波は砕けて水泡に帰す

いいぐさ

親愛なる君へ

1.親愛なる君へ  


 Nは私宛てにも遺書を書き残していた。

私がNの死を知ったのは母の口からだった。Nが自死を選んだこと、それ自体に驚きはなかった。もとより、彼はどこか危うげな、死に近いような、いわばそういう人間だったからだ。私にとって彼は一番の親友だった。彼にとっても、きっとそうだった。私は彼の葬儀には行かなかった。行けなかったと言う方が適切だろうか。実のところ、彼の死の報せを聞いてからの数日は一切のことが手につかなかった。いつかその日が来てしまうことは分かっていた。Nの生き方を鑑みれば、それは自明であった。ただそれでも、彼の存在が私にとってあまりにも大きかった。その事実を私は、彼の死に際してようやく痛感したのであった。

 私がNの実家を訪れる決心がついたのは、彼の葬儀が執り行われてから一週間あまりが経った頃だった。


 雨足は幾段と激しさを増し、遠雷は絶えず街に轟いていた。Nの実家は閑静な高級住宅街の一角にあった。以前からNの両親とは面識こそあったが、直接口を交わしたことは殆どなかった。私は緊張によって指を震わせながらインターホンを鳴らし、それを紛らわすために声高に名乗った。冷たい雨が風に煽られ、みたびアスファルトに激しく打ちつけては弱まるのを繰り返したのち、荘厳な西洋式の玄関の戸がゆっくりと開いた。Nの父はその隙間からこちらをそっと伺うようにして半身を覗かせた。彼は悪天候の中一人佇む私と目が合うと、幾分、戸惑いの色を見せながらも、快く、私を家の中へ招き入れてくれた。

彼は歓迎の言葉をいくつか述べてから優しく微笑んだ。

「君のことはNからよく聞いていた」

その表情には多少のぎこちなさがあった。そして当の私も、息子を自死によって亡くした彼を前にして、一体どんな表情でいればいいのか分からなかった。私はNの父に言われるがままテーブルにつき、彼がコーヒーを淹れている間、ある種、驚きの感情を抱きながら部屋を見回した。高い天井、典型的な北欧家具の数々、年季の入った木目調のピアノ、壁に飾られた絵画。まるでドラマのセットのように理想的な空間に思えた。その一方で、絶えず窓を激しく打つ雨の音はその空間の空虚さを強烈に印象付けた。ふと視線を落とすと、テーブルの上に置かれた小さな白い写真立てが目に入った。覗きこむようにして見てみると、写真の中で、美しい海を背にして穏やかに笑うNの姿があった。私は彼の笑顔を久しく見なかった。ちょうど彼に変化があった頃から。

「家族旅行で沖縄へ行った時の写真です。ちょうど四年ほど前かな」

そう言いながら、Nの父が二つのコーヒーカップを手に向かいの席につくと、二人の間には沈黙が訪れた。私もNの父も、カップからほのかに立ち浮かぶ湯気をぼんやりと眺めていた。その静寂はほんの一瞬だったようにも、とてつもなく長い時間が流れたようにも思えたが、決して居心地の悪いものではなかった。敢えて言うならば、それはむしろ穏やかなものだった。沈黙を破ったのは彼の小さな咳払いだった。それから彼は Nの遺書についてゆっくりと話し始めた。Nが遺書を遺していたこと、それがNの家族一人一人への手紙と、現場付近に遺されていた一冊のノートが入った茶封筒だったこと、そしてその茶封筒が私宛だったこと、彼は落ち着いた声色で語った。すると彼はおもむろに立ち上がって、棚から件の茶封筒を取り出して私の方へ差し出した。

「Nの遺志だから、どうか受け取ってほしい」

彼は真っ直ぐな眼差しを私に向けた。そして続けて、

「Nが何を考えていたのか、何をどう思っていたのか、どうしてこうなってしまったのか、私は知りたい」

と言った。彼の声は少し震えていた。

 終始、私も彼も多くは語らなかった。ただ言葉の節々や表情の陰から、息子の死に対する後悔が痛いほど感じられた。


 別れ際、私はお礼の言葉を述べてから、深く頭を下げた。それから彼とひとつ約束をした。

「きっと、また来ますね」

彼は静かに微笑みながら頷いた。雨脚はいつの間にか幾分穏やかになっていた。私は小雨の静かに降りしきる中、一人傘を広げた。


 遺書を受け取った日、私は家に帰ってからも遺書を開かなかった。漠然とした不安があった。遺書の中身についてだけではない。遺書を読み終えてしまうことが、Nとの関係の終わりを意味するような気がしてならなかった。私にとって、それはあまりにも辛いことだった。次の日も、その次の日も、遺書を開くべきかどうか考えを巡らせた。結局それからまた一週間が経っても、私は遺書を開くことが出来ないでいた。


 その日、私は鞄にNの遺書を入れて、一年半ぶりに母校の中学校を訪ねることにした。Nと過ごした日々の思い出に浸ることによって、遺書を開く踏ん切りができるのではないかという目論見のためだった。


