1549年 毛利元就との密談

 西国の安定化に伴い、まだまだ反乱祭りの畿内から人がどんどん大内領内に逃げ込んでくる。


 その流民を更に吸収し、新規農地の開拓や新事業に手を広げ、更に国力を底上げしていっていた。


 流民の数は村に移住させ、勢の調整をするところから計測し、1548年の間に移住してきた人数は4万人から5万人に及ぶ事が判明した。


 で、移民ビジネスに私は更に踏み込み、陸路だと尼子領を通る必要があるため、瀬戸内海(堺発、下関着)の移民船計画を武野紹鴎が居る時に宗像水軍棟梁の宗像正氏と村上水軍の三家(能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏)に協力を要請。


 村上水軍とは祖父の大内義興時代は敵対関係にあったが、宗像水軍と村上水軍が厳島周辺で激突した海戦で、宗像水軍が勝った事で村上水軍内部でも親大内派と反大内派で派閥争いが各家で発生しており、今までは堺と博多の商人が行き来する時に警護料もしくは海上の関所による賃金の徴収をしていたが、今回の流民の輸送ビジネスに噛ませようとした。


 流民なので船に乗れる金を殆ど持っていない。


 そのため海上での税の徴収を生業にしている村上水軍の面子は渋い顔をしていたが、船一隻及び船の大きさで、移民船を安全に下関まで送り届けた場合、相応の銭を支払うと伝えた。


 逆に下関や博多から商品が堺に輸出する際にも大内家から安全に航行できれば謝礼金を支払うとし、代わりに商人達の警護料の減額を求めた。


「大内の殿様が商人達の警護料を肩代わりしてなんの利が?」


 と村上水軍の棟梁の一人が聞くが


「商人の行き来が増えればそれだけ大内領内の経済が活性化する。経済が活性化すれば取れる税の量も増える。何より黄銅銭の流通が畿内で更に広まれば銭を作り出している大内家の信用が更に増す。確かに一見損しているように見えるが、巡り巡ってより大きくなって帰ってくる物だぞ」


「なるほど」


 と私は説明し、棟梁も納得したみたいであった。


 畿内の人口がこちらに流れれば流れるほど、将来の畿内勢力の弱体化に繋がるし、大内領内で捌ききれなくなれば、台湾に送る。


 広い土地が将来的に欲しいなら台湾の方が良いし、直ぐに金が欲しいなら大内領内の方が良い。


 まぁそれでも年5万人が畿内から流出しても、戦国の人口増加率を考えれば誤差の範囲である。


「人が金や食べ物を生み出す···労働力がなければ国が回らないからねぇ」


 私の言葉にその場に居た者達は頭を下げるのであった。







「やや、毛利殿、調子はどうだい?」


「義植様!?」


 年が明けたある日、私は安芸にお忍びで来ていた。


 山口の町から更に街道を安芸近くまで伸ばしたことで下関館と山口館、太宰府を行き来する生活をしているが、仕事が終わったので、農地視察と称して山口舘から抜け出して毛利領内に入っていた。


「流石毛利(元就)殿、安芸に入った時には草をつけていましたね···良い暗部をお持ちだ」


 大内の弱点だが目立った忍びが居ない点であろう。


 小粒の忍び衆は居るが、商人達や公家達、水軍衆の情報網で事足りてしまっているので、目立った忍びが育っていなかった。


 諜報するにはそういう組織は必要なのだが、大内の格式が高くなりすぎた弊害で、汚れ仕事を極端に嫌っており、長官となりうる人材が居なかった。


 私自身も忍び働きまでは知識が無くて教えることができない。


「今一度毛利(元就)殿と今後について話したく思った次第で···ああ、今の私は旅人の安慈ですよ」


「安慈はもう偽名には使えないでしょうに」


 とりあえず城にあげてもらい、客間で話をする。


「で、話というのは?」


「まずは吉川と小早川の乗っ取り見事でございましたなぁ」


 次男を吉川に、三男を小早川に養子に出して吉川、小早川両家を従属させることに成功し、吉川の武力と小早川の水軍力を毛利家は接収し、安芸国衆を親毛利で完全に固めることに成功した。


