夜の話

香里天翔

真っ赤なショートケーキ

スマートフォンの画面は一〇月一六日 二二時ぴったりを表示する。僕がこの地を踏むのは一一年振りだ。真夜中の校舎の不気味さは重力を持って僕に圧し掛かる。僕の通っていたこの高校は四階建ての教室棟、三階建ての特別棟からなる。改築されたというのもあり比較的校舎は奇麗で、目の前に飲食店、近くには大きな湖と市営体育館、公園があり立地も他の高校に比べて魅力があった。

 この高校を卒業していった人たちはどんな気持ちを胸に抱えてこの門を出たのだろうか。僕がこの門を最後にくぐった時、一人の同級生が隣にいた。彼女はクラスを越えて学年でも友達が多く、人気者と言っても嘘にはならないだろう。しかし、人間の魅力というものは不思議なものである。彼女は人をいじったりからかったり、時にはいじめと言っても過言ではない事をしていた。そんな彼女を慕う人も多かった。

 彼女の対象は様々だ。時には孤立したクラスメイト、時にはリーダーシップのある人間、時には、彼女自身の友人。その対象に僕は当時高校三年生の頃に含まれていた。最初はちょっとしたいじりで留まったが、一週間を超えるとエスカレートし、彼女いじりは虐めに姿を変えた。それまでの僕は楽しいとは言えずとも友人もおり充実した学生生活だった。学校がこんなに禍々しいものとも知らなかった。

 彼女の虐めはシンプルなものだった。椅子に画鋲や噛んだガムが張り付けられている、万引きの強要、女子トイレに連れ込む、女子の盗撮写真を僕が撮ったと証言する、毎月お金を用意させる。そんなシンプルな虐めは対象者を蝕んだ。しかし、男子である僕はマシな方だったのかもしれない。彼女の対象になった女子は裸のまま男子トイレの個室に放置される、下着姿をネットに拡散されるといった虐めを受けていた。これを虐めの範疇に留めていいのかは疑問だが。彼女にはどんな景色が見え、虐められた彼女たちに学校はどのように映っただろうか。

 勿論、彼女は自分の弱みを表に出すことは無かった。下着姿をネットに拡散された女生徒は指導対象になった。何故なら、彼女は女生徒自身が自分で拡散させたように偽装させ、本人にもそう言うように強要したからだ。

 彼女の虐めを強く受けたのはその女生徒と僕だ。その女生徒は学校を退学し、その代わりに対象になったのが僕だった。僕と女生徒以外は虐めというよりいじりの範疇に留まっていた。しかし、学校を辞めるのは彼女に負けたような気がして僕は虐めを半年程受け、無事に卒業式を迎えた。

 卒業式当日。僕は彼女とこの門の前で話をした。僕は彼女に何故虐めをするのかと聞いた。彼女は軽くお腹を押さえて満面の笑みを僕に見せた。僕は彼女の幸せそうなその笑顔に憎しみは不思議と覚えることは無かった。

 そして、彼女は一一年後の一〇月一六日 二二時にこの門に来れば質問に答えると言い、僕よりも先に門をくぐり奇麗な黒髪を靡かせながら堂々とした背中を僕に見せた。

 当然だが学校は既に真っ暗で門も閉じられている。その閉塞感が非現実的だ。二二時〇一分を指す一五秒程前に影がこちらに向かって走ってきた。息を切らしたその影は「セーフ!」と言い、僕の前で止まった。近くの街灯に微かに照らされるその影の正体は、忘れもしない彼女だった。奇麗な黒髪に、堂々とした背中、何かを見通しているかのような猫目。驚くほど彼女は当時の面影を背負っていた。

 彼女の発した一言目は久しぶり、でもなく元気だった? でもなく、「さ、行こうか」という一言だった。彼女の視線の先には不気味な重力を背負った夜の校舎があった。僕は彼女の背中をゆっくりと追った。門によじ登り学校の敷地に入り、鍵など開いていないだろう裏手にある特別棟の入り口に向かった。

 どうやって入るのかと尋ねると彼女は人差し指を口元に当て不敵に笑った。それ以上言及できたはずだが、まるで魔力のように僕の口は閉ざされた。特別棟の裏手に着くと彼女はポケットから一つの鍵を取り出し、自分の家のように平然と特別棟の鍵を開けた。

「高一の頃にこの学校の全部の鍵の合鍵作ったんだよ」

 僕の心を読んだかのように彼女は質問の答え合わせをした。普通ならば驚くところだろうが、それが彼女だと驚くこともない。校内は真っ暗で不気味さがより一層増す。学校の七不思議だとか、そういった不気味さではない。