 秋学期が始まってちょうど三週間ほどだろうか。放課後の部活動に励む生徒らの声が、絶えずグラウンドに響いていた。校門付近にいた生徒たちに話を聞いたところ、私が親しかった先生は去年異動になっていたようだった。私は世話になった担任教諭や部活の顧問に軽く挨拶をしてから、足早に美術室へと向かった。

半開きのドアから中をそっと覗くと、ポニーテールの女子生徒と眼鏡をかけた白髪混じりの女性教師がそれぞれ椅子に腰掛けながら、一つのキャンバスを前にして話し込んでいた。

「T先生」

そう声をかけて中へ踏み入ると、私を見た先生は少し驚いた表情をしてから、それは嬉しそうに笑った。

「お久しぶりですね」

 美術室はあの頃と変わらぬ懐かしい匂いがした。鼻腔を突くような鋭い絵の具の匂いだ。私は一つ深呼吸をしてから軽く目を閉じて、当時の光景を瞼の裏に描いた。真っ白なキャンバスの上を真紅に染った筆が緩やかに滑りだす。風に揺れるカーテンの隙間から差す西陽を浴びながら、私はあの眼差しの奥に燃える情熱に触れようとしていた。今でも時折不意に思い出してしまうほど、私にとって美術室は特別な場所だった。それから私と先生は世間話や、高校がどうとか、美術部がどうとか、他愛のない話をした。女子生徒は間が悪そうに、キャンバスに描かれた青い絵をただじっと見つめていた。 


 Nは放課後、欠くことなく美術室に足を運んで絵を描いていた。ただ絵を描きたい、描かなければならないという衝動が彼を突き動かしているようだった。彼は美術部に所属していた訳ではなかったが、一人、美術部に混じって、毎日のようにキャンバスに向かっていた。私は部活の休憩時間や部活終わりに美術室を訪れては、彼の筆の動きをぼんやりと追っていた。Nの描く絵は美しかった。T先生は毎度の如く彼の絵を褒めちぎっていた。私も彼の絵が好きだった。彼はいつも決まって風景画を描くのだった。ありふれた日常的な、日々の生活の一部分を切り取ったような、そんな絵だった。しかし、ある日を境に、彼は風景画を描くのをやめてしまった。


「そういえばNさんは元気ですか」

先生はいつもの明るい調子で言った。私は少し口をつぐんでしまった。ちょうどその時、女子生徒がキャンバスを指差しながら、

「Nさんって、この絵を描いたNさんですか」

と目を輝かせながら言った。先生は、

「そうですよ」

とやさしく女子生徒に向かって微笑んだ。

「この絵シンプルなんですけどすごく深い気がするんですよね。何をモチーフにしたのか、なんとなくわかるようで、でもやっぱり分かりません。こういう抽象画っていろんな解釈が出来て難しいです」

女子生徒は少し興奮気味に語り、

「そのNさんはどんな人だったんですか」

と続けた。


 あの日から、Nは人が変わったように抽象画を描くようになった。彼は何度も何度も白いキャンバスを様々な色と、感情で埋め尽くした。まるで魂を削るかの如く、一心不乱に。しかし彼は絵を一つ描き上げては、納得がいかないような表情をして破り捨てるのだった。Nが描きたかったものが一体何だったのか、私には解らなかった。美術室に遺された青い絵は、彼が最後に描いた絵だった。彼はその絵を完成させた後、もう二度と学校に来ることはなかった。


「Nは真っ直ぐな人間だった」

私がそう答えると、

「そうね。物静かで大人しいけど、心を燃やしているような、そんな子だったわ」

と先生は付け加えた。女子生徒は、ふーんと小さく呟いて、その青い絵を食い入るように見つめた。きっとこの子はNが描いた青い絵を好きに違いなかった。私はその絵にもう一度目をやった。青のグラデーション、青い絵というより淡い絵というべきなのかもしれない。ただただ美しい透明感が、見る者を没入させる。それは静かな怒りのようにも、悲哀のようにも見えた。Nは一体どんな気持ちでこの絵を描いたのだろうか。この絵を完成させた後、一体何を思ったのだろうか。

「きっと、Nはうまくやっていると思います」

私がそう言うと、先生は、

「そうですね」

と言ってやはりまた優しく微笑むのだった。



 帰り道、かつて私たちが毎日のように駆けた通学路を、一歩ずつ踏み締めるようにしてゆっくりと歩いた。赤煉瓦造の建物、高架下の公園、老夫婦が営む純喫茶。数々の懐かしい景色の影には、いつもNとの思い出があった。中学生だった頃、あの閉塞的な狭い世界で生きながらも、私たちは今よりもずっと自由だった。中学を卒業してから一年半が経った。たったの一年半である。だがしかし、それは青春の一日一日を燃やすようにして生きる私たちから、大切な何かを奪うには十分過ぎる時間だった。

