銀を掘れば掘るだけ大内に流れて、策源地扱いにされていた。


 そんな苦労して買った高い弾薬は殆どを加賀一向宗に使い切ってしまい、現在は越前で盛大な射撃戦をしているが、性能で優る新政府軍が防衛戦を優位に進めていた。


 ただ鉄砲の防衛策として竹盾を導入したり、工夫を凝らしていたし、戦争の天才なので兵器の劣勢を戦術で普通に覆してくる。


 偽装撤退で釣り出したり、夜襲、朝駆け、採掘衆を使って塹壕を掘ったりと義植からしたら理不尽過ぎた。


 しかもかれこれ上杉謙信を暗殺しようと大量に刺客を送ってるのにまだ死んでないし、弾丸は全く当たらないらしいし、大砲が至近距離に着弾し落馬したのに無傷だったりと異能生命体なのではないかとか私と同じ転生者なのではないかと思い始めていたが、上杉謙信が越前に出兵している間に北条軍が北上し、信濃の新政府別動隊が越後に迫った。


 流石の上杉謙信も越前から撤退し、これで決まったかに思えたが、まさかの別動隊と北条軍の北上に時間差があるのを利用して各個撃破。


 北条軍は関東連合軍という様相で関東の国人衆を越後切り取り自由として前に出していたために上杉謙信によってそんな国人衆が根切りにされ、五万いた軍勢のうち関東に戻れたのは二万人を切る大敗をしてしまった。


 一方新政府別動隊は忍び衆のゲリラ戦に苦戦を強いられ、北上に時間がかかり、北条軍を蹴散らした上杉本隊が夜襲を仕掛けて、武器を大量に鹵獲されてしまう事態が発生した。


「楠木正成かよ。まじもんの軍神じゃねーか」


 と鹵獲した武器で再度越前に出兵し、防衛線を幾重も破られ始めると、流石の義植も策源地扱いを一変し、経済力で圧殺することにした。


 まず策源地である佐渡島を大内政府は海軍を投入して占領。


 上杉家の水軍も出てきたが、倭寇で鍛えられ、西洋の造船技術を取り入れた海軍に海の流れを読むことが長けていても、一方的に砲撃されれば敗れる。


 それに商人達に上杉家と交易する場合、食料の値を倍に、火薬類は数十倍上げるように仕向けた。


 これにより鹵獲した武器類も越前の防衛線突破に使い切り、食料不足を理由に各地で現地調達を開始。


 家臣···特に忍びへの給料未払も発生し、大内政府から忍び達に武士の地位と給金を明文化することで引き抜きをし、引き抜いた忍びや北条家の風魔勢を上杉家に残った忍びとぶつけ、忍びの能力を著しく制限した。


 そして佐渡島を前線拠点にし、海上輸送で兵を送り、がら空きの背後を大内兵で襲った。


 更に春日山城をも海上輸送で攻撃し、信濃から再び別動隊を送り、越前、加賀と海上封鎖で上杉謙信率いる本隊を包囲し、その間に佐渡島から渡った兵お信濃の別動隊で越後制圧を行い、ついでに最上家も動員させて越後を襲わせた。


 越前、加賀北部、海上と三方向から攻撃された上杉謙信は車懸りの陣で対抗。


 完全包囲下に置かれながらもほぼ同数の兵を殺し尽くし、最後は足軽達に槍で刺されて死んでいった。


 上杉謙信が亡くなった同じ頃に春日山城や越後の城も落城し、上杉家こと長尾家は滅亡。


 軍神は最後まで軍神であった。








 上杉謙信の討伐に一年を有したものの、1559年に最大の敵を倒した事で残りは消化試合。


 最上家と伊達家を除く東北の大名は日ノ本古来の武士として大陸由来の武士に負けるかと抵抗したが、十万の軍勢で押しつぶして平定。


 1560年に天下統一を宣言した。


 大内の家督継承から12年での天下統一である。


 義植はまだ30歳である


 京の大内館にて服従した大名を呼び寄せて服従宣言をさせ、今後の国内開発計画を発表した。


 結局関東三百万石の後北条家だったり、七国を有する毛利家、琉球を傀儡化した島津家(日向の伊東家が壊滅したので日向を与えられて三州統一をちゃっかりしている)、東北を二分する伊達家と最上家、蝦夷地開発で体領を得た織田家と今川家と大大名が多く居るが、とりあえず豊臣秀吉の様な天下統一と惣無事令の厳守は行き渡らせることができた。


 この事を明の皇帝に手紙を送るとまだ統一してなかったのねと言われてしまった。


 あと調子に乗っていた対馬の宗氏をシメて、宗氏首脳部を人格排出の刑に処して傀儡化させ、私の息子を養子に送り込み家を乗っ取り、朝鮮に日本国王として倭寇や宗氏で迷惑かけてごめんねって手紙と贈り物を届けたら、貿易再開してくれた。


 まぁ明と大規模な貿易をしているので輸入する品が陶磁器と朝鮮人参くらいしか無いのだが···。


 1560年に天下統一として歴史書にも記され、久しぶりの統一政権が誕生するのであった。


 で、義植は地図作りを全国に拡大し、各地の気候や土壌から憶測し、様々な作物を各大名や代官に贈った。


 その数は全農集に書かれている作物でも圧巻400種(香辛料は65種、果実48種、他野菜、主要穀物類、家畜用飼料、緑肥作物等の植えることで肥料となる作物、菜種等の油や染料、木炭や竹炭等になる物)に及び、家畜も大型馬や牛、豚、鶏、アヒル、ガチョウ、羊、山羊等の家畜も再度広められた。


 水車やローマコンクリート技術も公開し、主要道以外は各代官や大名が自由に道を作ったり街を作ることも許した。


 ただ火薬と大砲、通貨類の製造技術は握り続けた。


 また刀狩令と検地を時期を分けて1565年までに全国で完了させ、大内政府による戦乱が終焉となった。


 またキリスト教が広まる前に仏神(神道と仏教)を国教とするが、政治に宗教を絡ませてはならない。


 政府の許可なく外国に領土の売買をしてはならない。


 それらを守る範囲での宗教の自由を認めるという発表を行った。


 そして1560年から大内義植はスローガンとして日本国拡大、貧困撲滅、重商主義を掲げ、国内の農地開発を行いながら日本そのものの拡大政策を行っていった。


 1565年の第一次全国検地(台湾や外地を含む)と1590年の第二次全国検地(南部はルソン島まで)で西国以外の作物の生産量は跳ね上がり、第一次全国検地では全国の石高が2500万石だったのに対して第二次は4900万石に上がっていた。


 肥料と強化稲や強化小麦の普及、適切な方法の普及、台湾や蝦夷地といった農業の適地が多い場所であることなどが由来である。


 戦乱が終わり、安定期に入ったため、食料増産分の人口爆発も起こり、蝦夷地や台湾以南に過剰人員は送られ続けた。


 拡張を続けた事で浪人や流民が職にあぶれることを防ぎ、反乱抑制にもつながったのだった。


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