 特別棟に入ると直ぐに階段があり、彼女は階段をゆっくりと上がっていく。彼女の履く厚底の靴がカツカツと階段に反響する。彼女は二階の廊下を真っ直ぐと僕の方を振り返らずに歩いていく。中庭の街灯が廊下を薄暗く照らしている。

 彼女は生物教室と書かれた扉の前で立ち止まり、今度は多くの鍵が付けられているキーリングの中から鍵を生物教室の鍵穴に刺す。少し鈍い音がして扉はいとも簡単に開いた。

 教室内は当時のままだ。上下する大きな黒板、棚に飾られている標本、窓から見えるグラウンドと生物教室を薄く照らす街灯。窓際に立った彼女の唇の赤が不気味に発色する。

「虐めに理由がいると思う? 要らないよね? だって虐めって欲でしょう?」

 彼女は一一年越しに僕の質問に答えた。彼女にとって虐めは三大欲求のようなものなのだ。それがないと生きていけないのだ。彼女は自分の爪を眺めている。その癖も昔のままだ。高校生の頃も彼女は自分の爪を見てはまるで見惚れるように笑っていた。

「良心は痛まないの?」自分で言って、直ぐにこの質問は愚門だと察した。彼女は吹き出すように笑った。それはお笑い番組、つまり娯楽を楽しむような笑い方だ。

「痛むわけないよ。君って、本当に面白いよね。昔っからさ」

 彼女はそう言うと笑って水分が失われた喉に鞄から取り出した水を流し込んだ。遠くから救急車のサイレンが聞こえ、外に植えられている木々の木の葉が揺れる。

「何で今日だったの?」

 質問には彼女は即答できたはずだ。しかし、彼女は一一年後という中途半端な年に、一〇月一六日という日にちを指定した。そこに意味がないなんてことはないはずだ。

「白々しいね。聞かなくても一番君が分かっているでしょう? それとも……君はわたしの口から聞きたいのかな? そういう顔をしている」

 彼女は僕の顔を見るとこちらに来るようにと手招きをした。僕が彼女の方に歩くにつれて街灯の明かりが射し、彼女の顔が先程よりも鮮明化されていく。彼女の赤い唇が僕の顔に近づき、彼女から漂う妖艶とも比喩できる香りが鼻を刺激する。

「一〇月一六日はわたしが君を虐め始めた日付。一一とは始まりや創造という意味を持つ。わたしたちには相応しいと言えるんじゃない?」

 彼女の言う通り僕は彼女の意図が分かっていた。果たしてそれが正解か否か僕は彼女の口から直接聞きたかったのだ。彼女の答えを聞いた僕はきっと口角が少し上がっているだろう。もし彼女が別の日を指定したのなら僕は彼女に怒りや憎悪を覚えただろう。彼女自身も分かっているのだ。虐めるならばそれらを覚える義務があると。

 僕の彼女への憎しみがゼロという訳では決してない。彼女に虐めを受け友人は離れていったし学校を辞めようと何度も考えた。高校生活という一度しかない日常を彼女に奪われたのだ。簡単に無かったことになどできるはずはない。彼女もそれは承知しているはずだ。自分の行いがどういう結果をもたらすのか。恐らく彼女は僕や他の対象者が自殺してしまうということも想定に入れていたであろう。

「人は決して同じ景色を見ることはできないんだよ。わたしの見る景色は君には分からない。わたしの見る景色も君たちには決して理解は及ばないだろうね」

 彼女のように平気で人を虐めるような人間の気持ちは当然理解できない。彼女からすれば人を虐めずにいられる僕らこそ理解ができないのだ。

「君はわたしが嫌いじゃないの?」

 彼女にされたことを思い出せば出す程彼女への復讐心は当然滝のように溢れ出る。しかしながら、それをして彼女と同じ人間になってしまう自分を許すこともできないのだ。人は決して同じ景色を見ることはできないと言う彼女の意見には賛同ができる。僕は彼女を嫌いと言っていい程彼女の事を知らないのだ。彼女は理由は分からないけれど僕を現在進行形で試しているようだ。

「分からない」と、僕はよくある、誰でも言いがちなセリフを吐いた。そんな言葉しか思いつかない自分が途端に憎らしくなる。

「君は難しく考え過ぎだよ。わたしが虐めてきた人に君と同じ質問をしたらきっと復讐したい、死んで欲しい、そう言う人が多いはずだよ。質問に対する答えにもなっていないのだから君もそれくらい正直になっていいんだよ」

 僕はまるで無数の手に心臓を掴まれているかのような錯覚を覚えた。この空間は彼女の支配下にあるような気がしてならないのだ。

「わたしね、ケーキが好きなんだ。ショートケーキに苺のソースをかけるのがお気に入り」

 彼女はスマートフォンを取り出し、一枚の写真を僕の前に掲げた。その写真にはショートケーキに真っ赤な苺のソースがかかっている。僕は直ぐに彼女の唇を思い出す。真っ赤な唇と、この苺のソースの赤はとても似ていた。

