第三話 水の上を歩ける者がいるだろ

 天草、温暖な気候に恵まれたこの大地は作物の実りもよく、食に困ることなどなかった。人も切支丹信仰者が多いためか皆、穏和で争い事を好む者などいなかった。


 いつからこのような状況になってしまったのだろうか。


 私はただあの頃の、穏やかな風が吹いていた天草に戻したいだけだ。


 皆の注目を集めるために高台に登り大声を上げた。


「迷える子羊達よ。聞いてくれ。私達の向かう先に待っているものは天の楽園である。しかしその道中は決して楽なものではない。数々の苦難が待ち受けていることだろう。今はその時だっ。心を閉ざすなっ。前を向かれよっ。私達の向かう道はただ一つ。私に従えば天の楽園への道は開けるであろう。私に力を貸して欲しい。私と共にこの先の天の楽園に行こうぞーっ」


「おぉーっ」


「信じられない。流石は四郎様だ。気鬱状態だった者達の目に輝きが戻った」


 よし、八方塞がりで意気消沈していた民達に、意欲を取り戻してやることが出来た。向かうべき方向を示し活力を漲らせることができた。


「さっすが、御子様。やることが違いますねー」


「今のはお主の真似をしてみた」


 私を揶揄してきた大蔵だったが、思わぬ返答が返ってきて目が点になってしまっていた。


「お主が目的を与えてやれば、皆の士気は高まると言っていたんだろ」


 私の言葉はお主の言葉を真似ただけだと言い直すと照れくさそうに笑い、私を揶揄したことを後悔したようだった。


「大蔵殿が考えた言葉でも四郎様の口から発せられるから効力があるのです。貧相な者の言葉では効力は持ちません」


「それはどういう意味だよっ」


「言葉そのままの意味じゃ」


「なんだとっ」


 松右衛門殿は私の仇討ちのつもりなのだろうか、揶揄してきた大蔵に仕返しをしているようだった。


 場が和み一安心する。


 皆、私と同じだったのだ。一時的に進むべき方向を見失ってしまっただけだ。方向を示せば元通りになる。


 心を蘇らせることはできた。後は手段だ。何か打開策を見つけなければならない。


 川を越え、多勢の敵を蹴散らし大将の元まで行かねばならない。何か良い手段はないものだろうか。


「富岡城にこっそり乗り込んで、人質を解放させるか。そしたら一気に形成逆転だぜ」


「川を渡れないから困っているのに、その先の富岡城に乗り込めるものか」


 意気揚々と語った大蔵にいつも以上の冷淡な態度で返すと、大袈裟なくらいに目を見開いて惚けた顔をしてきた。


 こらこら、もうおふざけの時間は終わりだぞ。真面目にやらんか。


「わざわざ城に乗り込んで人質を解放しなくとも、向こう岸に四郎様が渡ることさえできれば、向こうの民は全て寝返ると思われます」


 松右衛門殿は敵大将の首を狙うことより、まずいかにして安全に川を渡るかを考えた方が良いのではと提案してきた。


 現状は川を挟んで対峙している状態だ。松倉が帰国すると分かった以上、一刻も早く事を収めなくてはならない。

 無理に川を渡ろうとすれば狙い撃ちされるし、渡れたとしても兵の数は此方が圧倒的に不利。悟られずに向こう岸へ渡る方法などあるのだろうか。


 方法が見つからない。完全に手詰まりだった。


「忘れてないか四郎の力を」


 陽気な態度のまま大蔵はそう言ってきた。妙案があるとは思えない。大蔵の冗談に付き合っている暇はない。

 場の雰囲気を変えたい気持ちは分かるが、少し黙っていてくれとの意味を込めて肩に手を乗せた。


「四郎は水の上を歩けるんだぜ」


 大蔵は私の手を払いのけると、嘲笑うかのように言ってきた。


「おぉー、そうか。四郎様のお力を持ってすれば向こう岸へ渡れるではないか」


 しかし、一人で向かって仕舞えば標的になるだけだ。向こう岸には切支丹でない者も大勢いる。一人で向かわせるのは危険ではないか。


 なら少し離れた人気のない場所を渡って貰えばよいのでは?


