文学賞応募作品集etc.

黒岡衛星

メロンソーダの休日

 人生で初めて人を殴った。

 ラッキー・パンチだとか、ビギナーズ・ラックだとか、そういう類のそれはもういい当たりで、でもこんなのが当たっても全然ラッキーなんかじゃない。

 すごくいい音が鳴って、拳にしびれが残る。このままなんかかっこいい啖呵を切って自分を正当化できれば気が楽になるんだろうけど、正直ぜんぜんそんな気にはなれなかった。

 目の前の成人男性は予想外のいい当たりにくらっときて膝をついてしまって、その奥さんはわたしの後ろで青い顔をしてそれを見ている。

 こいつに会うことがあったら言ってやろう、そう思っていた罵詈雑言が全部抜けた。よくアイドルの握手会とかに初めて行く人が言おうと思って準備してきたこと何も言えなかったとか言ってるのを見るけど、そんな感じかもしれない。状況は真逆だけど。

 わたし捕まるのかな。

 いちおう、後ろに居るかほさんを庇ったつもり。正当防衛、って言って通るだろうか。過剰防衛のラインはどこからだろう。

 裁判とか、賠償とか、そういう話になるのかな。

「ゆうちゃん」

 かほさんに呼びかけられて我に返る。そうだ、目の前のこれが正気に戻る前に逃げないと、逮捕も賠償も通り越して殺されてしまうかもしれない。

 いまさら、足が震えてきた。

「ゆうちゃん」

「え、あ」

 わたしを引っ張って部屋を出ようとするかほさんは見た目よりも頼もしくて、学生の頃に水泳をやってたからなのかなとかどうでもいいことを考えてしまう。

「手伝って」

 玄関にあった、たぶん何か野菜が入ってる段ボールを二人がかりで扉の前に置いて時間稼ぎをすると、慌てて外に出た。

「ゆうちゃん、わたしさ」

「はい」

 かほさんが鍵を取り出して車を開ける。促されるままに助手席に乗り込む。

「ゴールド免許なんだ」

「そうなんですか」

 いきなり何を言い出すんだろう。

「つまり、五年間は無事故無違反ってことなんだけど」

「はあ」

「この五年間、数えるほどしか運転した覚えがないんだよね」

 返事をする前にやや荒っぽくエンジンの音がかかり、アクセルが踏まれた。

 かほさんと知り合ったのは半年前。そのときのわたしは死にたいくらい退屈で、いやわりと今もそうなんだけどもっとひどくて、親とはもちろん上手くいってなくて、学校もつまんなくて、そういうもやもやした気持ちで日々を過ごしてた。

 なんかで見かけた広告のマッチングアプリをなんとなくインストールして、そこで出会ったのがかほさんだった。

 マッチングアプリで出会った、っていうのがなんかちょっと後ろめたい感じで、それがたぶんなんかよくて、かほさんもかわいいし、ちょっとだけどきどきした。

 かほさんはいろいろ知ってる人で、わたしの退屈をいろんな方法で潰してくれた。一緒にヴィジュアル系のバンドを観に行ったり、銃で撃つゲームをしたり、もちろん真面目な話にも付き合ってくれた。

