第42話 手当て
突然辺りに響き渡る大きな声。私も、そしてヴィントさえも、驚いて一瞬動きが止まる。反射的に声のした方を見ると、
(──────っ!殿下……っ!)
そこには、私たちの方に向かって一目散に走ってくるセレオン殿下の姿があった。一緒に来たと思われる護衛たちさえ置き去りにする勢いで、誰よりも真っ先にこちらへ駆けてくる。そして私をヴィントから引き剥がすと彼を思い切り突き飛ばし、
「…………っ!!」
その手で私を、強く抱きしめた。
(……セ……、セレオン、殿下……っ!)
あまりの驚きに、息が止まる。
殿下が……、私を抱きしめている。
大きなその手は私の背中に回り、まるで全てのものから守り包み込むかのように、すっぽりと私をその胸に抱き寄せたのだ。
殿下の爽やかで甘い香水の香りがふわりと鼻腔を刺激し、私の心臓が大きく高鳴った。急激に頬に熱が集まる。
「この者を捕らえよ!」
殿下の声とほぼ同時に、追い付いた近衛兵たちが、突き飛ばされ尻もちをついていたヴィントを捕縛した。
「う……、あ……、ま、待ってくれ……っ」
「……貴様、今何をしていた」
締め上げられるヴィントに向かって、セレオン殿下が怒りの滲んだ声でそう問いかけた。殿下は相変わらず私を抱きしめたままだ。むしろ私を抱き寄せるその腕には、さっきよりも力がこもっている。
ようやくこの方が誰であるかに気付いたらしいヴィントの顔が、瞬時に蒼白になった。
「セ……ッ、セレオン、お、王太子、殿下……っ!」
「ミラベル嬢に何をしていたと聞いている!」
その気迫に、ヴィントのみならず周囲にいた誰もが息を呑んだ。私も思わず身を固くする。今のセレオン殿下は、普段見せる温厚で穏やかな姿とはまるで別人のようだった。
ひ……、と声を漏らしたまま魂が抜けたような顔をして殿下を見つめているヴィントに代わって、いつの間にか私たちのすぐそばにまで来ていたジーンさんが淡々と言った。
「あなたは今ミラベル嬢の腕を捻り上げ、彼女の髪を鷲掴みにし引っ張っていましたね。どこの何者かは知りませんが、無許可で王宮内に立ち入り、王女殿下の教育係であるミラベル嬢に暴力を振るっていたと。そういうことで間違いないですね」
「っ?!あ、や、いやっ、ちっ!……違いますっ!違うんです、王太子殿下。こっ、これは……っ、か、彼女と俺には、事情が、ございまして……っ。あ、あちらのご令嬢が、お、俺に協力してくださって、王宮に……っ」
ヴィントが額に汗を浮かべ、しどろもどろになりながら言い訳をし、離れたところに呆然と立っていたウィリス侯爵令嬢の方を顎で示した。セレオン殿下、ジーンさんを含め、全員が一斉に彼女の方を見る。殿下は低い声で静かに言った。
「……ダイアナ嬢。首謀者はあなたか」
「な、何を……っ!まさか!違いますわ、殿下。誤解なさらないでくださいませ。私も彼に……」
「ダイアナ・ウィリス侯爵令嬢。失礼ですが、あなた様にも事情説明をしていただきます。王宮内に部外者が無断で入り込み、中の者に暴力を振るっていた。その現場にあなた様もいらっしゃったわけですから。見聞きしたこと、そして知っていること、また関与したことがございましたら全てを話していただきます」
縋るような目でセレオン殿下を見つめ、何やら言い訳しようとしていたウィリス侯爵令嬢に向かって、ジーンさんはまるで判決文を言い渡す裁判官のような容赦のない口調でそう言った。
ウィリス侯爵令嬢の顔から、みるみる血の気が引いていった。
セレオン殿下の腕の中に収まったままの私が、そのまま周囲に視線を巡らせると、
(っ!……アリューシャ様……)
殿下が走ってきてくださった方向に、心配そうな目をして私を見つめポツンと佇んでいるアリューシャ王女の姿があった。
「……可哀相に……。こんなに腫れてしまって……」