「純粋な白が赤に染まっていくその姿はとても奇麗だと思うの」

 そう言う彼女の言葉で彼女はあの頃から何も変わっていないのだと安心をすることができる。今もあの頃も彼女は共通して結果ではなく過程を楽しんでいる。僕が彼女に楽しいかと質問をすると楽しいよ、と彼女は即答した。しかし、教室は薄暗く彼女の表情は正確には読み取ることはできなかった。

「この生物教室にも思い出がたくさんあるんだ」

 彼女は手を机に滑らせながら一番奥の動物の骨格等が置かれている棚まで、机の肌触りを吟味するように歩いていく。段々彼女の影が薄れていき、棚に着く頃には彼女の姿も闇にまみれてしまっていた。真っ暗な空間の中から彼女の声だけが耳に伝う。

「わたしはよくここの標本を見てた。よく魚とか蛙とかイカとかを解剖の実験で使うでしょう? よく虫を平気で殺したり、痛めつける小学生とか見るでしょう? それがどうして人間になると虐めと呼ばれて非難されるのかって気になった事ない? 人間の標本がないのは何故? 倫理に反するからかな? でもさ、倫理に囚われていては盲目になっていくだけだとは思わない?」

 僕には彼女の言わんとすることがいまいち理解ができなかった。人を虐めるのは倫理に囚われたくないから? ううん、もしそうなら殺人や人体実験をしてしまえばいいだけ、そうじゃない。君にも言ったでしょ虐めは欲ってだけだよ。ただその欲が非難されることに疑問が生じたから君にその答えのヒントを貰おうと思っただけ。

「虫とか動物の殺傷は過程であって虐めや殺人は結果になるから結果側は非難されるんじゃないかな?」

 勿論、動物虐待、殺傷も今はとても非難されるが人間に対しての虐めや殺傷程強く取り締まらないし、あくまで結果に至るまで過程でしかないのだろう。多くの人は彼女を非難する側の人間で、擁護し同士たる人間は少数派だろうと彼女に伝えると、顔こそ見えないけれど、遠く感じる真っ暗な空間から鼻で笑った彼女の感覚が伝達された。

「正しいのは君かな? それともわたし?」

 彼女の靴音が響き段々こちらに近づいてくる。拷問を受けているかのように靴音が静かな教室に一定のリズムで反響する。僕は彼女と善悪、正しい間違いの議論はしたくはなかった。そこに答えが出るはずもないからだ。彼女の表情が分かる程に彼女は僕の近くにいた。笑みを浮かべる彼女は純粋な子供のような表情だった。君はどうしてわたしに虐められていたのに学校を辞めなかったの? 何故自殺をしなかったの? 何故反抗しなかったの? 彼女は僕の顔を真っ直ぐ見ていた。僕も彼女から目を逸らそうとはしなかった。

 僕は彼女から虐めを受けることを受け入れていたのかもしれない。それが別の人間であったなら僕はそれを全力で拒んだだろう。ただし、彼女に復讐できますと今この場で言われたなら僕は一考し、恐らく復讐をするだろう。学校の外にいる時、つまり彼女に会うまで彼女の事を考えることはなかったし、彼女に会った門の前でも僕は復讐や恨むなんてワードは思いつかなかった。しかし、今の僕は矛盾を抱えながら目の前の彼女を見ている。学校に入り、生物教室に入り、彼女と話すことで自分という存在に矛盾を感じてしまうのは彼女の一番恐ろしい部分だということを改めて感じる。僕の抱える矛盾を彼女は見透かしたように赤い唇を上げた。街灯の明かりでより発色した彼女の赤い唇は彼女が人を支配することに長けていることを象徴するかのようだ。彼女に虐められた人間が反抗を一切することなく学校を辞めたり、僕のように耐えた人は皆彼女に虐められるなら受け入れることができたのだ。そして彼ら、彼女らはショートケーキを真っ赤に染める苺のソースのように、彼女の赤に染められた人間たちだ。

 彼女の赤が僕の薄く発色もしていない熟す前の唇に近づく。僕はそれを昔のように受け入れていく。彼女と僕の唇が重なる。彼女の唇の感触も味も僕には到底表現し切れなかったけれど、簡単に表現できてしまうのはその程度ということなのだから、彼女の唇は今は僕だけのもので、誰もこの感覚を表現し切ることはできない。

 彼女は唇を本当に少しだけ離し、こう続けた。

 

 怖がらなくていいよ。君は私のことを愛してるから。

 

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