初の稽古

 咲さんに送ってもらった翌日。

 俺は約束通り、風祭さんと昨日出会った公園へと向かった。

 少しとはいえ距離が伸びたので、ランニングのペースを上げて走る。

 そのせいでいつもより乱れた息を整えながら公園へと入ると、そこには既に柔軟をしている風祭さんの姿があった。


「ふう……。おはよう。ごめんね、待たせた?」

「おはよー! ううん、ウォームアップしてたから大丈夫だよ!」


 風祭さんに挨拶をしながら近づくと彼女も柔軟を止めて駆け寄ってくる。


「じゃあ準備はできたみたいだし、さっそく始めようか」

「はーい!」


 話もそこそこに切り上げ、俺たちは稽古をするためにブランコの前に移動する。

 そしてブランコを背にして、お互いに三歩分の距離をとって向かい合った。


「とりあえず練習は一時間でやれることをやろう。平日は学校もあるし、長々やっても集中力続かないしね。あと時間をなるべく稽古に使いたいから、俺が来るまでにウォームアップとか稽古の準備をしておいてほしい」

「うん、わかった!」

「よし、じゃあ初日だし外郎売をちゃんと言えるように練習しようか」

「あ、外郎売から? えっと、昨日オーディションがどうのって言ってたけど、それは……」

「その話は稽古が終わってからね。日曜だから時間はあるでしょ?」

「それはそうだけど」

「だよね? じゃあ、早く稽古始めるよ」

「は、はーい! ええっと、プリントプリント……」


 風祭さんはリュックから外郎売のプリントを出して、再び俺に向き合った。


「準備できたかな? まずは俺がお手本を見せるね」

「うん」


 一度深呼吸をしてスイッチを入れる。

 今回はお手本なのでストレートに、そして滑舌を意識して一音一音粒立てて喋る。

 口の動きや音の響かせ方、呼吸法、全て意識しながら喋ると普段よりも時間が掛かってしまうが、風祭さんに伝わりやすいよう丁寧に。

 四分ほどの時間を要して外郎売を言い終わった。

 すると、風祭さんから拍手が飛んでくる。


「凄い……。難しい言葉ばっかりだったのに一切噛まないし、聞き取りやすいし、私が昨日家でやったのと全然違う」

「そりゃ年季が違うからな」

「それでも本当に凄いよ。私、認識が全然甘かった」

「感心してくれるのはありがたいけど、時間も限られてるから意識切り替えて次、風祭さんやってみて」

「あ、はい! じゃあいきます!」


 風祭さんはプリントを持って足を肩幅に開きながら外郎売を読み始めた。

 発声は甘く滑舌も甘い。

 それに文字を追うことに必死になって棒読みになっているし、イントネーションも怪しい。

 一応風祭さんなりに練習してきたんだろうなということは伝わってはくるけれども、それでもまだまだ未熟極まりない。

 これはなかなか前途多難かもしれないなぁ……。

 彼女は俺の倍近くの時間を使ってようやく全てを読み終わった。


「えっと、どうだった……?」

「うん、全然ダメだね」

「やっぱり……」


 がっくりと肩を落とす風祭さん。

 自分の至らなさは身に沁みてわかっていたのだろう。

 趣味で演劇をやりたいのであれば、俺も褒めつつモチベーション管理をしながら指導したのだけれど、彼女は本気でプロになりたいと志して俺に教えを請うたのだ。

 なら、ハッキリと言わなければならない。

 彼女が未熟だということを。


「発声、滑舌、イントネーション、台本の読み方、全てが全く成ってない。文字を追うのに必死になって呼吸が浅くなって腹式になってないし、音も潰れてるし、滑舌も流れてる部分が多い。必死なのは伝わってくるけど、だからこそイントネーションの間違いにも気づいてないよね」

「あー、うん。どうしても間違えずに読まなきゃ、噛まずに読まなきゃって思ったら、全部頭から飛んでいっちゃって……」

「まあ、最初はみんなそうだよね。俺もそうだった」

「え、白鳥くんも?」

「そりゃそうだよ。俺だって最初から完璧にできるわけないんだから」


 そう言って、小さい頃の自分を思い出す。

 泣きべそ掻きながら、全然上手く読めなくて癇癪起こしてたっけ……。

 それでも両親に支えられて励まされてなんとかやってこれたんだけど。


「とりあえず一つずつ直していこうか。まずは腹式呼吸からね。俺の左右の脇腹に手を当てて貰ってもいいかな?」

「あ、はい! じゃあ、失礼します……」


 風祭さんはおずおずと俺の脇腹に両手を当ててくる。

 あまりにもそっと当てすぎていて、なんか擽ったい。


「じゃあいくよ」


 俺はふぅぅぅぅとゆっくり息を吐いて、鼻からすぅっと息を吸い込んだ。


「……えっ!? うっそ、すっご……。こんなに膨らむものなの!? ていうか、腰のほうもめっちゃ膨らんでる……」

「これはわかりやすいように大げさにやってるけど、鍛えれば誰でもこれくらいはできるようになるよ」

「……誰でもって、そ、そうなんだ……」


 彼女は自分ができるのか半信半疑なようでピクピクと頬が引き攣っている。

 これは気休めでもなんでもなく、努力で到達できる領域だ。

 やり方を覚えて練習したら、彼女もちゃんとできるようになる。


「最初は俺がやったみたいにゆっくり息を吐き切ってから、鼻から深く深く息を吸い込む。これが一番感覚を掴みやすいと思う。個人的には……だけどね」

「あの、一つ質問なんだけどいいかな?」

「うん? どうした?」

「息を吸うのって鼻でいいの? 歌だったりセリフを言う時って口でも吸うと思うんだけど、そっちで慣らさなくていいの?」

「口よりも鼻のほうが息を吸える量が多いし深く吸えるんだ。ラジオ体操とかの深呼吸も鼻から吸うし、ランニングでも鼻から吸って口から出すほうが息切れしにくいでしょ? もちろん、どっちからでもきちんと腹式呼吸を使えるのがいいんだけど、まだ意識的に使いこなせない人は腹式呼吸の感覚を掴む方が先だからね」