 一歩、また一歩、俯きながら歩いた。ちょうど踏切に差し掛かった時、私は不意に線路脇のアスファルトの割れ目に咲く、一輪の白い花を見つけて歩みを止めた。その花がひどく憐れに思えたのだ。生を受け、芽を伸ばして、やっとの思いで花を咲かせる。しかし、それと同時に己がいかに孤独であるかを知ってしまうのだ。それはまさしく悲しき運命だった。花にとってたった一つの救いがあるならば、それはそばを行き交う人々の誰かが、いつか愛を注いでくれるのではないかという淡い希望、ただその一点のみである。花はその一縷の望みを胸に抱いて、次の日も、その次の日も、色のない風に吹かれて静かに揺れるのだろう。私は無自覚のうちに、その花の抱える悲哀と、私の境遇とを重ね合わせていた。私は不意に稲妻のような衝動に駆られた。その花を摘み取ってしまおうというものだった。花にとって、その方がずっと幸せなのかもしれなかった。だが本当は、きっと、私は私が可哀想でたまらなかったのだ。私は唇の端を軽く噛んで、花に背を向け、もう一度歩き出した。これでいいと思った。苦しむものは苦しむがために生まれてきたのだ。生に抗うものもまた、生に抗う宿命だったのだ。否応なしに。私はもう一度振り返って花を一瞥した。その白い花はそよ風に吹かれながらも、私の方をじっと見ているようだった。



 随分と陽が傾いて、あたりはすでに暗くなりはじめていた。この頃は陽が暮れるのが早くなった。私は河川敷のベンチに腰掛けて、あの頃のこと、そしてこれからのことについて、ぼんやりと考えていた。目の前で遊んでいた野球少年らは、夕方五時のチャイムが鳴るやいなや、蜘蛛の子を散らすように、駆け足気味に帰って行った。烏の声は止み、代わりに蝙蝠こうもりが頭上を飛び交い始めた。私は夜の訪れを静かに待っていた。思えばこの河川敷も、Nと学校終わりにしばしば遊びに来た場所だった。二人で河川敷に来ても、やることと言ったらキャッチボールくらいだった。ただ、時折小学生の子たちに混ざって遊んだことは覚えている。Nは大の子ども好きだった。だからそんな日は、決まって特上の笑顔を見せるのだった。私はいつか同じベンチに座ってその光景を眺めたように、大声ではしゃぐ子供らの笑顔に囲まれながら静かに微笑むNの姿を、まぼろしに映し出していた。

 その時、不意に後ろから私の名を呼ぶ声がした。聞き慣れた声だった。私は一つの確信を持って振り返った。そこには上下ジャージ姿の、背の低い男が立っていた。疑いはなかった。Sだった。

「お前、なんでいるんだ。こっち帰ってたのかよ」

Sはお調子者特有の間の抜けたような声で聞く。

「ちょっと中学校の方に顔を出してたんだ。たまには母校を訪ねるのも悪くないね」

私はSにNの話をするつもりは毛頭なかった。

「こっち帰るんなら先に連絡してくれよな。そうしたら俺も久しぶりに教頭先生に会いに行けたのによ」

彼は少し悲しそうに言う。

「悪いね」

私は彼の方を向いてはにかんだ。

「Sは変わってないな、あの頃から」

私がそう言うと彼は少し顔を曇らせた。

「いや、俺も、お前も、多分変わっちまったよ。あの頃は一日中馬鹿なことばかり考えていた。でも、今はそうじゃない。俺たちはまだまだガキだけど、このままじゃいけないってことだけはちゃんと分かっているんだ」

彼が大真面目な顔でそんなことを言ったものだから、私は少し驚いてしまった。

「何かあったの」

私がそう尋ねると、Sは少し間を置いてからぼそりとつぶやいた。

「もう知ってるんだろ、Nのこと」

私にとってこれは全く以て意外だった。たしかに、Nと特別仲が良いわけではなかった彼が、Nの死の報せを知っていたとしても不思議ではなかった。実際に私の母は知り合い伝手に知ったのだから。

「なんだ、もう知ってたのか」

私は目線を逸らして小さく呟いた。

「もうみんな知ってるさ。あいつがどうして死んだのかも」

彼がそう言った時、驚きと共に私は胸が詰まるような思いだった。Nの死の噂はもう街中に知れ渡っているのではないかという疑念が私を襲ったのだ。そしてふとT先生のことを思った。もしかしたら先生の耳に噂が入る日もそう遠くないのかも知れなかった。


 それからSは私にその噂話の全てを語ってくれた。しかしその話は、激しい憤りを私に抱かせるようなものだった。確かに私はNのことを完全に理解していた訳ではなかった。だが、私よりNを理解している人間はそういなかったはずだ。思うに、Nの自死の理由はあまりに誇張されていた。そして、それは悪意や蔑みに満ちたような、Nの人となりを否定するようなものだった。Nと彼の家族を思うと居た堪れなかった。

「Nはそんな人間じゃない」

私は語気を荒げた。Sは針のように鋭く、私の目を睨んだ。

「これはあくまでも噂さ。でも部分的には正しいと俺は思ってる。一つ確かなことは、お前はお前が思っている以上に、Nのことを解っちゃいなかったってことだ」


 Sが私に投げつけたその言葉は、数日の間、何度も何度も頭の中で繰り返され、私を悩ませることとなった。


 









