声が聞こえる

ちーそに

第1話 春の風

 朝、自分の部屋で起きると四月の薄寒い空気を毛布からはみ出た足先で感じる。ひとしきり固まった体をほぐして、足の踏み場もない部屋に置かれた折りたたみ椅子に座る。定位置。


 小さなテーブルの上にハムとチーズの簡易なサンドイッチがラップに包まっている。母が作ってくれたのだろう。もう家には誰も居ない。妹は部活の朝練、母は仕事に行っているはずだ。父は……元々居ない。


 遠くからは小学生のはしゃぐ声がする。誰も居ない家のひとりぼっちの部屋では、壁掛けの時計がカチカチと均等な音を立てて何かのタイムリミットが近づいているような感覚に陥る。


「私もそろそろ行かなきゃ」


 母の愛情を乱暴に口に詰め込んで、洗面所に降りた。うがいや歯磨きなど、人であるための最低条件を満たして鏡に向き合うとそこにはちゃんと人間の顔が写っていて安心した。もし、心を写す鏡があったら私はどんなふうに写るだろう。きっと形容できない。そんな物が存在しなくてよかった。


 開け放った格子の小さな窓から小鳥の声が入ってきて、早朝をよく実感できる。窓の外には広い売り土地があって種々雑多な草花が芽吹き始めている。


 寝巻きから制服に着替えて玄関を出る。どうしてこうも時間通りに出られないのだろうか。襟に付いている長岡東高等学校と書かれた霞んだ校章が、朝日を受けて濁った光を反射している。


「夏美ー! 遅れるよ!」


 前を通りかかった春子が大きな音でブレーキをかけて止まり、こちらに手を振る。


「また寝坊? ほら、早く後ろ乗りな! 先生にバレないところまで乗せてってあげる」


「ごめんよ、春子〜。いつも重いでしょ」


「あんたのせいで足ムキムキよ」


 そう言うとギアを変えてムキムキの足の真価を発揮する。ガリガリと音を立てるチェーンに春子の汗が落ちる。


「もうこの辺でいいよ。春子も遅れちゃう」


「いいの、いいの。一番近くまでバレずに行けるとこ見つけたんだから」


 スピードを少し上げていつもと違う道に入り、学校を目指す。朝、生徒を危険から守るために近くを徘徊している先生達のルートを見事に避けて、駐輪場のフェンスを隔てた裏道に見事辿り着いた。

「ほら、このフェンス乗り越えたらすぐでしょ! じゃあね!」

「あ、ありがとう、ごめんね」


 急いで校門に向かう彼女の耳には届かず、あたりの空気に溶けた。フェンスを乗り越えて校門のほうを見ていると、少しだけ間に合わなかったのか学年主任に横断旗の棒で軽く叩かれていたのが見えた。


「悪いことしちゃったな。後で謝らないと」


 クラス替えの後間もない教室に入って席に座った。仲の良かった人と同じクラスになれた人や全然馴染めそうにない人や新しく友達を作ろうとする人などで、教室内は絶妙な空気感だった。お互いに牽制し合う獣のようだ。少し遅れてチャイムと担任の先生と春子が同時に教室に入ってきた。先生は春子を、またか……と少し睨むと教卓についた。


 隣の席に滑り込んできた春子にごめんねと言うと、怒られちった。と無邪気に笑う顔をこちらに見せた。可愛らしく、愛嬌がある春子は、先生から気に入られて友達も多い。そこには裏付けされた春子の可憐さがあるのだと思った。


 春の風が教室のカーテンを揺らして空間を満たすと、授業は記憶に残らないほどあっという間に過ぎていった。春風の中眠っていたからかもしれないけれど。春子は相変わらずドジをいくつか披露して、みんなに笑われていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る