 やり方を知って意識したら腹式呼吸自体は意外と簡単にできることではあるんだけど、それを歌や芝居で使いこなせるようになるのはなかなか難しい。

 特に普段の日本語って胸式呼吸で喋っているからなおさらだ。

 だからまずは腹式呼吸の感覚をきちんとつかんで、意識しなくてもできるようになっておかないと安定してセリフを言うことなんてできないからな。


「そっか、教えてもらえたら確かに納得」

「わかってもらえたならよかった。じゃあ、やり方とキープの仕方を練習してみようか」

「はい! じゃあえっと、ど、どうぞ!」


 風祭さんは元気よく頷いたかと思ったら、恥ずかしそうに両手を広げた。


「えーっと、いきなりどうしたの?」

「いやあの、自分がちゃんとできてるかわかんないから、さっきの白鳥くんに私がやったみたいに手を当ててもらえると……」

「あっ……そ、そうだよね」


 そうだ、失念していた。

 俺も彼女の脇腹を掴まなきゃ、きちんとわからないか。

 お腹を見るだけでもわからなくはないけど、正確に教えるためにはやったほうがいい……よな。


「じゃあ失礼して……」


 俺はしゃがんで正面から風祭さんの脇腹に手を当てた。


「うん……んっ」

「ちょ、変な声出すなよ!」

「だって、男の子にそんなところ触らせるの初めてなんだもん!」

「言い方ぁ!!」


 仕事なら女性の身体に触れることもあったし、お互いに仕事モードだから照れることはないけれど、プライベートでこういう経験は俺も初めてだ。

 一応俺も思春期の男子だし、照れくさくなるのも仕方ないと思う。


 ダメだダメだ。真面目にやらないと……。

 仕事モードにスイッチを切り替えよう。


「んんっ……。よし、じゃあ俺がさっきやったみたいに、まずはゆっくりと息を全部吐き切って」

「ふぅー」

「そしてもう限界と思うまで吐き切ったら、ゆっくり鼻から深く息を吸って」

「ふぅぅぅぅぅ……。すぅぅぅぅぅ」

「イメージは吸った空気で腰を膨らます感じで。お腹を意識しちゃうと歌や芝居で使える呼吸じゃなくなるから、意識は腰ね」

「すぅぅぅぅぅ……んっ」

「よし、そこでキープ。俺は手を離すから、自分で触って確認してみて」


 手を離してゆっくりと彼女から離れる。

 そして俺が触っていた場所を風祭さんは掴んだ。


「この状態を覚えておいてね。そして家で練習するときも今の感覚を忘れないように。じゃあまたゆっくり息を吐いて」

「ふぅぅぅぅぅ」

「で、どうだった? やってみて」

「はあ、はあ……白鳥くんみたいに凄く膨らんだってわけじゃないけど、凄く空気で身体が支えられてる感じがした。あと思ったよりもキツい」


 呼吸を乱しながら感想を述べる風祭さん。

 そう、これは慣れてないと意外とキツいのだ。

 限界まで息を吐いて、限界まで息を吸ってキープする。

 自分の呼吸のリズムを乱すわけだし、さらには自分が今まで意識して使ってこなかった筋肉を使うことになるのだから、思ったよりも身体に負荷がかかってしまう。


「まあ、これは慣れるまでの我慢だね。毎日ちゃんと練習していたら、それに使う筋肉も鍛えられるし楽にできるようになるよ」

「わかった。頑張ってみる」

「今は外だから立ってやってもらったけど、家でやる時は昨日言ったみたいに仰向けで腰と床のスキマに自分の腕とか潰れやすいペットボトルでも挟んでやってみて。そっちのほうがわかりやすいから」

「うん、わかった」

「あと、やり過ぎには注意ね。慣れないうちからやり過ぎてしまったら、酸欠になって倒れる危険性もあるし。まずは吐いて吸ってキープを三回くらいから初めて、慣れてきたら回数を増やすようにしたほうがいいよ」


 少ない回数だと思われるかもしれないけど、最初のうちはちょっと物足りないかも……くらいで丁度いい。

 いきなりやり過ぎて苦痛になってしまったら意味がないのだから。


「今日帰ったらやってみるね。えっと、メモメモ……」


 風祭さんはしゃがみこんでリュックからボールペンを取り出し、外郎売のプリントの束を裏返しにして自分の太ももに乗せ、俺が言ったことをメモし始める。

 紙が破れない絶妙な力加減で走り書きをしている様子を見て、なんともまあ器用なことをするものだと感心してしまった。


「この呼吸に慣れてきたら、キープしたあとに息を吐く量を調整して、長く吐き続けられるように練習するのもいいよ。その時にはブレスの量を一定にコントロールするのを忘れずにね。まずは十五秒から。その後は十五秒ずつ伸ばしていって、最終的には一分を超えるのを目標に。まあこれは当分先のことだけど」

「えっと、慣れたら……呼吸をコントロール……十五秒から……よし」


 風祭さんはメモを終えて、ボールペンをジャージのポケットに入れて立ち上がる。

 残り時間は……あと三十分くらいか。


「じゃあさっきの呼吸をしながら、外郎売のこの一文だけを読む練習をしようか。まだ全文をきちんと読むには練度が足りてないから、まずは短い文を安定させて読む練習ね」

「はい!」

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