2.遺書




 台風に伴って連日降り続いた雨は、山間部の交通を阻害した。午後にかけて天候が回復するという予報に淡い期待を抱きながら、私はとある私鉄の始発駅にいた。

「大雨の影響で運転見合わせ中です」

女性駅員の機械的なアナウンスが人気のない駅のホームに響き渡る。私はそこで完全に足止めを喰らっていた。駅の周りには文字通り何もなかった。観光するようなところも、あまつさえコンビニすらないのだ。交通網が絶たれた今、そこはまさしく陸の孤島だった。

私はある場所を目指して、都市部から高速バスの早朝便に乗り込んでこの町へ来た。私が目指す場所へはこの町から鉄道とバスを乗り継いで行く必要があった。


 Sと話したあの夜、私は遺書を開く決心がついた。Nの本当の死の理由を知らなければならなかった。そして、彼の潔白を明らかにせねばならなかった。Nのことを、Nのしたことを理解してやらねばならなかった。Nのために、そして私自身のために。

遺書を開いたのは一昨日の夜のことだった。茶封筒を恐る恐る開くと、Nの父が言っていたように、表紙に「遺書」と黒い油性ペンではっきりと力強く書かれたノートが一冊入っていた。私は深く息をついてから、ゆっくりと表紙をめくった。冒頭の一ページには殴り書きした詩のような文章が書かれていた。私はその文章を、遺書を書き始めたNの心持ちに想いを馳せながら、指でそっとなぞった。

『波は砕けて水泡すいほうす』

それはNとの再会だった。彼の綴った言葉を通じて、彼と繋がっているような感覚がした。そして私はNが学校に来なくなってから今日までの二年間の道のりを思った。あらゆる面で私たちは未熟だった。Sが言ったように、それはきっと今も。


「列車が出ますよ」

女性駅員の明るい声と共に体を大きく揺さぶられて目が覚めた。私は駅のベンチで眠ってしまっていたようだった。雨はすっかり止んでいた。腕時計に目をやると、三時間ほど経過していたようだった。高速バスに乗るために慣れない早起きをしたからだろう。私はその親切な女性駅員に一言お礼をして、一両編成の小さなワンマン列車に飛び乗った。利用客は、年配の観光客が数名、地元の中高生が十数名だった。


 年季の入った鈍色のボックスシートに腰掛けて、車窓を流れゆく景色をいたずらに眺めていた。ふと窓枠に目を落とすと、表面を針のようなもので傷つけて書かれた文字が無数にあることに気がついた。かつてこの席に座った誰かが悪戯で書いたものらしかった。それは有名なキャラクターを模したものから、下品な言葉の羅列、相合傘といった、いかにも学生らしい落書きがほとんどだった。私はその落書きの数々を微笑ましく思った。幾年もの時が経っているのだろうか、この列車は何世代もの人々を、思い出を、青春を乗せてきたのだろう。私はその誰かが紡いできた物語を、小さな落書きを通じて感じようと試みた。落書きは宛のないタイムカプセルのようなものだった。ここに座ったものは皆、落書きを描いた名前なき人々の感情を数年、数十年越しに目撃するのだった。そんなことに思いを巡らせていると、心の奥底が温まるのが分かった。時の流れと共に生きる私たちは、過去の「今」の連続的な結果であり、私たちもまた一過性の「今」の連続であって、点でしか無いのだ。過去の名前なき人々が現在を紡いできたように、私たちもまた未来を紡ぐのだ。これは悲劇的なことかもしれなかった。なぜなら自存在の、そのあまりにも軽い価値に直面してしまうからであった。しかし、それは私にとって逆説的に自存在の価値を肯定するものだった。

 


 親愛なる君へ、最初に謝らなくちゃならない。僕は死ぬことにする。こんな馬鹿な僕を許して欲しいとは言わないけれど、どうか少しは分かって欲しい。

僕はある町を目指しているんだ。美しい町さ、そこは。今は列車の中でこの文章を書いてる。車窓から見る田園風景は素晴らしいね。僕はやっぱり都会の喧騒から離れた、緑豊かな、そう、日本の原風景みたいなところが合うみたいだ。君はどうだろう、でも君は都会がよく似合うからね。

 今日は本当に天気がいい。僕が向かっているところは海の町なんだ。海と暮らす町さ。こんな天気のいい日は写真なんかで見るよりもいっそう美しいだろうね。今列車が橋梁を通った。あの有名なところさ。実は一度来た事があるんだけど、やっぱり素晴らしい場所だ。きっと何度見ても飽きないだろうね。君にも同じ景色を見て欲しい。そうだ、僕がこれから行くルートを書いておくから、良かったら君も同じルートで回ってみるといい。



 Nが最期に見た景色を目に焼き付けなければならない。Nの遺書を読み始めたとき、私はそんな衝動に駆られた。そして同時に、Nが遺書を書いた場所で、同じ景色を見ながら、ゆっくりと歩幅を合わせるように、少しずつ遺書を読み進めようと思った。


