第六話 でうす様の血の涙

 早朝、朝靄が広がっていた。昇り始めた陽は靄によりかすみ、淡くぼんやりと輝いていた。冷たさを増すようになってきた風が頬を撫でていく。


 静かだった。


 大勢の敵兵がこの靄の向こう側に潜んでいるとは思えないほど、静かな朝を迎えていた。


 この靄の向こう側に椿の敵、富岡城城代、三宅重利がいる。


 天草に到着した椿は村々を回り立ち返りを促し、藩に反旗を翻すよう促して回ったそうだ。

 村々を回って行商を行っていた椿の美貌は方々に知れ渡っていた。人気も高く皆に慕われていた。多くの村人が椿の元に集まったそうだ。


 椿の統率の下、村人達は奮戦し戦況を優位に進めていたそうだ。そんな椿の存在を危惧した三宅重利は、椿を孤立させるために村人達の家族を卑怯にも人質に取り、手むかえないようにした。


 それでもなお椿は奮戦していたらしいが、三宅は人質をどんどん増やし従わせる村人を増やしていき、頭数で圧倒し椿を追い詰めていったそうだ。


 追い詰められた椿は松右衛門殿等、蜂起した者を逃し自分は生き埋めにされてしまったそうだ。


 椿はどんな思いで最後を迎えたのだろうか。


 さぞ無念であったであろう。


 だが、椿を追い込んだ三宅の卑怯な策を逆手に取って、私達は敵陣営に入り込んでやった。


 その無念、必ず晴らしてやる。



 朝靄がかかっているのはこちらにとって好都合だった。靄がこちらの気配を消してくれるからだ。音が立たないように気をつけながら敵陣営の後方部分側へ人を移動させて行く。


 私達が夜の間に川を渡り、人質を取って従わせていると思っている村人を寝返らせ、取り囲んできているなど夢にも思っていないことだろう。


 このまま突っ込んで行き三宅の首を取りに行く予定だ。


 敵陣後方に移動して来た頃には靄はだいぶ晴れてきていて視界が広がってきた。陽が広がり青空が広がっていく。


「これも四郎様のお力のお陰ですな」


「四郎様には天候すらお味方するようでございますな」


 味方が移動している間は気配を消してくれるように靄がかかり、移動し終えた頃には靄が晴れる。偶然とは思えないような出来事が重なっている。


 神のご加護に助けられているような気がする。


「皆、準備は良いか?」


 皆の表情は一様に朗らかだった。これから戦場に向かうというのに一様に朗らかだった。皆無事でいて欲しい。誰一人死んでほしくない、そんな思いが溢れてくる。


 私は天に祈りを捧げる。


 皆に祈りを捧げる。


 皆の無事を祈り、十字を切り、目を閉じ祈りを捧げる。


 どうしたのだろうか。


 申し合わせではここで突撃の合図が鳴り響くはずであったのだが、鳴り響かなかった。

 私の祈りが失敗してしまい、敵側に何も起こらなかったので中止になってしまったのだろうか。


 いいや、そんなことはない。頭数でこちらが断然有利になっているのだ。私が祈りを捧げた後、敵兵に何の変化がなくても攻め込む手筈になっていた。一体どうしたのだろうか。


 私はゆっくり目を開けた。


 恐る恐るゆっくり目を開け、辺りを見渡してみた。


 全員が上を向いて空を眺めていた。


 眺めている者達の表情は驚いて目を見開いている者、恐怖で顔面蒼白になっている者、涙を流し天を崇めているような様子の者までいた。


 何が起こっているのかと思い私も見上げると、驚愕の光景が広がっていた。


「な、なんだ、これは?」


「なんだこれはって、四郎様がやられたことではないのですか?四郎様が祈りを捧げた後にこのようになってしまわれたのですよ」


 松右衛門殿は見た事がないくらいに慌てふためいた様子で呂律が回ってなく、不可解な身振り手振りを繰り返しながら上空を指し私に言ってきた。


「分からん」


 こんなの分かるはずもない。墨汁を水の中に落とした時のような糸状になっているような、煙状になっているような、帯状のものが上空に浮かび揺れ動いている。


 そんなものが空に浮かんでいるだけでも奇妙だというのに、奇妙さをさらに増すように色は朱い色をしていた。


 空に朱い波が現れ揺れ動いていた。


 朱い旗が靡いているように揺れ動き、移動しては消え、また別なところから現れては消えるを繰り返している。


 上空に現れたこの怪現象に敵、味方とも全員が惚けたように口を開け眺め続けていた。誰一人身じろぎひとつせず棒立ちとなっていた。


 その時、獲物を捕らえるように、低空を滑空する鷹のような動きをする者がいた。敵陣を音もなくすり抜けて行く、その素早い動きに誰も反応できる者はいなかった。


 敵陣深く入り込んだところで飛び上がった。


「敵将、三宅重利、かくごーっ」


 刹那の出来事だった。大蔵の動きに反応できる者など誰もいなかった。敵は大将の首が斬り飛ばされても、誰一人何が起こったのか分かっていないようで呆然と佇んでいた。


 現実に起こった事だと受け入れることができない。そんな様子だった。


「皆の者ー、聞けー。お主達の度重なる背信行為に、でうす様が血の涙を流されているぞーっ。しかし臆することはない。一度洗礼を受けた者は、信仰を捨てたとしても、でうす様からの慈愛は生涯変わることはない」


「お主達を欺いていた逆賊、三宅重利はここに討ち取った。でうす様の慈愛に応えるべく、現世に遣わされた天の御子様と共に逆賊を一網打尽にすべく立ちあがろうぞーっ」


「おぉーっ」


 城方の兵達は抵抗すらできなかった。大将を失い指揮系統が崩壊したのもあるが、上空に起こった怪現象に魂を奪われ、奮起した村人達に抵抗することも忘れ棒立ちとなっていた。


「手向かわぬ者には構うなーっ。家族を助けに富岡城に行くぞーっ」


「おぉーっ」


 大蔵の言葉に奮起した村人達は瞬く間に、抵抗することを諦めた城方の兵の脇をすり抜けて行く。そして勢いそのままに富岡城に押し寄せることとなった。


 後はもう村人達に任せておけば大丈夫だろう。私達は早く戻って幕府軍を迎え討つ準備をしなければならない。


「しかし大蔵、あれだけの方便よく思いついたな。前々から考えていたのか?」


「考えていた訳ないだろ」


 私の言葉にいつも以上に慌てふためいた感じで弁明してきた。大将首をあげるという大手柄を立てた者には到底見えなかった。


 もう少し揶揄ってみたい気分になった。


「血の涙なんて、どこでそんな表現覚えたんだよ。教典に書いてあった粋な表現を使ったら、格好良く思われるんじゃないかと思って使っただろ」


 意地悪く言った私の言葉に大蔵はさらに慌てふためいた。


「違うわっ、俺の語彙力があるからこそなせる技だっての、だいいち四郎があんなことできるなんて知らなかったんだから、あらかじめ用意できるものかっ」


 まあ確かに私だって空を朱く染める力があるなど知らなかったのだから、大蔵が知っていてあらかじめ用意できていた訳がないのだが、何をそんなに慌てふためいているのだろうか。


 上空に朱い帯が浮かび上がったのが私の力だったのかどうかは分からないが、大蔵が上手く講釈してくれたお陰で、村人達は奮起し圧勝に次ぐ圧勝となったのだった。


 天草に活力のある風が戻ってきた。この地はもう大丈夫だろう。

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