1545年 正室の嫁入り 大内一揆

 相良が娘を側室にと渡してきた。


 これが亀丸が生まれる前であれば次期当主の後継者の可能性を残したいという野心的意味合いに取られかねないが、亀丸が生まれた今では相良は私を全力で支持するという支持表明へと意味合いが変わる。


「あ、私、陶隆房が暗殺企ててるんで出家しますわ」


 で、実際はこれである。


 陶隆房は時間経過で武断派の結束を固め、更に独断で石見奪還に動いてこれに勝利し、家臣達の支持を回復、相良はよくできた内務官僚であり文治派のリーダーであるが、私が様々な計画を推し進めているため、相良の実績が分かりづらく、文治派の中でも相良は人気があまり無い為中立派はともかく、武断派からは毛嫌いされており、ヤンデレの陶隆房が実は相良の命を狙っているのではないかという噂を耳にしたら命惜しさに書き置きと一人娘を託すと言って出家してしまった。


 これには私だけでなく首脳陣は大混乱、父上と私は相良の内政能力を高く評価していたし、せっかく公家達に大宰府に納める書物を整理し、最終的な管理をしていたのも相良だったため今居なくなれば各国の利害が一致した巨大プロジェクトである大宰府再建が潰える可能性があるので、父上が出家先の寺まで行って戻ってくるように懇願。


 結果戻って来るには来るのだが、今回の一件で武断派と相良の対立が決定的になってしまう。


「相良武任の娘のちよでございます。義植様どうかよろしくお願いします」


 というわけで側室になることで山口の町から逃げてきた相良の娘のちよちゃんであるが、数え年で十二歳···義鎮のいもうとの文姫と同じ歳である。


 文姫と春香姫はもう一年私の料理を食べているので肉付きがだいぶ私好みになってきたが、文姫でももう一年は母体をなじませる必要があるだろう。


 で、側室が三人になったので、父上に正室を見繕ってもらいたいとお願いしたが亀丸に夢中で色よい返事が来ないので、三条殿と二条殿に相談した所、公家の娘に良いのが居ると言われ、話を聞いた。


 聞くところによると年齢は数えで十六、私の一つ上で、器量よし、容姿良しであるが、家長であった者が急死してしまい、残された一族は山口に逃れてきたらしい。


 後ろ盾になることを含めて正室にもらえばどうかという話であった。


 元々その娘の父親の位は従三位であり、その父親とは交友があったため三条殿はその娘を自身の養子にした上で私に嫁がせても良いとの話であった。


 太政大臣が義父になることも凄いのだが、三条殿は各地の大名や宗教勢力との繋がりが深く、三条殿と親族になると甲斐の武田信玄や石山本願寺の顕如と兄弟関係が成立することになる。


 信玄は兎にも角にも顕如と仲良くなる意味合いは大きい。


 もし畿内に進出した場合畿内最大の仏教勢力が味方、悪くても中立でいてくれることになる。


 交渉や切り崩しもやりやすく、大内領内での一向一揆の発生確率は大幅に減る。


 問題があるとすれば私が出家していた時に浄土真宗ではなく禅宗であり、宗派が違う点があるが、今後やってくるキリスト教のカウンターにはなるだろう。


 別にキリスト教が悪いわけではないのだが、この時代だと宗教が侵略の道具にされてしまっているので、宗教の力は争わせることで低下させなければならない。


 九州最大の加護者になり得た大友義鎮は母親と溺愛する正室が生きているし、同腹の弟が私がいたことで大内の猶子になることが無いため、大内の一族ではなく義鎮の理解者であるので父親や側室の子供達を除いたら家族仲は良好。


 しかも義兄弟の私という存在や早期に体を鍛え直し、好青年になったことで家臣達の支持を失わなかった為に史実と違ってストレスがあまりかからなかった。


 なので宗教に溺れる原因が無くなっており、キリスト教にも傾倒することはまず無いだろう。


 正室とラブラブなので色狂いになる要因も無いので、宗教狂い、色狂い、病弱の悪癖三種が取り除かれた完璧超人大友義鎮の誕生である。


 まぁその話は置いておいて、キリスト教にしろ、他宗教にしろ、江戸時代の様に政教分離は必ずしなければならないし、石山は必ず退去させなければならない。


 対決するにせよ、足元を固めるためには今回の正室はまさに好都合。


 私は三条殿の申し入れを受け入れて、公家の娘を正室にするのであった。








「千怜でございます。この度は一族の保護及び、私を正室に迎えていただき感謝します」


 顔立ちは美人であるが、従三位という公家でも高位の家でも困窮していたのか肉付きが良くない。


 衣服を多く着ることで隠してはいるが、首の太さや指の細さから推測するにあばら骨が浮いている可能性が高い。


 いくらこの時代の婚姻適齢期であれどこの状態で子供を作ったら難産もしくは母体に大幅なダメージが来るだろう。


 公家との繋がりや政治的意味合い、そして大内の男児不足(家督相続の度に流血を伴う家督争いが起こりまくり、それが起こらなかったのが祖父の大内義興と父の大内義隆の時のみ、この時大内義興の子供は父以外ほぼ女かつ、次男も早世したため実質父以外男児が居なかった為に家督争いが起こる余地が全く無かった)もあり、私が男児を増やしておかないと大内嫡流どころか大内支流の血縁も遠い為大友から引っ張ってくるしか無くなるという問題が発生する。