 曇り空の合間から光が差した。私は列車に揺られながらNの遺書をそっと開いた。列車は緩やかにあの橋梁へと差し掛かった。両側の車窓にエメラルドグリーンの海が映った。列車は観光客のためにその赤い橋梁の上を減速して走った。それから列車が橋梁を渡り終えるまで、共に乗り合わせた乗客は誰一人として一言も声を発さなかった。ただ走行音だけが一定のリズムを刻みながら絶えず車内に響いていた。まるで異世界に迷い込んでしまったような感覚が私を襲った。一分にも満たない橋梁渡りは私に鮮烈な印象を与えた。その美しさだけでは無い、あの静寂、あの空間は特別だった。それからしばらくして、年配の観光客の話し声や、中高生のふざけ合う声が車内に溢れた。列車はまた少しずつ加速し始めた。



終点まではまだ少し時間があるみたいだから、僕は死について書かないといけない。君には感謝してる。君の存在は僕にとって何よりも大きかった。だからこそ、君にこの遺書を書いている間、僕は心が張り裂けそうになるんだ。でもこれが僕の決断だ。

きっと話さなければならないね。僕がどうしてこの決断をしたのか、どうしてこうなってしまったのか。君は知りたがるだろうから、きっと話そう。あの絵の事を。そして、君のことを。

こんな風に言うと、それはもうたいそうなことがあったのかと思うだろうけど、本当はそんな高尚な話でもないんだ。ただ僕は「もう生きたくない」と思ってしまっただけだ。今死ぬことよりも今後何十年と、のうのうと生きることの方がずっと怖いのさ。もちろんその考えに至るまでに色んなことがあったから、僕はそれについて書こうと思う。



Nの死に対する価値観は他の誰とも異なっていた。彼は生に抗うものだった。そんなNの死への傾倒を知っていたものだから、この記述に驚きはなかった。そして私は、いつか彼が言った言葉を思い出した。生きるのも死ぬのも、そこには大した差も意味もない。

それは彼なりの一つの結論だった。あの頃の私は論理によって私の生を、存在を自己肯定しようと焦っていた節があった。その自己存在の探求において、Nは一切に価値を見出さなかった。私はNのようになりたかった。自己存在に無理矢理意味を縫い付けることの空虚さに私は気付いていた。

Nは私の憧れだった。キャンバスを前に葛藤するNの横で過ごした時間は、まさしくNをもっと理解しよう、そして私の中にある大切な何かを見出そうとするためだった。



 まずは絵について書こうと思う。君の中には二つの疑問があることだろう。一つは、何故あの頃、突然抽象画を描くようになったのか。二つ目は、あの絵を完成させたあと、どうして学校に来なくなったのか。

簡単な事さ。抽象画を狂ったように描き始めたのは、僕の中に或る衝動が生まれたからだ。それはきっと人生に対する絶望のようなものだった。僕はその頃から死を意識し始めたんだ。あの日々は今思い出しても毎日が辛くて堪らなかった。だから僕は魂を削りながら絵に全てを打ち込んだ。喜怒哀楽全てをね。最初は上手くいかなくてむしゃくしゃした。でも描き続けることで少しずつ良くなった。最後に描いたあの青く透き通ったような絵を描いた時、ようやく僕は納得ができたんだ。ようやく衝動を、あの渇望を満たすことが出来た気がした。言うなれば、あの絵は僕の短い人生の集大成だった。僕の生き様を、あのやり場の無い気持ちの数々を、キャンバス一枚に表現したんだ。そして、僕はようやく諦めがついた。生への執着はそこでほとんど消え去った。それからは気持ちが随分軽くなったんだ。あの言葉にできない感情を、抱く必要がなくなったのだから。ただこうして君に向けて遺書を書くことはやっぱり辛い。忘れるべき感情をまた抱かずにはいられないから。

 絶望というのは透明だ。それは僕があの絵を描くにあたって導き出した答えだった。絶望というものは、氷のように冷たく、穢れのない純粋な感情だった。

 僕はあの絵を完成させた後、遠戚の家に住まわせてもらって、町工場で働くことにしたんだ。全国を旅してまわるためにお金が必要だった。およそ一年半近く、僕は馬車馬のように働いた。そこである程度の貯金を作った僕は長い旅に出た。その旅の目的は一つ、自分の死に場所を探すことだった。僕の二年にも及ぶ失踪はこういうわけだ。

つまり、あの絵を完成させた時に、僕は本当の意味で死んだんだよ。



「絶望というのは透明だ」

力強く書かれたその一節を、私は小さく声に出して読み上げては、心の中で何度も反芻した。私はNが過ごした空白の二年間の一切を今ここで初めて知った。そして彼が絵に込めた想いを。二年もの歳月をただ死ぬためだけに生きたのだと思うと、私は心苦しくなった。なぜNは一人で生き、一人で死ぬ選択をしたのだろうか。私になぜ話してくれなかったのだろうか。たった一言でも本音を吐露してくれたのなら、世界のどこへだって繰り出したのに。Nの切実な独白の文面は悲哀に満ちていた。しかし、彼の記述には一つ不明瞭な点があった。それは一体何がN に絶望という感情を抱かせたのかという点であった。


 終着駅は人でごった返していた。それもそのはず、そこは国内でも屈指の人気観光地だった。私はパンフレットを片手に談笑する家族連れや大学生らしきグループの輪を横目に見ながら、ひとりバス停へ向かった。