「ゆうちゃん見てるとまあ、色々思い出すわけよ」

「またかほさん、おばさんみたい」

「まあねえ」

 旦那とうまくいってない、ってことだけはなんとなく知っていたけど、長袖しか着ないのも、あんまり想像したくなかったけどなんとなくそうかなとは思ってた。

 かほさんはたまに達観したような表情をすることがあって、わたしはそれがすごくいやだ。

 かほさんに直接そのことを伝えても苦笑いされて、それがもっといやっていうか、なんか、関係ないこっちがいらいらしてしまう。

「ゆうちゃんは優しいよね」

「怒りっぽいだけですよ」

「わたしのために怒ってくれるのは優しさだよ」

 そう言われてしまうと、こっちは何も言えなくなる。

「で、どこ行こうか」

「そうですねえ」

 できるだけ遠くがいい。そういう風に言うのはさすがにバカっぽいかなと思ったので、「とりあえず高速乗りましょう」とだけ提案した。

「でもわたし、あんまり手持ちないよ」

「わたしは持ってます」

「かっこつかないなあ」

 久しぶりの運転にビビりちらかしているかほさんの隣で地図アプリを開く。さて、ほんとにどこに行くべきなんだろう。

 正解がないのもなんとなくわかってる。でも。

「この辺とかどうですか」

「めっちゃ距離あるじゃん」

「じゃ、運転代わります」

「しゃれにならないね」

 赤信号、スマートフォンを挟んであれこれ話す。

「いいよ」

「いや、言っといてなんですけど、大丈夫ですか」

「うん、まあしんどかったら途中で乗り捨ててもいいし」

 冗談めかして言ってるけど、わりとマジっぽい。

「あの、この車って」

「そう、旦那の。ゆうちゃん的には、気に入らない」

「別に、そういうわけじゃないですが」

 変な感じ。乗り心地は良すぎるくらい良い。だからなんかいやだ、ってのもあるし、でも、じゃあすぐに乗り捨てて電車で移動しましょう、っていうのも、せっかくだからもう少しこのままドライブしてたいし。

「行けるとこまで行きましょう」

「心中してくれる」

「それはちょっと」

 安全運転で、って言葉がハモって、ふたりして笑う。

 軽口をたたいて笑う余裕があるのだ、まだ。

「あの」

「どした」

 窓の外の景色が郊外へと変わっていく中、おずおずと切り出した。

「あの、ごめんなさい」

「どのこと」

「全部」

 だって。

 わたしの一発が全部をめちゃくちゃにしてしまった。わたしを連れて車を出したかほさんには、もっとまともな、理性的な解決と将来があったはずなのだ。でも。

 ついかっとなって、なんて、そんなの、かほさんの旦那と何も変わらない。

「あー、うん。まあ、そうね」

 かほさんは慣れないハンドルに苦心しながら、言葉を選んでくれているようだった。

「ほんとはこのままなんか、法律相談所とか、そういうとこ行ったほうがいいんだろうけどね。これがさ、旦那を殺して慌てて逃げてきた、なんて二時間ドラマサスペンスならともかく」

 風景から建物の数が減っていき、インターチェンジに到着する。係員さんにどうも、と挨拶をして高速道路に入る。

「まあわたしもゆうちゃんを拐かしたようなもんだし、共犯てとこでどう」

「わたし、誘拐されてるわけじゃないです」

「世の中がどう見るかなんてわかんないもんよ。たとえば、主婦のわたしと立場ある旦那と、世の中はどっちを信じると思う」

 ましてや女子高生なんて、と言われてないのに聞こえたような気がした。

 そりゃそうなのだ。

 マッチングアプリで出会った女の子がわたしをかばって旦那を殴ってくれたんです、なんてどこをどう切り抜いても美談になりそうもない。

 いくらかの沈黙のあと、かほさんは何か思いついたようにわたしに訊いてきた。

「そこ、そう。開けてみて。ありがと、ね、たばこ入ってない」

「あります」

「ライターは」

「一緒になってますけど」

 言われるままにたばことライターを手渡すと、慣れた手つきで吸い始めた。

 なんかその仕草が変にハードボイルドでちょっとおかしい。

「かほさん、似合ってないですよ」

「まあね」

 やめて長いしね、と言いながらウィンドウを少し下げて空気を入れ換える。

「ゆうちゃん、たばこって何のために吸うと思う」

「え」

 よく、百害あって一利なし、みたいに言うけど。そのまま伝えていいものだろうか。

「ね、吸ったらただ体に悪いんだもん、意味わかんないよね」

「あの、おいしいんですか」

「全然、少なくともわたしは」

 じゃあなんで、と言おうと思ったら遮られた。

「なんだろうね、かっこつけたいのかもしれないし、早く死にたいのかもしれないし。もしかしたらその両方かな、早く死にたいってかっこつけてるみたいな。別に自殺するでもなく、人間が死ぬのに早いも遅いもないと思うけどさ」

 ほんのり甘いような香りの煙が窓に吸い込まれていく。

「たとえば意味なんてなくて、いやそれまったくあなたにとっての損だよ、と言われても、納得できないことってあるわけさ」

「それは」

「たとえばさっき、旦那を殴る決意を固めたゆうちゃんの前に何か遣い的なものが現れて、『いま殴るのをやめてくれたら十万円あげましょう』って言われたとして」

 よくわからなくなってきたぞ。

「ゆうちゃんは殴るのを止められる」

「いや、わからない、です」

 たいしたこと言ってるわけでもないはずなのに、まるでこれが大人の知恵だとでも言わんばかりのかほさんにちょっとむっとする。

「わたしが思うに、感情の瞬間最大風速って止まらないのよ」

「そんなもんですか」

「いや、人それぞれだけどね。ほら、たばこだっておいしいから吸ってるひともいるわけで」

 かわりばえしない景色はなんとなくひとを饒舌にさせるのかもしれない。

「だから、たとえばあの場でわたしが包丁持って旦那を、ってんでなくて良かったんだと思うよ、同じ最大風速にしたってさ」

「止められないと大変じゃないですか」

 かほさんは何か少し考えるような表情をした。

「うん、だからまともな人間ていうのは瞬間最大風速まで感情を振り切らないようにできるのかな、って思う。日本でもなんか最近よく見かけるじゃない、通り魔とかああいうの」

