【BL】アダムズ・アップル
祐里
アダムズ・アップル
ぱしゃっ、と波が跳ねた。引いていく海水を引き止めたいとでも言うように軽く踏む裸足の澪を、雅人の視線が追いかける。
「あまりはしゃぐなよ。また熱が出る」
「大丈夫だよ、今日は調子がいいんだから」
「そろそろ低気圧が来るだろ」
もう分厚い雲が太陽を隠し始めている空を見上げてから、雅人は小言を投げた。時折吹くひんやりとした北風が、雅人の髪をさらさらと揺らす。
「そうか……じゃあ足洗うよ」
澪が低気圧のせいで体調を崩すのはいつものことだ。もともと体が弱く、体格も同じ十八歳の男子に比べると小柄で細い。雅人は小学校で同じクラスになって以来、いつも澪の心配をして一緒に行動している。
「足洗えるところある?」
「あっちにあったから、行こう」
小さくうなずく澪の足は、まくられた布地から細く伸びている。
「……ああ、あった、ここ。足上げないといけないけど」
「うっ、じゃあよじ登っちゃう方がいいかな」
手に持っていた靴下入りの靴を洗い場のそばに置き、澪は足を乗せようとした。が、つらそうな姿勢になってしまい、「だめだ」とつぶやく。
「しょうがないな、ほら」
雅人の手が澪の胴の脇を支え、ひょいと持ち上げる。砂の地面から八十センチほどの高さの手洗い場に足を置くことになった澪が、「わぁ」と声を上げた。
「いい景色」
「そうか? 早く洗っちゃえよ」
「んー……屈めない」
屈もうとして尻を水道の蛇口にこつんと当ててしまい甘えた声で言う澪の顔を見てから、雅人は水道の蛇口をひねった。
「じゃあ洗ってやるから、俺の肩に手置いて」
「う、うん。……あのさ、雅人は何でそんなに親切なんだ?」
「……は? 何言ってるんだよ、今更」
「僕のわがままなんか放っておけばいいのに、今日も海に連れてきてくれて……大変だろ?」
「別に大変じゃないよ」
穏やかな声で答えながら雅人は澪の足に視線を移し、まじまじと眺めた。水道水に侵されていくその右足と左足に、指が正しく五本ずつあることを点検するかのように。肩にかかる澪の手の重みに、ほんの少しだけ切なさを感じながら。
「……やっぱちょっと冷たいな」
「まだ六月だから」
水の冷たさから逃げるように澪は足を上げようとするが、雅人に押さえられ、水をばしゃばしゃと水をかけられる。
「よし、これでいいだろう」
「ありがとう。えーと、タオル、タオル……」
尻のポケットに乱暴に突っ込んでおいたタオルを引っ張り出し、澪は足を拭いた。そうして靴下と靴をはき、雅人の隣に並ぶ。すると、大粒の雨がぽつりぽつりと二人を濡らし始めた。
「うわ、やべっ、行くぞ」
「う、うん」
「まず駐車場で車に乗って……、そろそろ腹減らないか?」
雨を鬱陶しがる雅人が指差したのは、海岸から道路を一本隔てた場所に建つ、リゾートホテルだった。
「ここ、コンビニもあって便利だね。カフェのピラフもおいしかったし」
「澪の好きな桜海老たっぷりだったもんな」
ホテル併設のカフェで遅い昼食を取り満足した二人は、ホテル内のコンビニエンスストアで飲み物を物色している。
「うん。……あ、僕これにしよう、濃縮還元一〇〇パーセントアップルジュース。おいしそう」
「俺はりんご苦手だから……お茶でいいや」
「あれ、りんごダメなんだっけ?」
「りんごは口がピリピリするんだよ。……なあ、本当に宿泊でいいのか?」
「え? 僕を心配してここに泊まろうって言ってくれたんだろ? 宿泊代も出してくれるなんて言われたら、大賛成するしかないよ」
あははと軽く笑って言う澪に、雅人はそれでも心配そうな表情を向ける。
「そうだけど、何か用事とか……」
「特にないよ。まだやってない課題はあるけど、来週の金曜日までだから大丈夫」
「……わかった」
「金持ちの雅人様々だよ」
冗談めかして言う表情に少々の疲れが見て取れ、雅人は自分の提案を肯定せざるを得なくなる。レジで支払いを済ませ買い物を終えた二人は、地面を叩きつける雨を横目にエレベータホールへと歩いていった。