海沿いに立てられたバス停の標識柱はひどく錆びていた。そこに貼られた時刻表を見る限り、路線バスは列車の到着時刻に合わせて運行しているようだった。そのため特段長い時間を待つこともなく、おおよそベンチに座って一、二分も経たない内にえんじ色のバスがやって来た。

 


 君は覚えているのかな、あの美術室で過ごした日々のことを。僕はキャンバスに向かう時はいつも、あの眩しいほどに美しい時間が永遠に続くことをただ願っていた。今でも思うんだよ。ずっとあんな風にいられたなら、どんなに良かったことだろうって。

 あの頃、僕が毎日のように絵を描くことに身を打ち込んだ理由は、単に衝動があったからというだけではなかった。それはあの時間が僕にとって何よりも尊かったからであり、そしてまた、僕は君にあることを求めていたからだった。結局、僕の想いが届くことはなかったのだけれど。


 

 バスは海岸沿いの道路を揺れながら進んだ。乗客の少なさもあってか車内は静寂に包まれ、エンジン音だけが響いていた。私は後方の座席で窓にもたれかかりながら、外に広がる青い海の、ずっと遠い水平線を眺めていた。


 

 美しい海を見ると思い出すものがある。例えばそう、家族旅行で訪れた沖縄の風景を。そして、いつか君が書いた小説のことを。あれは確か中学二年の春のことだったね。君は僕に一冊のノートを見せてくれた。あのノートにはいくつかの短編小説が綴られていた。僕はその中でも、とりわけ最後の話が好きだった。『波の音』という話さ。君も覚えているだろう。恋破れた少年が海へ入水自殺する話だ。君が言っていたように、小説というには少し不恰好なものだったかもしれないけれど、僕はあの話が好きだった。あの耽美的な結末に魅了されたんだ。だけどあの時、あれほど君の小説を褒めたのに、君はもうあれ以来何も書かなくなってしまった。だからこそ僕は君の前で絵を描き続けたんだ。それがいつか君の中の何かを突き動かして、創作への情熱に火を点けるかもしれなかったから。でもそれもついには叶わなかった。だから僕はこの遺書を通じて、一つ伝えたい願いがあるんだ。


 たしかに私はNに自作の小説を見せたことがあった。彼はどの小説も誉めてくれたが、結局すぐに私の方が照れ臭くなって、小説の話を忌避するようになった。私にとって、書くことは絶望だった。絶望こそが書く原動力だった。あの悲嘆と孤独に苛まれながらも、その苦しみが逆に情熱の黒い炎を心に灯すのだった。あの頃の黒い感情は、飼っていた猫が死んでしまったことに起因していた。あの小説はその絶望に対する創出だった。だがしかし、それからNと共に過ごした美しい日々には、そんな絶望の感情など一欠片もなかった。だから書く必要がなかった。たとえ書けと言われたとしても、きっと書けなかった。



 陽は山の端に沈みゆき、西の空が小金色に染まる頃、ようやく目的地に着いた。Nが死んだ町だ。バスを降りると心地よい海風が顔を撫で、穏やかな潮騒と共に長旅で疲れた体に安らぎを与えた。私は町の小さな港まで歩くことにした。海に面した細い路地には伝統的な木造建築の町並みが残っていた。その色褪せることのない風合いは、まるで時が止まっているかのようだった。港にはたくさんの漁船が停泊していた。漁師の姿も至る所にあった。Nが書いていたように、そこはまさしく海と暮らす街だった。波は比較的穏やかだったが、昼前まで続いた雨の影響もあってか海は少し澱んでいた。私は潮騒とトンビの鳴き声に耳を澄ませながら深呼吸をして、この町を死に場所に選んだ時のNの心情に想いを馳せながら、町の静謐な美しさに身を委ねることにした。



 宿は町内に位置するお寺の宿坊だった。古風な町並みの合間に一本の寂しげな小道があり、そこを行くと石段が十数と続く。その先にひっそりとお寺はあった。敷地内へと歩み入ると、海側の塀に寄り添うようにして立つ一本の大きな木が目に入った。そしてその時、犬の吠える声が建物の中から聞こえた。その声はだんだんと近づいてきて、ついには私の方へ向かって一匹の胡麻色の柴犬が飛び出してきた。私は犬が苦手という訳ではなかったが、驚きでその場を一歩も動けなかった。その犬は私の足に擦り寄ってきた。特に警戒しているような様子もなく、人懐っこい子らしかった。

「これはこれはすみません」

建物の入り口からやわらかい声がした。その方を見ると住職と思わしき男が立っていた。

「人が大好きな子なんですよ」

私が特に嫌がる素振りを見せなかったからか、彼はその柴犬をただ微笑みながら見守っていた。

「可愛い子ですね」

私はそう言って柴犬をしばらく撫で回した。

「観光の方ですか」

彼は私の足元に座る柴犬に歩み寄りながら言った。

「ええと、宿坊の方に宿泊を」

一瞬間を置いてから声高にそう言うと、彼はわずかに驚きの表情を浮かべてから、

「お待ちしておりました」

と私に微笑みかけた。


 彼は宿坊の案内とともにお寺の説明をしてくれた。彼によると、あの大きな一本の木は桜の木らしく、春になるとそれはもう美しい花を咲かせ、多くの観光客が桜目当てに訪れるそうだ。宿坊はほんの数年前に建てられたようで、内装は障子から畳、洗面所、寝室に至るまで何もかも綺麗だったが、一人で泊まるには少し広すぎるようにも思えた。彼は一通り案内が終わると、