 かほさんが吐いた煙が意味深に残る。こっちの勝手な思い込みだろうけど。

「怖いなって。それもさ、ああいうひとがいるなんて怖いわね気をつけないとってんじゃなくて、いつか自分もああなるのかなって」

「そんなことはない、と、思いますけど」

「わかんないよ。たとえばいまわたしが吸ってるこのたばこの火をさ、ゆうちゃんのその、かわいいほっぺたに擦りつけようとしたらどうする」

「ちょっと、かほさんはそんなことしないでしょう」

「うん、露悪的になっちゃったかもね。でも、わたしは基本的になんていうか、やっちゃいけないことに対するブレーキの効きが悪い気がするんだ」

 心臓に悪い話だ。ただでさえこんな状況なのにやめてほしい。

「もちろん、いまからそのガードレールぶち抜いて心中しよう、なんて思わないよ。ちゃんとゆうちゃんは家まで届けるさ。でもね」

 窓の外はちょっといやになるくらい晴れていて、一枚の絵をスライドしたみたいにずっと同じ風景が続いている。

「わたしのことを殴るあのひとのことは、ちょっとだけわかるような気がする」

「自分もそうだからですか」

「別にひとを殴る趣味もないけどさ。でもなんて言うかな、やっぱ同じ側の人間ていうかね。だから一緒になったのかもしれないし」

「かほさんは、やりかえそうと思ったことはないんですか」

 やっぱり長距離の移動はひとを喋らせるのだと思った。

 喋ってなきゃ気が紛れないという話でもある。

「思うだけならね。でもやっぱり、自分も同じだと認めるのがいやだったのかもしれないし、もっとこう、諦めが早かったのかも」

「諦めたんですか」

 あ、ちょっといやな感じがする。いつもの達観。

「周りを巻き込んですべてをめちゃくちゃにしてしまえるような、そういう度胸がなかったっていうか、そんなに若くなかったっていうか」

「若さとは違いませんか」

「ああ、もちろん、ゆうちゃんに何か言いたいわけじゃないんだよ、ごめん」

 あ、そこ寄ろうか、とかほさんが指さした先にはパーキングエリアがあって、小さなカフェの看板らしきものが見えた。

 車を降りる。久しぶりに地面に足が付くふわっとした感覚。涼しい、よりももうちょっと冷たい風を感じながら入店する。

 カウンターで注文を済ませ、窓際の席に座る。

「もっとなんか、映えるやつじゃなくてよかったの」

「バカにしてます」

「いや、なんか美味しそうなやつ色々あったじゃない」

「ああいうの、高いだけでわたしは別に」

「お金持ってるのにそういうところは学生っぽいんだなあ」

「いまお金持ってるのはたまたまです」

 お待たせいたしました、と声がして注文していたものがテーブルに並ぶ。わたしのソイラテとスコーン、かほさんが注文したミルクココアとミックスサンド。

 いただきます、と手を合わせてスコーンに手を付ける。一口めで、意外とおなかが空いてたんだな、と気付く。

「それで足りるの」

「まあ、そうですね」

「小食だなあ」

「かほさんもあんまり食べてないですけど」

 普段のかほさんはよく食べる。健啖家っていうらしい。

「運転してるからね」

 窓の外までわたしをからかってるみたいな陽気で、ちょっとなんか、という気持ちになる。

 それどころじゃないのもわかるけど。

「でさ、どこまで行こうか」

「そうですね」

 本当に何も考えずに出てきてしまった。すぐに追いつかれないようにとだけ思って高速を使ったけど、後のことは何も。

「ゆうちゃんは行きたいところとかある」

「行きたいところも何も」

「まだ行ったことないところとかさあ」

 かほさんはわたしここから先の方ってあんまり行ったことないんだよねえ、とかのんきに話してる。

「ね、ゆうちゃんて修学旅行どこだった」

「中学の時は京都ですね」

「え、中学の時に京都か。いいなあ」

「全然楽しくなかったですよ」

「そっか、中学だしねえ」

 あんまり思い出したくない。でもこの思い出したくなさは多分かほさんが思っているような、ああ中学の修学旅行ってできること少ないもんね真面目だよね、みたいな話ではなくて、単にグループとか、クラスとかの中で居心地が悪いと感じていただけだ。