あの後、ヴィントとウィリス侯爵令嬢はそれぞれ衛兵たちに連れて行かれた。そして私はセレオン殿下に守られるように肩を抱かれたまま、殿下のお部屋まで連れてこられた。私の手当てをしようとしてくれる侍女たちの手を制しながら、殿下は自ら私の頬に氷を当て冷やし、薬を塗ってくださった。
至近距離で私に触れながら、心配でたまらないといった眼差しで私を見つめる殿下の視線に、いたたまれないほどの気恥ずかしさを覚える。私は視線を床に落としたまま殿下の手当てを受けた。まさか王太子殿下自らが、私なんかにここまで手厚くしてくださるなんて……。
「……お騒がせしてしまいました、殿下。申し訳ございません……」
「なぜ君が謝る?君は何も悪くない。……アリューシャが、私の部屋に飛び込んできたんだ。二人で話がしたいと言って、ダイアナ嬢がミラベル嬢を庭園に連れて行ってしまったと。それを聞いて嫌な予感がしたから、すぐに後を追った。まさかあんなことになっているとは。……君があの男に連れ去られなくて本当によかった」
「……そうだったのですね……」
(アリューシャ様……。ウィリス侯爵令嬢の言葉を聞いていたんだわ。……ありがとうございます)
私たちが廊下の角を曲がった後、お部屋から顔を出したのだろうか。気にかけてくれたおかげで、最悪の事態にならずに済んだ。感謝しなくては。
そのアリューシャ王女は、まだ授業があるからとセレオン殿下に促され、渋々部屋に戻っていった。
「……あいつが、……あの男が、君の……?」
「……っ、」
薬はもう塗り終わってるはずなのに、いまだ私の頬に手を当てたまま殿下は私の瞳をじっと見据え、そう尋ねる。気まずさと、その真っ青な瞳の美しさにドギマギしながら、私は腹をくくって答えた。
「……はい。私の元夫の、ヴィント・ハセルタイン伯爵です。よほど困窮しているのか、私がここでいただいている給金を渡せと迫ってきました。……実は先日も一度、私を訪ねて王宮の門の前まで来たことがあるんです」
「……。そうか」
「もしくはもうこのまま一緒に、ハセルタイン領に戻れと。戻って以前のように領地の仕事をしろと。そう言って連れ戻されるところでした」
「冗談じゃない」
私の言葉を聞いた殿下の口調が、少しきつくなる。
「君がかつての夫の領地に戻る理由はない。もうとうに無関係なのだから。もちろん、あの男が二度とこんな真似をできないよう相応の処分を下すつもりだ。君はもう、何も心配しなくていい。……怖い思いをしたね」
そう言うと、殿下は私の頬をそっと撫でた。その優しい仕草は、あまりにも私を特別扱いしてくださっているようで、つい勘違いしてしまいそうになる。殿下は、お優しすぎる……。
どうしようもなく胸がドキドキして、目を合わせていられない。動揺を悟られたくないと思えば思うほどに、頬がどんどん熱くなる。……恥ずかしい。どうしてこんなにずっと、殿下は私に触れているのだろう。
殿下の手のひらがわずかに、私の唇にも触れていた。
「……。」
「……。」
そのまま俯いていたけれど、殿下が黙ったまま何も話さなくなってしまったことが不安になり、私はおそるおそる顔を上げた。すると、
「っ!」
目の前のセレオン殿下は、真剣そのものの瞳で私のことだけを見つめていた。他の何も目に入らないとでもいうように、ただ私のことだけを。その美しい瞳を見つめ返していると、心臓が狂ったように暴れ出す。
私の唇が、少し震えた。
「……手首も見せてごらん」
ふいに殿下が目を逸らすと、今度は私の手をそっと持ち上げ、赤くなってしまった手首を撫でる。骨が折れるんじゃないかという強さでヴィントに掴まれていたせいだった。
「……君は、大切にされるべき人だ。二度とこんな目に遭わせるものか」
「……っ、」
小さくそう呟くと、殿下は侍女に命じてまた薬を持ってこさせ、私の手首の手当てを始めた。
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