三階のツインルームに入って早々、澪はベッドに腰掛けて楽しそうにテレビのスイッチを入れた。
「普段テレビなんてそんなに見ないのに、こういうところ来るとつけたくなるね」
「ああ、わかる。不思議だよな」
「非日常を楽しもうとするからかも」
テレビは午後四時から始まったニュースを流している。無機質なアナウンサーの声しか聞こえてこないというのに、澪は笑顔だ。
「楽しいか?」
「うん。……でも、雅人に悪いなって気持ちはある」
「気にするなよ」
「何でそんなに優しいんだ?」
澪の笑顔が消えて真剣な面持ちになったところで、雅人は澪の隣に座った。ベッドが沈み、その華奢な肩が雅人の腕にわずかに触れる。
「何で、って……」
雅人は口ごもった。本当は適当に笑ってごまかそうと思っていたのに、澪の真っ直ぐな視線が、自身を貫いた気がしたからだ。
「何かきっかけでもあった? 覚えてないけど」
「……きっかけ、は、……その……、チーズケーキを食べてくれたから、だよ」
「ん? チーズケーキ……って、もしかして小学校の給食の?」
「そう。五年生の時から給食で出始めたんだよな、チーズケーキが。俺が苦手だって気付いたの、澪だけだったんだ。澪だけがちゃんと見てくれてるって、思った」
澪は雅人の言葉にぽかんと口を開け、目をぱちくりさせた。これまで話したことがなかったんだ、そりゃそうだよなと、雅人は内心で少々自嘲する。
「……僕だけだった……? だって、食べる時に嫌そうな顔してたよね? けっこうあからさまな表情だった記憶が……」
「澪の言うとおり、嫌いな味だから、食べる時は思い切りしかめ面してた。でもみんな、何故か俺のことを完璧な人間だと思ってたみたいで……先生も。好き嫌いがあるなんて、思いもしなかったんじゃないかな」
「ああ、確かにそんな雰囲気だったかも。子供なのに、おかしいよね。……ていうか、それだけ?」
「それだけじゃないけど、それがきっかけ」
「それだけじゃないって、本当に? まあでもしょうがないよ、雅人はスポーツも勉強もできて品行方正で顔も体つきもよくて金持ちで……」
言いながら、澪の視線がだんだん落ちていく。
「澪……?」
「……何で、僕はこんななんだろう。体が貧弱で、いつも雅人に甘えてばかりで迷惑かけて……」
「迷惑なんかじゃないって」
澪が一口、ペットボトルのアップルジュースを飲む。もう一口、もう一口と幾度か澪の喉に甘い果実汁が流れたところで、雅人はもう一度「迷惑じゃないよ」と言った。
「気にするなよ、俺が好きでやってるんだから」
「好きで?」
「そうだよ。チーズケーキは嫌いだけど」
「そっか。……あの時みんな、僕が雅人のを奪って食べていたと思ってたかもね」
「あー、もしそうだとしたら、澪には悪いことしたな」
テレビのニュースに、コマーシャルが挟まれた。ソフトな餅を使ったアイスの明るい曲が流れ、ホテル前を通り過ぎる車のタイヤが雨を弾きながらアスファルトをこする音と混ざり合う。混ざってはいけないものじゃないか、と雅人は頭の隅で考える。混ざってはいけないんだ、白くて清潔なものと、黒くて汚いものは、と。
「悪いことなんて……子どもの頃のことだし。雅人、あのさ……」
「何?」
「その……、本当に、申し訳ないと思ってるんだ。僕のせいで彼女も作れないんだろ? 雅人モテるのに」
「えっ? は? 何だよ、それ」
澪のくるんとした大きな目が、雅人に向けられる。視線がぶつかる。目を逸らしたくなる。何を言われるのかと想像すると。
「そろそろ雅人から離れないと、って思ってる。今までごめん」
「……いきなり、何を……」
「週末はいつも会ってるだろ? 通ってる大学だって違うのに、こちらの都合ばかり……」
劣等感からかもしれないと、雅人は直感的に思った。おそらく十センチほど澪の方が身長が小さい。澪の肌は白っぽく、自分はどちらかというと健康的な浅黒さを持っている。それほど大きな差はないが、偏差値でいうと雅人が通っている大学の方が上だ。生家の太さも関係しているかもしれない。だがそれが何だというのだと苛立つ気持ちを抑え、雅人は穏やかに話そうと努める。
