1546年 下関拡張工事 〜後世の下関評価を添えて〜

 太宰府再建運動をしている傍ら嫁達の思考誘導と肉体改造を忘れない。


 前に侍女にも人格輩出を行っていると言ったが、全体の六割が人格排出により疑似人格を埋め込まれている。


 過半数を常に超えていることで、派閥間を越えて連携をとり、常に私に有利になるような思考誘導をおこなってきた。


 嫁達の立場を整理するが、正室の千怜は実父が元従三位、義父が太政大臣と公家としては最高位に位置する存在であるが、京での戦火や下野した経緯、貴族の姫という立場ながら山菜を採集して日々の食事を賄う等、困窮した生活を送ってきた為に今のゆとりある生活が崩れることを極端に恐れていた。


 千怜の侍女達は公家の娘(下級貴族)が多く、困窮からの反動で増長しやすい者が多かった為に人格排出率が一番高く八割の侍女が人格排出をされていた。


 ただ年齢が嫁達の中で一番高く、教養もピカ一な為、嫁達からお姉様と慕われてもいる。


 次に大友の義鎮の妹である文は、名前の通り文字の読み書きが好きで、私が城に作った書室によく入り浸っては、侍女達と共に物語を書いたり、下関(城下町)に他の嫁達を誘って出かけては今焼(日本産茶器 主に安慈村産の茶器)を使って町民達に茶を振る舞ったりしていた。


 血筋的に私から見て従姉妹であり、血縁関係にある為側室達の中でも一つ上の立場にいた。


 毛利の春香姫を妹の様にかわいがってもいる。


 文姫と同じ歳で、文治派の頭でもある相良武任の娘のちよは側室ながら立場的には微妙な位置に居た。


 というのも武断派が粛清されたとはいえ、一度相良武任は出奔している為に復権した今でも多くの者に微妙な顔をされており、私が能力があるので庇ってはいるが、それを私が寵愛していると勘違いしている者や、相良武任の能力に疑問視している者も多く(というかこの時代内務官や銭の管理を任されている者は嫌われやすかったり、下衆とみなされたりしてしまう。統治者視点だと得難い存在なのだが)、ちよが男児を最初に産んだ場合、継承がスムーズに行かない可能性が高い。


 能力が高くても、嫌われ者の子もまた嫌われやすい為である。


 家中安定の為にも男児が産まれるまでは抱くわけにはいかない娘でもある。


 最後に毛利元就の三女である春香は鬼吉川の血を引き継いでいる為か(元就の正室は吉川家の娘)武芸の才能を開花させつつあり、薙刀で同年代の男子顔負けの技を見せていた。


 二年近く私の食事を沢山食べた事により他の娘よりも肉付きが良く、現代の小学二年生の八歳(数え年で九歳)と同じくらいの身長推移をしており、十二歳くらいで155センチくらいの身長になりそうである。


 戦国期の男性平均身長が155センチから160センチくらいなので、女性にしては大柄になるのだが、私が現在185センチなので十分に釣り合いがとれる。


 というか小さいと難産の危険性が増すのでこの時代の価値観からは外れるが、身長は大きければ大きいほうが良いと私は考えているのだが···


 嫁達の仲は良く、よく居る組み合わせは文と春香、千怜とちよであり、文と春香は姉妹みたいな関係、千怜とちよは主と従者の関係に近く、文とちよは創作仲間、千怜と春香は年の近い母親と子供の関係に近かった。







 千怜が来てから半年が経過し、肉付きがだいぶ改善したことで私は初夜以来の性行為に及んだ。


 詳しくは書かないが性欲の強化を副作用が出ない範囲で少しずつ行っていたため、私は二十発射精し、千怜が気絶するくらい行った。


 それを三日間したら千怜は


「た、頼みますから私だけを抱くのはやめてください。体力が持ちません」


 と言われてしまう。


 まぁ我慢できなくなれば人格排出した侍女や私が作った人造人間ことダッチワイフ相手に発散すればよいので問題は無いだろう。


 なに、男児が産まれればちよと文も交わる事ができるので回数は減るだろう。






 勝山城では手狭になったため、下関に政務を行うための平城を建築する事が決まった。


 平城というより館であるが、勝山城も悪くは無かったが、下関と距離が少しあり、今後常備兵を増やすとなると勝山城では拡張性が低かった。


 現在勝山城では人格排出した強化兵が千名まで増えており、その家族として私が作った人造人間の女性陣が前年畜生腹の刑で産み落とされた赤ん坊や毎年産み落とされる赤ん坊で長屋からは赤ん坊の泣き声がどこもかしこからも聞こえてきた。


 人口増加に勝山周辺では耐えきれないので勝山城と新たに作る屋敷に分散させる必要がある。


 館作りを並行し、港や町の拡張工場を開始。


 コンクリートを大量に使い、海岸沿いを整備したり、桟橋の設置や郊外には将来の南蛮船を製造可能な(この時代だと)大型の造船所を建造したり、地下水が塩水になってしまうので、各地に真水の湧き出る場所を作ったり(水の湧き出る秘宝を設置したり)、公衆浴場を建設した。









 〜下関の町作り〜


 下関の町並は戦国時代後期の大内義植により行われ、芸術家や発明家、植物学や医学、農業と幅広い知識を持っていた大内義植の三大偉業の一つに日本のコンクリートの普及が挙げられる。


 1545年前後よりコンクリートの製造が可能になったとされ、下関の町は中心となる下関館を中心に円形に広がっており、碁盤目状の都市が多かった日本において例外となる欧州的な円形の街作りがされていた。


 中央に下関館、それを東西南北に舗装された大通りが伸び、神社や寺が中央近くに置かれ、町の四箇所に大市、八箇所に小市と呼ばれる商業区画が作られた。


 また酒造や味噌や醤油等の調味料を製造する蔵町、鍛冶屋等が犇めき、防火性の高い煉瓦造りが特徴的な職人街、外周部に下級兵の長屋が建ち並び、都市の中に二十箇所以上の公衆浴場が運営されていたのも特徴的である。


 また足利学校を参考にし、近代でも通じる学校制を決め、町の中に学校を設置したり、孤児院を郊外に建設するなど近代的な計画都市が戦国時代に完成していた。


 下関港の拡張が完了すると多くの人口が流入し、博多が三万人前後、堺でも六万人前後の時代(ちなみに京は十万人)に下関は大内家禄によると1555年には五万人の人口が住み着き、1600年には二十万人を超える大都市となり、中国地方最大の都市に成長する。

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