夢をみる人

 人間は知らない。何故、人間が夢をみるのかを。

 記憶を整理する為とか、危険な出来事に対する予行演習を脳内で行ってるとか、諸説あるらしい。しかし、「わからない」というのが、現在の学者たちの共通認識である。

 いつからだろう、眠れなくなったのは。眠るたびに、膨大な情報の荒波に身一つで放り出されて、水を口からも鼻からも飲み込んで息もできずもがき苦しんだ。目を覚ますといつも肩で呼吸をしていた。シーツが汗でじんわりと濡れている。小便を漏らすこともあった。

 いつからだろう、眠るのが怖くなったのは。眠れば眠るほど、記憶が綻ぶようになった。学校の先生の話を覚えていない。友達が昨日と同じことをしている。私が知ってるはずのことを私が知らない。今日とまったく同じ今日を、繰り返すことがあった。

 見るに見かねた母が私を病院に連れて行ったのは、私がまだランドセルを背負って小学校へ通っていた頃だった。校門を抜けると、車を停めた母が仁王立ちして待っていて、精神科、心療内科、メンタルクリニック、脳外科、脳神経外科、そういった類のの病院を何日もにかけて何件も回ったのを覚えている。そして、どこへ行ってもストレスが原因だろうと言われるばかりだった。

 手を、覚えている。母の憔悴しきった萎びた手。萎びたその手を額に押しあてて、いつも深いため息をついていた。

 母を苦しめているのは私だと、分からないほど愚かではなかった。そして、私の中にあったを医師に話しても決して信じては貰えず、ただいたずらに母を苦しめるだけであると理解できるだけの賢さがあった。


 「寝たらタイムスリップしちゃうんだもん」

 その呟きを聞いた看護師が、目を見開いた。病院の待合室、その看護師は少し長い瞬きをした後、こちらにはまるで興味がないという様子で隣の席の患者に問診票の書き方を説明し続けていた。

 ここにいてはいけない。本能がそう告げている。ここには私が思っているより多くの監視の目がある。聞き逃さない耳がある。そんな場所で、おそらく私は口にしてはいけない言葉を口にした。ここではそれを冗談では済ませてくれない。すぐ頭上を猛禽類が飛んでいる。私なんかすぐに食われてしまう。母は会計で席を外しているが、先に帰ってしまおう。この看護師がこちらに気がつかないうちに。

 読んでいた絵本を棚に戻して出口へと走り出した瞬間だった。

 「ひゃあ!」

 あの看護師が私の腕を掴んだ。

 「こら、病院の中で走っちゃダメだよ」

 口調は優しいが私に腕を掴む手はびくともしない。喉が閉まって助けてという声が出せない。恐怖で固まる私に、会計を終えた母が駆け寄ってきた。

 「すみません、うちの子がなにか?」

 「走っていたので注意しただけですよ、それより……。」

 ここでは話しにくいので奥へ、と看護師が母を案内したとき、逃げろと叫びたかった。とにかくヤバイんだと。しかし、「精密検査」という単語を聞いて頬を緩ませた母を見て、やっと開きかけた喉から出た言葉は声にならずに消えていった。

 「なにか、なにかあると思ってたんです。この子ずっと異常で、もう…………。」

 母は額に手を押しあてて涙を流した。

 看護師は母の肩を抱いて、うちには研究設備も入院設備も揃っているし、退院後も病児専用の居住施設に入れれば安心なんだと、つらつらつらつら説明して、最後にこう言った。 

 「お母さんは十分頑張りましたよ。あとは、私たちに任せてください。」

 母はその場に泣き崩れた。萎れた花みたいだと思った。うずくまった背中に背骨が浮いているのが見えて、耳からしなだれ落ちた髪の毛に白髪が混じっているのが見えて、萎れてしまったのは手だけではなかったのだと悟った。


 あの日から、私は母と会っていない。”病院”からは、母は精神を病んで入院しているから会わせることはできないと言われている。

 私の方は、モルモットの割に人道的な扱いを受けている。普通の学校に通い、”施設”で仲間と寝食を共にし、”病院”で検査や診察を受けて薬をもらう。”施設”にいるのは五歳から十八歳までの子どもと、その子どもたちを世話する職員だ。”病院”と”施設”を運営するのは、様々事情のある子どもたちを支える極めて善良な団体だが、本来の姿はそうではない。私が知っているのは、この団体が数多の犯罪行為を行い、実行犯に”施設”の子どもを利用することも辞さないということ。そしてもう一つ、私の睡眠を本気で研究して、時間旅行をしようと本気で目論んでる頭のおかしい連中だということくらいだ。



――――次は原宿。原宿。お出口は…………。

 目が覚めると私は電車の中にいた。混み合う車内を見渡すが、玲司と穂香の姿はない。さっきまで身体にまとわりついていた爆弾の重りも、今はない。

 成功したのか。そう思って、ふと膝の上に抱えていた荷物に目をやった。

 数重に重なった紙袋の中に、液体を入れて縛られたビニール袋が入っている。雫の形をしたそれは、電車の揺れに合わせてたぷんたぷんと揺れている。


『小百合、作戦まで20分を切った。今回ばかりはオクスリ我慢しておけよ!』


 二度目の玲司の指示に、私は大きく舌打ちをした。


 

 

 

 

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