第2話

「九月まで夏休みなんだから、お盆中に帰らなくてもいいのに・・・」

 そう言う母に、追試の勉強をしなければならないなんて言えない。いろいろ理由を並べてJRに乗った。

 車内に客は少なかった。じゃまにならないよう、キャリーバックを通路に立て、座席に座った。


「ああぁ、久しぶり!座っていい?」

 顔を上げた目の前に、あの憧れの久美さんがいた。

「ご無沙汰してます。座ってください・・・」

「ありがとう!あなたに、会いたかったの!」

 相向いの席に座った久美さんが僕を見つめた。僕は久美さんを見つめて久美さんの名を呼んだ。

「久美さん・・・」

「なあに?」

「僕も会いたかった・・・」

「うん・・・」

 久美さんが僕を見つめたまま微笑んだ。

 少し垂れ目の長い睫毛の二重、穏やかで優しい眼差しはかつてと少しも変わらない。久美さんの弟に会いに行くたびに、久美さんはいつもこの眼差しと笑顔で僕を迎えた。久美さんに迎えられるたびに、僕は羽毛に包まれたような感覚に満たされた。あの感覚がまた僕を包んでいる。

 ずっと大好きだったと言って久美さんを抱きしめたかったがここではそうはゆかない。思いを告げたら拒否されるかも知れない。僕は久美さんに対する気持ちを意識の片隅に追いやり、久美さんの弟・藤男の様子を尋ねた。最近、久美さんの弟に会ったのは三月だ。交通事故で入院していて退院したばかりだった。


「入院中に看護師と親しくなって、臨床検査技師になるって言って、今、専門学校。

 できるだけ早く国家試験を受けるって」

 久美さんは浮かない顔だ。久美さんの困惑を感じてどうしたのか尋ねた。

「相手に子どもがいるの。もう三歳かな。

 他人の子どもを押しつける相手を許せない気持ちもある。でも、あたしに子どもがいたら、あたしと子どもを愛してくれる相手でないと困る・・・。

 弟はまだ二十歳前よ・・・。ああ、あなたと同じだね・・・。

 本人同士の問題だから、あたしは何も言えないけど・・・」 


 久美さんの弟は何でも笑い飛ばして気にしない性格だがけっこう緻密な思考をする。怒ったふりして相手を威圧して本音を聞き出し、あとで僕にこっそりと打ち明けるような作為的なところがある。だから決して騙されない。相手をうまく御するだろう。

 僕の説明に久美さんはほっと溜息ついた。



 JRから新幹線に乗り換えた。自由席は混んでる。車内まで進めず、久美さんと僕は入り口近くに立っていた。混雑のため冷房は効かず、久美さんの頬がどんどん赤くなってゆく。洗面室やトイレ付近も乗客が居て身動き取れない。

 僕は久美さんをキャリーバッグに座らせ、バッグからノートを取り出して久美さんを煽いであげた。すると久美さんが僕の腕を引いた。耳を近づけるよう眼で示して、僕の耳元で囁いた。

「ありがとう。でも、人いきれで、辛いの・・・」

「じゃあ、次の駅で降りて、次の新幹線に乗るか、JRでゆく?」

「ううん、次の新幹線も、同じように混んでるはずだから、このまま行く・・・。

 近くにいてね。あなたの匂いの方がいいから・・・」

 久美さんは僕の腕を握ったまま耳元で囁き、腕を離さない。

 僕はいたずらっぽく、久美さんの目を見つめた。

「お姉さんのいい匂いがする、ずっと包まれていたいな」

「ばか、お姉さんをからかうんじゃないの」

 笑いながら、久美さんが僕の耳元に顔を寄せ囁く。

「でも、あたしも、そうかな・・・。

 そうだ!あたしのとこに来ない?明日はまだ休みだし、有休もあるから、弟が来たと言って休みを取るよ。都内に来たことある?」

「行ったことないよ。大学は都内の近くだけれど、僕は人混みが苦手なんだ」

「ないのね!都内、案内するね。あなた、夏休み、九月半ばくらいまででしょう?」


 以前はたしかこの段階で久美さんの誘いを断ってる。そして、大学の学生寮に戻って追試の勉強をしたが、久美さんの誘いを思い出して勉強が手につかず、夜な夜な遊び歩いていた・・・。

 追試までひと月近くある。今度は久美さんの誘いに乗るべきだ。

「うん。じゃあ、そうするよ!」

 僕は久美さんの家へ行くことにした。

「ああっ、うれしいな!」

 久美さんは混み合う乗客のあいだで僕に頬ずりした。僕の頬がいっきに熱くなるのを感じて久美さんは笑っている。

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