 毛利家は備後方面に勢力を伸ばしており、南備後の国衆の調略を行っている最中であった。


「娘さんの春香と仲良くしているし、時期に子供もできるが、できればもう一つ繋がりが欲しい」


「繋がりと言いますと···つい先日(毛利)隆元に産まれた嫡男に関してですかな」


「さよう」


 私が性欲剤を前に贈った結果、毛利輝元に当たる嫡男が四年ほど繰り上がって産まれていた。


 元就にとっては初孫であり、それはもう大層可愛がっているというのは山口館だけでなく、太宰府の町にいても聞こえてきた。


「幸鶴丸に私の長女との婚約をしてほしい」


「ほう」


 相良武任の娘であるちよの方(ちよちゃん)が長女を産んでいた為にその子を毛利元就の孫とくっつけることで更に血縁関係を強化しようと考えていた。


 大友義鎮の方も二代に渡り血縁関係を結んでいたので、毛利の方もと考えた次第である。


 ただ(毛利)隆元の嫁は場合は大内の内藤家であったが、武断派の粛清の当事者の一人であったために、毛利との繋がりは薄まってしまっていた。


 なので血縁関係を再修復する為にも大内本家の姫を嫁がせるのを最大の誠意としたいと私は考えた。


 娘はまだ歩くこともおぼつかない年齢なため、毛利に預けるのは数え年で七つ(実年齢は六歳)になってからになるが···


「なかなか当家にとってもありがたい話ではあるが」


「ええ、あとこれから大内は南蛮との取引や四国遠征、琉球の更に先にある台湾という場所の開拓と東に目を向けることが難しい。尼子をどうするか···これを話しておきたいと思いましてね」


 尼子氏は現在出雲、伯耆、美作、因幡の四国と石見東部、備後北部、備中北部の三国の合計七国に影響のある大大名に再拡張し、膨張を続けていた。


 ただ尼子は尼子経久が謀略と新宮党等の強力な軍により周辺地域を飲み込み成長してきた家のため、内政能力に疑問があった。


 今は石見銀山による銀で経済を回してはいるのだが、大内が海上勢力を抱き込み、畿内最大の宗教勢力である本願寺と血縁関係になったことや、京より太宰府に書物を、太宰府や下関、山口から朝廷への貢物を乗せた船の一部を朝廷が朝廷御用の免状を発行していたため、海上でこれを害する行いをした場合朝敵認定されるので、尼子は瀬戸内海の海上戦力を持たないこともあり、大内を中心とした西国経済圏と堺を中心とした畿内経済圏から隔離されてしまったのだ。


 そして石見経由で私の種籾が流れたが、農法までは流れなかったのか肥料の量が不足しているため、土地の地力が低下し始めていた。


 数年前は豊作が続いていたが、1548年には尼子領内の米相場が例年よりも高騰していたため、今年は不作になるのではないかと予測できた。


 主力の商品の米が不作、石見銀山も本来大内が灰吹き法を導入した史実の前に石見銀山を放棄したため、旧来のやり方で行われているので、石見銀山の本来の力が出し切れていない。


 しかも石見銀山から流れた銀は大内領内で再精錬し、転売しているので採掘していない大内や精錬方法を知っている毛利の方が稼ぐ始末であった。


 私は尼子に経済戦争を仕掛けていたのである。


 それに大内領内に近い石見では日に日に豊かになっていく大内方の村を見て比べてしまう村が続出しており、一部国人衆は寝返りの手紙をこちらに送ってくるほどであった。(謀略の可能性があり、黙殺しているが)


 そんな足元が固まっていない時に急拡張をしたらどうなるか···


「尼子への謀略は既に決まっている。早ければ来年、遅くても再来年には国が割れるだろう」


「隆元が言っていたな。私とは別の視点で謀略を行いと」


「ええ、個々人に対しての謀略等は毛利元就殿の足元にも及びませんが···民を使った謀略は私が上かもしれませんよ」


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