 それでも危険だ。もし見つかってしまったら川の中程では援軍に行くまで時間が掛かってしまう。そんなことはさせられない。


 などの応酬が始まった。


 私が川の上を歩いて渡れることを前提にして話を進めているようだが。大蔵は知っているだろ。歩けるかどうかは日によるということを。


「なら俺が先に向こう岸に渡って、向こう岸の安全を確保する」


「渡れないから困っているんだろ。大蔵殿は水の上を歩けないだろ」


「橋まで行って戻って来る」


「橋まで行って戻って来るまで、一日以上掛かると言っただろ」


「大丈夫だ。直ぐ戻ってくる。四郎、聞いておきたいんだが闇夜の水渡りはしたことはあるか?」


「ない」


 一瞬返答に迷ったが、正直に答えることにした。


「分かった。夕刻までには戻ってくる」


「夕刻までにはって、もう日は登りかけているぞ。無理だ」


「分かっているって、分かってるけどやるしかないだろ。それより俺が戻って来るまで縄梯子用意しとけよ」


「縄梯子?」


「そうだよ。四郎が川を渡るときに綱を持たせて渡って貰うから、お主等はその縄梯子を頼りに渡って来い。夜が明けたら半数が正面から攻撃、半数は裏手に回って大将の首を取りに行く。それでいいな」


「いいな、じゃない。そんな物、都合よくあるものか。あったとしても綱だけの橋など不安定で渡れはせん」


「誰も綱渡りみたいに渡ってこいなんて言ってないだろ。縄に捕まって川底を歩いてくればいいだろ。渡れればいいんだよ。渡れれば」


「縄梯子があったとしても陽が沈む前に、戻って来れるわけなかろう。そこが一番の問題じゃ」


「大丈夫だ。必ず戻る」


 大蔵は私に屹然とした視線を向けたまま、はっきりと断言した。


「分かった。私はお主を信じよう」


「四郎様、良いのですか?」


「良い。お主達も覚悟を決めるんだ」


 大蔵の存在が眩く輝いて見えた。


 陽気な素振りをして場を盛り上げようとしているなんて勘違いだった。大蔵は先を見据え答えを出していた。

 私が下を向いてしまっても大蔵は下を向くことなく前を向いている。改めてすごい奴だと思った。


 大蔵は必ず戻ると言った。私も必ず渡れるよう準備をしておこう。


 その後、大蔵は迷わず上流の橋に向かって走って行った。上流の橋と下流の橋、どちらに向かうのが楽かを考えれば、平坦な道になると思われる下流側だろう。


 しかし、迷うことなく上流に向かって走って行った。下流側に向かう方が楽だと考えられるから、下流側に行けば妨害が待っているかもしれない。なら上流に行くべきだな。そう言って迷うことなく走って行った。


 本当に迷いのない奴だ。


 私も上流へ向かい歩き出す。岩が切り立っていて、川幅が狭く流れが激しい場所。そこを渡って来るなんて考えてもいないだろう。見張りも立てていないだろう。だからそこを渡る。


「四郎様、ここをお渡りになられるのですか?」


 向こう岸の様子を伺うと人気は感じられなかった。ここに決めたと思い、流れを見つめていると松右衛門殿から心配の声が上がった。


 普通に立って渡ることも難しい程の激流だった。ここまでの激流では流されて仕舞えば、流れに呑まれ浮上するのは困難だろう。


 いつもは流れなどない泉の水で練習を重ねていた。激流の上を歩くことなどできるのだろうか。

 

 いや、歩かなければならないのだ。


 大蔵も無理を承知で戻ってくると言ったのだ。その無理を押し通したのであれば、私も無理を承知で渡らなければ面目が立たない。


 水面を歩く骨は、水と意識せず普通の地面だと思って歩を踏み出すこと。


 川辺に座り込み流れをじっくり観察することにした。流れは激しいが川幅は狭く、中程付近に岩が突き出ている箇所がある。

 岩があるお陰で両脇をすり抜けて行く流れは激しさを増しているが、あの岩で一旦休み、呼吸を整えることが可能のようだ。


「四郎ーっ」


 お主は本当に人間か?


 大蔵と別れ幾許も経ってないと思われる。


 辺りが暁色に染まり始めた頃、対岸から大蔵の声が聞こえてきた。そうだよな、体力お化けのお主なら必ず戻ってくると思っていたが、早すぎる。私の心の準備が整っていないぞ。


「信じられん。本当に戻ってきよった」

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