マネージャーからのお願い

「じゃあ唯くん、私先に行くね」

「うん、わかった。また明日」


 絢さんはそう言って部屋を出ていった。

 俺は彼女を見送ってから、手早く出発の準備を済ませる。

 彼女が出て行ってから十分後、俺も家を出た。

 電車に乗って事務所へと向かい、レッスン室のドアを開ける。

 そして数時間、龍と優斗と新曲の振り入れをし、帰宅しようかと事務所内を歩いていると、俺だけ咲さんに呼び止められた。

 龍と優斗に別れを告げて、咲さんと二人別室に移動する。


「ごめんなさい唯。疲れているのに」

「いいえ、別に構いませんよ。それでどうしたんですか?」


 椅子に座って咲さんに要件を尋ねる。


「八月末にオーディションがあるでしょ? それの審査員をやってほしいのだけれど」

「俺がですか?」


 咲さんのお願いに面を食らって聞き返してしまった。

 審査員なんてやったことないし、夏休みのスケジュールは結構埋まってた気がするんだけど。


「いつもオーディションには一人か二人、うちのタレントに審査員をしてもらってるのだけれど、今回審査員をできそうな人たちのスケジュールが空いてないの。ある程度業界で経験があって、人を見る目が養われてる人って限られてるから」

「それで俺ですか。ちょっと荷が重いような……」

「いえ、私は適任だと思ってるわ。ただ、あなたの夏休み最後のオフを潰してしまうことが申し訳ないのだけれど」

「いえ、それは別にいいんですけど」


 スマホのスケジュール管理アプリを立ち上げて確認すると、確かにそこはオフの予定になっていた。

 一応それまでにオフの日はあるし、半日だけ仕事やレッスンの日も多いから負担にはならないけれど。


「でも今回、俺が捻じ込んだ子がオーディション受ける予定なんですけど、それはいいんですか?」

「あなたは贔屓なんてしないでしょ? 公私混同はしないと思ってるけれど?」

「それはまあ」


 絢さんがオーディションでいいパフォーマンスをしたのなら別だけれど、彼女よりもいい人がいたらそっちを推すのは当然だ。

 仮にそれで彼女との仲が険悪になったとしても。

 実力が伴わないままこの世界に入っても、苦労をするのは彼女なのだから。


「なら問題はないわ。それで審査員の件、引き受けてくれるのかしら」


 そうだなぁ……。

 断る理由は……ないな。


「わかりました。俺でよければ引き受けます」

「本当!? 助かるわ!」


 咲さんは心底ホッとしたような表情を見せる。

 思ったよりも切羽詰まっていたのかもしれない。


「ただ、オーディションが終わったら皆さんよりも早めに帰らせてもらえませんか?」

「ええ、それは構わないけれど、もしかして当日なにか用事でもあったの?」

「いえ、そういうわけではありませんけど、ちょっと……」


 今回のオーディションは当日その場で結果を告げられる。

 参加者は五十人前後。

 その中から合格できるのは基本的に一人か二人。

 光る物があればそれ以上の人数が合格することもあるけれど。

 しかし、それでも狭き門なのは変わらない。

 だからもし絢さんがダメだった時のために、彼女に対してどんな対応でもできるように時間を空けておきたかったのだ。


「こっちが無理を言って来てもらうのだから深くは聞かないわ。とりあえず、詳細は後日メールに記載しておくから確認しておいて」

「わかりました。じゃあ、俺、そろそろ帰りますね」


 俺はリュックを手に取って立ち上がった。

 まだ終電ではないけれど、そこそこ遅い時間なので早く帰宅したい。


「ええ、疲れているのに悪かったわね。送りましょうか?」

「いえ、咲さんもお疲れでしょうし。それでは失礼します」


 咲さんに会釈をして退出し、事務所を出る。

 夜道を歩きながら駅へと向かい、サラリーマンや飲み会帰りの人たちと一緒に電車に揺られ、最寄りの駅へと到着した。

 コンビニで夕食を購入して帰宅し、リュックを床にコンビニ袋をテーブルの上に置いてソファーにドサッともたれかかった。


 さーて、これからどうしようかね……。


 俺の頭の中はオーディションの審査員ことで埋め尽くされていた。

 とりあえず、俺が審査員をすることは絢さんに話さないほうがいいだろう。

 オーディションの審査員にはこれまでもベテランのタレントが選ばれていたとのことだが、それにはおそらく理由があるはずだ。

 もちろん、咲さんが言っていたように長く業界で生きていてタレントとしての人を見る目が養われているからというのもあるだろう。

 しかし、それとは別にオーディション参加者に対する仕掛けという側面もあるんじゃないだろうか。

 うちのベテランのタレントは名の知れた人が多い。

 特に芸能界を目指そうって人なら憧れの存在だ。

 そんな人が目の前にいるのなら、平常心でいられなくなる人だっているだろう。

 しかし、それがトラップだ。

 本当に集中して緊張感を持っているのなら、それくらいでは動揺するはずがないのだから。


「ただ、いくら集中していたとしても絢さんは動揺するかもなぁ」


 俺以外のタレントだったら大丈夫だとは思うけれど……。

 仮に逆の立場だったら俺も内心驚くと思うし。


「俺が審査員するってことは伏せておくにしても、それとなくアドバイスはしておくか」


 重い頭であれこれ考える。

 しかし、疲れた頭と空腹では大した考えは思い浮かばず後日考えることにして、コンビニで買ったオムライスを食べてお風呂に入り、そのままベッドにダイブして眠りにつくのだった。


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