「俺が好きでやってるんだから、気にしなくていいんだよ」
「……でも……」
「信用できないか?」
「そ、そうじゃなくて、その……僕なんかが……」
澪は雅人から視線を外し、アップルジュースをまた一口飲んだ。それが、雅人の癇に障った。澪から話し始めたことなのに視線をペットボトルに向けるなんて、俺を見ずに、そんな大量生産されているものに、と。
澪は何度かアップルジュースをこくり、こくりと飲み下した。そのたびにぴくり、ぴくりと動く喉仏にも腹が立つ。
「こっち向けよ」
どうしてこんなことに腹が立つのか、雅人はその答えを出せないまま、澪の頬に手を当てて強引に自分の方を向かせた。
「ちょ、雅人、何……」
雅人の唇が、澪の半開きになっていた唇に重なる。大きく目を見開いて驚いている澪に構うことなく舌は澪の口内に入り込み、アップルジュースの味を感じた。同時に、ピリッとした刺激を覚える。とんでもない行動をしているという自覚を持ちながらも、きっとアレルギーなのだろうと冷静に考える自分もいることに、心の内で笑いを堪えた。
「な、に……やっ……!」
半分目を開けていたおかげで、澪の頬や耳がどんどん赤くなっていく様を見ることができたと、雅人はほくそ笑む。そうだ、最初からこうしていればよかったのだ、俺たちはもう小学生じゃない、大人なのだからと考えるとブレーキなど効かなくなる。
「好きだって言ったろ」
「や、まっ……、りんご……!」
「ピリピリするけど、それくらい覚悟してるよ」
そう言うと、雅人はまた澪に口付けた。覚悟など、本当はできていなかった。ただ澪を堪能したかっただけだ。その過程で味わった久し振りのりんご味は、とてもおいしく感じられた。チーズという塩味とケーキという甘い味の混ざりものでしかない、あのおぞましいチーズケーキとかいう食べ物とは違って。
何度もついばむように澪を味わい、頬に当てていた右手を頭の後ろに回し、更に深く口付ける。唾液が分泌されてもまだほんの少しだけ、ピリピリした感覚が残っている。これが人間の生殖という真理に反する罰だとしたら、なんと甘やかなものなのだろう。
自身の背中に回されている雅人の左腕に身を預けた澪は、目を閉じて雅人を受け入れている。その赦しにも似た甘美な疼きは強烈に雅人を襲い、高揚感を更に高める。
「澪、澪だけなんだ」
澪の半袖から見える白い二の腕が、雅人の劣情をそそる。
「みんな俺のことを誤解して」
喉仏から、首筋に舌を這わせる。
「澪はちゃんと見ていてくれた」
耳に柔らかく唇を当てると、澪がぶるりと小さく体を震わせた。
「だ、って、雅人に……憧れて、たんだ、いつも、見て……」
「それなら尚更うれしいよ」
恥ずかしさから潤んだ瞳で見上げる澪に、雅人はもう一度その柔らかな唇に口付けをした。
「ね、雅人」
「ん?」
疲れから少し熱を持った体をベッドからもたげ、澪は言う。
「イヴにりんごを食べるようにそそのかしたのって、何か知ってる?」
「旧約聖書の? ヘビだよな、確か」
「うん。僕の中にはね、ヘビがいたんだよ」
まだ枕に頭を預けている雅人の頭上から、澪の細い声が降る。
「ヘビが、いた?」
「そそのかすんだ。りんごを食べてしまえ、善悪を知る者となれって」
「……うん」
「本当は僕が、望んでいたんだ。僕がイヴのように、りんごを雅人に与えた」
一段階低いトーンで、澪は言葉を続ける。
「そうなる前に離れようとしたのに、雅人が引き止めたから……」
「そう、だったのか……」
熱い体を近付けられ、熱い瞳で見つめられ、まだむき出しのままの欲望が刺激されないわけない。
「どんなに堕ちても、僕は雅人と一緒がいい」
「……もちろん」
澪の顔が雅人の視界を満たす。その白い肌と混ざり合うのは自分だけであればいいと願いながら、雅人はその乾燥した唇に潤いを与えるべく、優しいキスをした。
【BL】アダムズ・アップル 祐里 @yukie_miumiu
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