 わざわざ言うようなことでもないけど。

「かほさんはどうだったんですか」

「そうだなあ、出雲大社行ったっけ」

「島根ですか」

 意外と近い、とまでは言わないけど進行方向だ。

「神様に相談したら、解決してもらえますかね」

「どうだろうねえ」

 進路は決まった。あっさりと。

 追加でテイクアウト用にスコーンとサンドイッチを買って、自販機で水も買って車に戻る。

「わたし、島根って行ったことないです」

「そっか、いいとこだよ、なんもなくて」

「失礼じゃないですか」

「そっかな、何もないっていいことだと思うけど」

 わたしもまあまあ都会育ちだから、言いたいことはわかるけど。

「さすがに修学旅行の記憶だけだとあんまり思い出せないんだよね」

 でもさ、とエンジンをかけ、たばこに火を付けてから続ける。

「本当に、いいな、と思ったんだよ」

「何もないことが、ですか」

「たくさんありすぎるより、よくない」

「ないよりはあるほうがいいと思いますけど」

 若いな、とにやにやするかほさんに、いや修学旅行のときは同じくらいでしょ、とツッコミを入れる。

 車が動き出す。

「なんか音楽でもかけようか」

「いや、いいです別に」

「そう」

 少しだけ開けたかほさん側のウィンドウから風の音がして、エンジン音と混ざり合う。風のにおいと、たばこのにおいも。

「寝てていいよ」

「こんな状況でですか」

「それもそうか」

 無言。いつもはどちらかが何かしら喋っているので、なんだか不思議だ。不思議というか、何もかもが変な状況ではあるんだけど。

 現実感がない。両手を結んだり開いたりしながら思い返してみる。

 わたしはひとを、かほさんのたいせつなひとを殴ったのだ。

 仕方なかった、と言い訳することはいくらでもできる。でも結局は我慢ができなかっただけだ。

 あの男の言葉が、その表情が。

 でも、と思う。

 あの男にわたしは、何かを重ねてはいなかっただろうか。わたしがわたしとして生活している中で思うような何かを。

 父親の顔が浮かぶ。父のことは嫌いだ。母親が好きなわけじゃないけど、もっと嫌い。テレビから聞こえてくる一番不快な言葉と同じことを言うから。そしてそれは、あの男もそうだった。