 というか史実ではこれが起こり、両家を大混乱に陥れたが···


 なので肉体食事と薬により肉付きを良くしていき、骨盤等をストレッチで調整し、安産体型になるようにしていく。


 姫達には私の子供を沢山産んでもらわなければならないし。


 と、ここで気がつく。


「家督相続の度に揉めている様な統治体制がまず欠陥じゃん。相続系をしっかりできるように法整備やそれを支える高度な家臣団形成も私の代でやらないとかよ! 全くやることが多すぎるぜ!」


 と愚痴りながらもニヤニヤしていた。


 やることや解決できる問題は多くても楽しいものである。


 自己解決不可能な問題は嫌であるが···









 真珠養殖事業を開始し、ついでに牡蠣の養殖も始めた。


 牡蠣は栄養的にも貝殻は肥料や鶏の餌としても使える為、無駄が全く無い食材である。


 流石に生牡蠣は立場的に食べれないが焼き牡蠣やカキフライは作りたいと思っている。


 本当はアワビを養殖して中華に売っぱらいたいのだが、アワビは錬金術で改造したらアワビみたいな何かになってしまい、養殖には現代の技術が必要と判断し、自然の物を獲るしか方法は無いとした。


 で、貝類の養殖と塩の製造施設の拡大により私の所領では限界に到達し、沿岸地域の領主にも塩作りの技術は流した。


 塩は幾らあっても足りないし、腐らない、保管もしやすい、売れるので大量に作る必要がある。


 というかここまで海水から塩作りにこだわる日本は世界的に見ると例外である。


 それで国内の自給できるようになったのは変態の領域である。


 まぁ戦国の世は製塩施設が戦乱で破壊されてしまっているので、塩の需要はあるのに製造が間に合わずに高値で推移している。


 なので適正価格に抑える意味合いもあり、塩の量産は必須であった。








 陶が独断で石見を取り返したことで石見銀山を巡り尼子と戦が再び始まってしまい、せっかく内政に当てたい村人が戦に駆り出されてしまって予定収穫量を下回りそうである。


 それでも各地の実りを見るに昨年より1.3倍程度の収穫量になりそうだが、私的には今年で1.5倍にしたかっただけに陶や武断派の粛清ポイントが更に高まった。


 というより主の言うことを聞かない軍などどこの関東軍だよとか、これだから武断派は政治ができねーんだよと思い、私は各農村に農具と称して農具にもなる武器を流しまくった。


 で、農民達のヘイトを溜め込んでいるとは知らない陶達武断派は秋の収穫が終わり税の回収で、昨年同様に豊作分を戦費に充てようと増税して、奪い取ろうとしてしまう。


 ここで各村に私が事前に四公六民の確約書を送っており、大内家としては四公以上は税として取らないことを約束していたのに、武断派は軍事行動で独断専行をしているし、私を後継者とも見ていないので農民達の訴えを無視して兵を使って税を取り立てた。


 これに怒った村人達は私が焚き付けていたこともあり徴税官をぶっ殺し、一揆を起こした。


 石見、長門周防東部で一揆は瞬く間に広がり、石見に出兵していた武断派の兵八千は直ぐに一揆鎮圧の為に動き出したが、一揆の兵は老若男女含めて五万人を超えており、しかも私が武器を流していた為に強く、武断派の兵が押し負けてしまった。


 一揆はそのままの勢いで武断派が逃げた城を囲み、その城さえ陥落させて、武断派の将を捕らえてしまった。


 そう捕らえたのだ。


 この捕らえたというのは一揆勢から私への約束を遵守していることとまだ理性的かつ統率のある行動であることを意味した。


 私は一揆発生から数日後に勝山の兵五百を率いて石見に向かい、石見で事を起こした一揆勢の説得を行った。


 一揆に負け、更に死ぬことも許されなく、人質になった武断派は今回の一件で名声は地に落ち、主の決めた税収を私利私欲により勝手に増税し、それに起った農民達に戦い、負けたという事実が彼らを擁護できなくした。


 私が一揆勢との交渉はスムーズに進み、周防長門及び石見一部の武断派統治領は世を乱したとして没収、大内当家の直轄領とし、税は四公六民の確約、今年武断派に奪われた税は返還し、以後は大内家の代官が送られる事も約束した。







 後世の歴史研究家達は流血を伴う一揆が話し合いで解決したという類を見ない事例及び、義植が兵を五百しか連れて行かないで五万を超える一揆に対峙し、解決した手腕が評価されたが、実は村人達と組んで武断派を粛清する為の行為であるという義植自身が書いた日記が見つかると義植が仁君であった定説が揺らぐきっかけとなるのだった。


 ちなみに何故かこのあとの武断派一族は寺に幽閉後、集団自決したとしか書かれていないのだが···歴史の闇に葬られた事実が存在するのであった。

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