「では明日の早朝に精進料理をお持ちしますね」

と言って宿坊を離れていった。



 町の美しい風景について書こうと思っていたのだけれど、あんまり書くと勿体ないね。いつか君も同じ景色を見に来てくれるだろうから。楽しみはそれまで取っておくべきだ。

今日は町を一周した。岬の白い灯台まで歩いたんだ。海はどこも透き通っていたし、背が光る小さい魚の群れも見られた。こんなに美しい町に居られて、こんなに美しいものばかり見ていると、心が浄化されていくように思えるのだけれど、こうして君に書くことはやっぱり耐え難いほど辛い。だからもう終わりさ。明日、終わりにしようと思う。明日の朝、そう、朝日が昇る頃に僕は死のうと思う。表紙に『遺書』なんて書いたけれど、それらしいことはあまり書けていないような気がする。でもいいかな、これで。もっと何か書けるんじゃないかって、もっと何か遺せるんじゃないかって思うけれど。

 住職は良い人だ。この町について沢山のことを教えてくれた。お寺には一本の桜木があるんだ。彼はあの桜の木を本当に大事に思っているみたいだ。「春になったらまたいらして下さい」なんて彼は言うんだよ。僕にはもう関係のない話なんだけれどね。だから君がいつかここに来る時は春の桜の季節にすると良い。

ある朗らかな春の日に、満開の桜木の下に立って、ひらひらと舞い降りてくる花びらを右の手のひらに受けるんだ。そうしてじっと見る。色の濃淡やその形をね。でもその時、風が強く吹くんだ。潮の香りを運びながら、あたりの花びらを吹き上げる。そしてその舞う様子をただ見上げては、花吹雪の合間に覗く混じりっけない群青の空に心を奪われるんだ。

ああ駄目だ。ありもしないことを考えるのはよそう。辛いだけだ。死にたいという気持ちは今も決して強い訳では無いんだ。ただ生きたくないだけで。だけどもう後戻りは出来ないんだ。それなのにこうして君のことを思えば、どうにも言い表せないほどに胸が詰まるんだ。もうよそう。早く布団に入って眠ることにする。 


少しずつ、だが確かに、終わりは近づいていた。Nの書いた字からは感情が滲み出ていた。しかしもう簡単には止まれないのだった。それは一度跳ね上げられた振り子のように。



「おはようございます。精進料理をお持ちしました」

住職の高らかな声が空虚な宿坊に響いた。私はにこやかに返事をして、部屋へ招き入れた。

住職は赤い膳をそっと机の上に置くと、

「今日はいかがなさいますか。どこかへ行かれるのですか」

と訊いた。私は少し黙って、ふと窓に映る桜木を見た。

「町をもう少し見て回ろうと思っています」

住職は頷きながら、

「そうですか。ゆっくりしていってくださいね」

と微笑んだ。



 しばらくして朝食を食べ終えた私は、膳を片付けてもらうために住職を呼んだ。

「いかがでしたか」

住職は興味津々といった表情でこちらを見た。

「精進料理は初めてでしたが、どれも美味しく頂けました」

私がそう言うと住職は嬉しそうに笑った。

「ではこれで。今度来る時は春になさって下さいね」

住職はそう言って宿坊を去ろうとした。

私はその時ふとNのことを住職に尋ねてみようと思った。それは他でもなく、彼こそがNと最後に話した人に違いなかったからだった。

「一ヶ月ほど前、一人でここに泊まったNという少年を覚えていますか」

彼は一瞬動きを止めて、戸惑いの表情を見せながら「ええ」と呟いて、

「お知り合いか何かですか」

と続けた。彼の顔が少し強ばるのが分かった。

「はい。中学の同級生でした」

私がそう小さく答えると、

「そうだったんですね」

と小さく呟いた。彼は私がこの町へ来た理由を悟ったようだった。

「まさかあんなことになるなんて。あの朝も何か特別な違和感なんてありませんでした」

住職は重い口調で語った。どこか責任の一端を感じているようだった。私は住職を責めるつもりなど微塵もなかった。それどころか感謝していたのだった。死を目前にしたNにとって、住職の屈託のない様がおおいに救いになったことは明らかだった。

「誰も悪くありません」

そう言って私は視線を足元に落とした。紛れもなく、それは心からの言葉だった。Nも私も、誰も彼も、悪くなかった。死は宿命だった。そう生きる者はそう生きていくように、そう死ぬ者はそう死んでいくのだ。ただ一つ言えることは、Nは不幸な人間だった。

「失礼を承知の上でお聞きしますが、まさか後追いなんて考えていませんよね」

住職は私の隣に立ってぼそりと呟いた。実のところ、私には分からなかった。これからどうなるのか、どうするべきなのか、そしてどうしたいのか。しかし、その時ふとNの父との約束が脳裏によぎった。