 男ってなんて身勝手なんだろう。なんでみんな、あんなに暴力的なんだろう。

 だから多分わたしにとってあの男の顔は言葉は父のそれでもあって、ありとあらゆる許せない男の顔とダブっていたのだと思う。

 自分はアンパンマンではないのだと、そんなこともわからずに。

 同じくらい女を許せない男がわたしを殴るかもしれない。殴るだろう。いや、女の子だからと殴りはしないとしても、責めるだろう。

 それは偏見と偏見の殴り合いで、そんなことはたとえばこうして一発殴ってみればこんな簡単にわかってしまうのだ。

 殴ってみなければ、わからなかったのだ。

 わたしはばかだ。かほさんがわたしを可愛がってくれるのは愚かだからだ。さぞや先輩面のしがいがあるだろう。

 こういう思考がかほさんのことを貶めていることもわかっている。

 わたしはほんとうに、ばかだ。

「どうしたの」

「いえ、なんでもないです」

「え、いやいやいや」

 わたしが泣いていることに気付いたかほさんが車を路肩に止める。

「大丈夫、病院探そっか」

「違うんです」

 止まらなくなってしまった。

「ごめんなさい」

 小さな子供のように泣くわたしを前に、きっとかほさんは戸惑っている。

 わかる。

 だけど。

「ごめんなさい」

 それからどれだけの時間泣いていたのかわからない。長くて短かった。

 外はもううっすら暗くなり始めていた。

「宿、探さなきゃね」

「そうですね」

「何か食べたいものってある」

「そうですねえ」

 少し移動するとホテルはすぐに見つかった。ロビーで案内の冊子を眺めながら、夕食の店を探す。

「ねえねえ、これ」

 そう言ってかほさんが指したのはレトロな雰囲気のファミリー・レストランだった。

「行きたいんですか」

「ゆうちゃんはどう」

「いいですよ」

 かほさんは妙にはしゃいでいる。運転で疲れて変になってるのかもしれない。

「ファミレス、いいよねえ」

「そうですか」

「なんかさ、こう、チェーンじゃないファミレスなんて入ること滅多にないじゃない」

「確かに、まあそうですね」

 ファミレスじたい、あまりわたしは利用しないけど。

「みんなもうチェーン店じゃない。サイゼもロイホもトイザらスも」

「最後のだけ違いません」

「おもちゃ屋も同じ。もう個人のお店なんて全然見かけないし、あったとしても入る機会も全然なくなっちゃった」

 人生をざっと振り返ってみて、チェーンじゃないおもちゃ屋に行ったことなんてあっただろうか。

「ほら見て、メロンソーダ付いてくるんだって」

「えっ」

 店の前の、メニューに相当する食品サンプルが置いてあるところをかほさんが指さす。

「すごい、楽しみだね」

「そうですね」

 やっぱり疲れてるんだと思う。

 お店に入ると、給仕服姿のおばさんが席に案内してくれた。水と、ほんとにメロンソーダを二人分。

「え、すごいすごい」

「なんでなんでしょうね」

 確かに、目の前に、別に注文したわけでもないメロンソーダが来るのはなんとなくテンションが上がる、かもしれない。

 わたしはシーフード・グラタンを、かほさんはエビフライカレーを注文する。

「今日はお疲れ様。それじゃ、乾杯」

 かほさんがメロンソーダのコップを上げて誘う。

「乾杯」

 そうして飲んだメロンソーダは本当にべったりと甘くて、小学生の時にアルコール・ランプで作らされたべっこうあめを思い出させた。

「あまいね」

「本当に。もう、最悪」

 なんでこんな、知らない町の知らないファミレスまで来てメロンソーダをすすっているのだ。

「ていうか、エビフライカレーってなんですか」

「カレーにエビフライが乗ってるんだよ」

「わかりますよ」

「舌がさ、子供なんだよねえ」

 疲れてるときはこういうシンプルなのが一番、といって残りのメロンソーダを飲み干す。

「しゅわしゅわするねえ」

「え、アルコール入ってるわけじゃないですよね」

「大丈夫、疲れでハイになってるだけ」

 やっぱり。

 それからわたし達は、届いた料理を食べながらずっとしょうもない話を続けた。本当であれば昼のうちに、地元のカフェでしていたような話を。

 薄く切ったバゲットでソースを掬って食べるような、独特って感じのシーフードグラタンを食べ終えると、温かいほうじ茶まで出てきた。

「至れり尽くせり、って感じ」

「こんなに飲み物ばっかりいらないですよ」

「あるものは貰うのが礼儀だって」

 さっきと言ってること違いませんか、と思いつつ、かほさんが食べ終えるのを待つ。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」

 その後は特に長居もせず、レジで会計をお願いして、おいしかったです、と言い、ありがとうございました、と返ってくる。

「美味しかったね」

「そうですね、美味しかったです」

 ご飯が美味しいといくらか気分も上を向く。ホテルに戻って寝る準備をする。

「電気、消していい」

「いいですよ」

「じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 知らない部屋で他人と二人。かほさんとは初めてのことだ。

「家出しちゃったねえ」

「そうですね」

「何回目」

「忘れました」

「わたし、初めて」

 真っ暗なのに、疲れてるのに、少しだけ目がさえてしまう。

「初めて。実家に居たときも、どれだけ親とけんかしたって家を出たことなんてなかった」

 どう返事したものだろう。仲良かったんですね、なんてばかみたいなこと言うわけにもいかないし。

「ゆうちゃんは家出の先輩だね」

「なんですかそれ。部活みたい」

「いいね、家出部。インターハイ目指そっか」

 くすくすと笑う。その眠そうな声から、かほさんの表情がなんとなくわかる気がした。

「おまいりしたら、帰ろうね」

「そうですね」

 旅の終わりもあっさりと見えてしまった。本音を言えば帰りたくないに決まってる。楽しい、なんてとても言えない旅だけど、普段の生活からはとても想像付かないような、夢みたいな時間。

 終わってしまう。さみしいな。でも、眠たいな。

 まぶたを閉じる。

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