なぜ笑わないの。
シンチン
リーとミッキ
私は島から逃げることができなかった。いつも雪が虚空をふさいでいた。うそ。いつも雪が降って、いつも彼女はクッキーを焼いていた。この島から出たくないかと何度も聞いていたが、彼女は薄い笑顔で、薄い力で、頭を横に振った。
「私は島から逃げることができない。いつも雪が扉をふさいでいる。でも、リーは束縛されていない。何ものにも束縛されていない。」
リーは私に束縛されていたのだ。ここにいるために声も生命力も放棄した。彼女は言いたいことがあったとき、クッキーを突き出した。それで私の口の中は彼女の声でいっぱいになってしまうのだった。それが私たちに許された唯一の対話方法。
サクッ!
「独りぼっちになりたくない。ミッキを独りぼっちにさせたくない!」
リーの声。リーはおそらく知っていたかもしれない、リーが出たら、この家のすべてがすぐに消えてしまうことを。だから私は独りぼっちにならない。ただ、なくなるだろう。リーが初めてここに入ってきた時と同じだ。リーの瞬間とともに私は生まれ変わることができた。
リーの体はだんだん冷たくなってきて、もはやストーブの前にしゃがんで私に昔話してくれとねだるだけだった。昔のこととはいえ、リーと私、そしてこの家の短い歴史しかなかった。私は口をつぐんだ。リーは私の肩をつねた。痛くなくて、悲しい。いや、私は怒っていたのかもしれない。リーは私の肩をまたつねた。
「もういい加減にして。本当に死にたいのか。幻のために自分の命を捨てるなんて、とんでもない。行ってしまえ!」
彼女に出て行って欲しかったのは、私がいつの間にか死に対する人間本能の恐怖感を身につけるようになってからだと思う。失うのが怖い。彼女の死にゆく姿を見ていると、全身が貫かれるかのようで目を避けるしかなかった。
サクッ!
「楽しかった。それで十分。」
リーはそのまま目を閉じた。
「リー、リー。」
リーはもし自分が人形みたいにもう動けなくなったら、脈拍を聞くように言った。こうして、手首の内側を軽く掴んで。脈は、脈はー
「リー、リー、ねえ・・・」
リーはそのまま目を開けることができなかった。彼女に毛布をかけてあげた。雪は止まらなかった。ストーブに薪をいっぱい入れた。そして音楽を流した。リーが教えてくれた、リーの大好きな音楽。どうするのが正しいのか分からなかったので。私が迷えばリーが導いてくれる、それが私たちのルールだった。
まず、バターを柔らかくする。砂糖を入れ混ぜる。次は、卵と粉、チョコレート。あー、でも、オーブンはどうしよう。彼女が残したクッキーを噛んでも答えは聞こえなかった。
クッキーは焦げてしまって硬すぎ。
「ねえ、リー。サクッとしないよ、これ。変な味。」
寒気がした。ストーブに薪をいっぱい入れた。彼女の手は透明になってしまった。彼女を抱いた。彼女はこうしてくれたんだ、私に。包んでいる腕に力が入った。リーの全てが透明になるんだろう。
外に出よう!
まだ間に合うかもしれない。
陸に行く船がきっとある。
リーがよく物をしまっておいた引き出しを探った。中には小さな文字で書かれたメモが散らばっていて、消しゴムとか、なにかよく分からない化粧品などがあった。船の時刻表とか電話番号とか、きっと彼女は持っていたはずなのに。もっと奥に手を伸ばしてみても無駄だった。とっくに帰らないと決めたわけだ、最初から。しょうがないもんだ。
ピリリリリーピリリリリー
変な音が鳴った。ピリリリリーピリリリリー。確かにそれは電話のベルの音だった。 だが、家の電話はあそこで故障したまま凍っていて、今まで彼女が他の電話を使う姿を見たことがなかった。
ピリリリリーピリリリリー
絶えないその音は彼女の体から出た。私は驚きながらも、おもむろに毛布を持ち上げて、音の正体を確かめようとした。あった。リーの白いセーターのポケットから光が出ていた。ベルは鳴り響いているのに画面には発信番号も、名前も表示されていなかった。通話ボタンを押すしかない。
「も、もし・・・もしもし?」
「もしもし、こんにちは、島守です。」
島守、聞いたことない。誰なの、この人。向こうは私の反応を待っているようだった。微細に、唾を飲み込む音だけが聞こえた。
「島守・・・さん。島を出る方法教えてください。」
「そうですね、まず確認させてもらえますかね。彼女は死にましたか。」
予想通りこの人は私たちの存在を知っていた。リーの死まで。今更なぜ電話をしたのか。怒りで綴った疑問はひとまず後に置かなければならなかった。
「脈はない。手と足が透明になって・・・冷たい。」
「なるほど、わかりました。そのまま最後までいてくださいね。じゃ、ではー」
「ちょっと待ってください!」
「はい、なんでしょうか。」
「船、船はあいりませんか。」
「必要ではないんじゃないですか。」
島守はとても軽く、だが鋭く言い返した。
「いいんじゃないですか、誰のせいでもありませんし、基本的に悪いことはないじゃないですか。。彼女は選択したのです。」
「私は、私、出ます。リーを連れて出ます。」
「どうして?いずれにせよこの島は無くなるのに。退屈ですか?」
「そんなー」
「君、グタグタになりますよ、そうしたら。」
電話を切った。それ以上話してみてもその男の態度は変わらない、私だけ萎縮しかねないから。呆然としている暇はなかった。リーの全てが消えて無くなる前に船に乗せて、乗せて、そしてー
とりあえず、水ボトル、携帯、リーの財布、毛布二枚をリュックサックに詰め込んだ。あとはリーのクッキーを紙で包み、ポケットにいっぱい押し入れた。それは、私の宝物。
リーを抱き上げた。あっ、軽くなりすぎた。まだいるよ、リー、まだここにいるよ。この前カーテンを作って残った大きな布地があったことを思い出して、その端と端を結んでリーを私に固定させた。私に抱かれている彼女は、いかにも今のことを理解してくれるかのように穏やかな表情だった。私は放っておけない、ごめんね、リー。
準備は終わった。ストーブの火も忘れずに消した。最後に玄関の前に立って、しばらく見回した。うちの家、私たちだけの空間だった。ソファーの上にはまだ半分しか完成していないパズルがあった。やりきれないことばかりだったんだ、私たち。
行って来ます.
なぜ笑わないの。 シンチン @sinezin
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