「後追いなど──しません」

それは自分自身に言い聞かせるために言ったのかもしれなかった。だが確かに、私は死んではならなかった。Nの父に伝えなければならなかったからだ。

「きっと信じましょう」

住職は包み込むような優しい声で言った。私の迷いに気付いていたのだろう。彼は窓に映る桜の木を眺めながら、

「春になったら、またいらして下さい」

と言った。私はただ頷くことしか出来なかった。


 麗しい朝だ。目に映るもの全てが儚く、それでいて美しく思える。でももう終わりなんだね。僕は幸せな人生を歩んだのだろうか。本当にそれだけは分からない。それは客観的な何かが指し示すものではなくて、僕自身の認識の問題だということは分かっているんだけれど。僕は少々夢を見過ぎていたようなんだ。夢を見られるということ自体はきっと幸せなことのだと思うよ。だけどね、それが自分を苦しめてしまうことは往々にしてあるんだ。


 一人の悲しき少年が歩んだ道のりを辿っていく。陽はまだ昇っていない。町の景色は何もかも無差別に淡い青に染まっていた。港では漁船が遠く汽笛を響かせながら、満潮の海を白波立てて進んだ。私はその光景を横目に見ながら、あの場所へと続く海沿いの細道を寂しく歩いた。


波の音が絶えず聞こえる。

岸に寄せ、岩に砕けて泡となり、

やがて何もなかったかのように泡は消え失せ、

また繰り返し、

波は砕けて水泡に帰す。

それは永久的な営みだった。

波の音が絶えず聞こえる。

それは悲痛な叫びだった。


 切り立った崖から望む東の空はすっかり金色に染まっていた。少しずつ、彼方の水平線から眩い朝陽が顔を出すのがわかった。そして光は緩やかに世界を優しく包みこんだ。そのとき、思わず頬に涙が伝った。あまりにも美しかった。始まりと終わりが交錯するその空間が。

風が強く吹いて遺書のページがめくれた。次のページにも、その次のページにも、そして最後のページだけを除いて全て、風景画が描かれていることに気付いた。それはあの私鉄の駅から始まり、赤い橋梁、海沿いのバス停、車窓に映る海岸線、町の伝統的な風景、白い灯台、お寺の桜木と住職と柴犬、忙しない朝の港の風景、そして最後には、眼前に広がる崖から望む金色の朝陽が描かれていた。

 私はその一枚一枚を嘆息しながらめくった。全く同じ風景だった。異なる悲哀を抱きつつも、私たちは同じ光景を目にしたのだ。私は崖の絵と同じ視点に座って、もうすっかり昇り切った朝陽を静かに見守っていた。特別な時間だった。Nが隣にいるような感覚がした。あの頃に戻れたような気がした。それでも、終わらせなければならなかった。私は大きく深呼吸をしてから、遺書の最後のページを震える手で開いた。






最後に一つ願いがある。

君にまた小説を書いて欲しいんだ。

きっと叶えてくれるだろう。優しい人だから、君は。


 君には生きていて欲しい。君ならこれからどんなことがあっても、きっと乗り越えられる。僕はそう信じてる。君は強い人だからね。でも僕はだめだ。弱いんだ、僕は。書くべきじゃないのは分かっているんだけれど。この気持ちはもう抑えきれない。死にゆく者がこんなこと、残しちゃいけないのだろうけど。心が壊れそうなんだ。僕にとってこの感情がいかに絶望的なものであったか分かってほしい。


きっと僕は、君のことを好いていたんだ。




金色の風が濡れた頬を刺すのが分かった。私は最期の光景をぼんやりと幻に描いた。

波は一瞬にして全てを飲み込み、岩はそれをいとも簡単に砕く。そして最後には泡沫となって静かに消えていったのだろう。ただそこに残ったのは絶え間なく響く波の音のみである。





 















エピローグ


あの日の波の音が今もずっと頭から離れないでいる。 

私はNの父との約束を果たすために、生まれ育ったあの街へ帰っていた。満員電車から吐き出されるようにして降りたとき、見慣れていたはずの景色がどこか違って見えた。Nの実家を訪れたあの日は気付かなかっただけなのかもしれない。心のどこかに余裕が出来たからなのだろうか。この街を離れて一年半が経った。時間の流れというものはあまりにも残酷だ。町の風景も、人々も、少しずつ変わっていってしまう。ただそれでも、この移ろい行く世界にも、変わらぬものは確かにある。変わってしまうことが悪いことではない。変わらないことが常に良いことでも決してない。だが、変わってしまうことは耐え難く悲しい。


警報音が鳴り始めて、遮断機が弧を描きながら降りてくる。私はふと、いつかアスファルトの隙間に咲いていた白い花のことを思い出して線路脇に目をやった。そこには以前の白い花はなかった。ただ濡れたアスファルトの上に、花の摘まれた死骸が、人知れず斃れていた。それは愛された形跡だった。私は胸の内に強迫的な衝動が生まれるのを感知した。



私はこの先へ進まなければならなかった。

そして伝えなければならなかった。



列車は少しずつ近づいて来ていた。重い雲が空を覆うこの街に、轟音を響かせながら。

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波は砕けて水泡に帰す いいぐさ @iixa

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