ネバーランド
天野和希
ネバーランド
どれだけ歳を重ねても、初恋だけは忘れられませんでした。
子供の頃、毎日のように遊んでいた友人も、公園も、毎週欠かさず読んでいた漫画の内容も、寝る間も惜しみ熱中したゲームの結末も、何もかももう引き出しのどこを探しても見つからないというのに、初恋だけは確かにその入れ物の上に綺麗に飾られていつだって見失うことはありませんでした。
今も鮮明に覚えています。すこし垂れた大きな目。小さく赤い唇。華奢な手指と、細く透き通るような脚。小さく細くこそあれ、どこか芯まで響くような声も。
古びたような、例えばずっと開いていない引き出しを開けた時のような香りが少しだけした覚えがします。
一度だけ聞いて、たった一度だけ呼んだ彼女の名前もしっかりと覚えています。
彼女の名は柊。その名の通り、白く豊かな装飾を誇るドレスのような服がよく似合う女の子でした。
七〇年前、ある日曜の昼下がりのことでした。親の言いつけで中学受験を間近に控えていた私は、いつも通り図書館で勉強をしていました。
読みたくない本を開いて、ノートにそれを写しながら頭の中はいつもくだらないことばかり考えていました。
静かな図書館では全ての音が繊細に響きます。ページが擦れる音、本を置く音、ノートに鉛筆を走らせる音。それからくぐもったステンドグラスの向こうから聞こえる鳥の声さえも。
ただ机に視線を落としてばかりいても、まるで皆には見えない上の方から全てを見下ろしているような、そんな感覚さえありました。
勉強は好きでなくても、その音や、古びた紙の匂いが私は好きでした。
後ろを誰かが歩く気配がして、私はその足音の無さに驚きました。普段なら気にも留めないことに、その時なぜか振り向きました。ただ逃げ道を探していただけかもしれませんし、それを運命というのならそうなのかもしれません。
目に映った後姿は私と同じくらいの歳だったでしょうか。派手ではありますがそれが彼女の上品たる佇まいを阻害することは決してなく、ただ脇から見えた前に抱えている大きな大きな本が少しだけ年相応に幼く見えました。
握っていた鉛筆はもはや机上に投げ出され、私は白痴のように口をだらしなく開きながら彼女を見ていました。その内にも何冊かむつかしそうな本を背伸びしながら手に取っては抱え歩き回っていました。
しばらくして、彼女は本を集め終えたのかその崩れない無表情の中に少しだけ満足感を残しながらこちらに向かって歩いてきました。
どきりとしました。
見ていたのがばれたのかな。なんて言うべきだろうか。まずは挨拶をするべきだろうか。
そんなくだらないことが頭を巡っているうちに、彼女は私の目の前に座りました。一つ一つの所作は綺麗で、まるでお芝居でも見ているかのようでした。一番上に載っていた本を開いて、彼女は私になんて目もくれず沈むようにその本へすべてを注いでいるようでした。
「あの」
考えるよりも先に喉をついて声が出ました。これがもしただの勉強からの逃避であったのなら、私はその時すでに、相当に親という一種の大人に対して嫌気がさしていたんだと思います。
彼女はゆっくりと顔をあげました。ただ完全にあげることはなく、私が少し視界に入るくらい、上目遣いのように見つめられて私は息が止まる思いでした。
「なに?」
ほんの数舜だけ間が空いて、彼女が口を開きました。刺さるような視線でした。私のことを不審に思っているのか、それとも図書館で喋るという行為自体に嫌悪感を抱いているのか、それは定かでありませんでしたが少なくとも私と話したくなさそうなことは火を見るよりも明らかでした。
さて困りました。何を話すか決めていなかったのです。私は「えっと」と何とか誤魔化しながら彼女自身と彼女の周りに隈なく視線を走らせました。
「その本……、国際政治? むつかしいの読んでるん、だね」
その時初めて、私は政治を学んでいて良かったと一瞬だけ思いました。幼いころから親や先生に色々なことを叩き込まれてきました。この歳で政治なんてと何度も感じたものでしたが、もしかするとこの時だったのかもしれないと思ったのをよく覚えています。
「……そうよ。あなた、分かるの?」
無表情なはずの彼女の口角が少しだけ上がった気がしました。少し暗い図書館の中で、それぞれの手元だけを照らす小さな光が嫌に幻想的でした。
「うん、ちょっとね」
「そう。子供なのに」
「君もそんなに変わらないだろう」
私は少しむっとして言い返しました。すると彼女はきょとんとしたように少しだけ目を見開いて、それから小さく微笑みました。
いま思ってみても、笑うどころか表情を変えることすら稀な彼女がその笑顔を私に見せたのはとても不思議で、私にとって幸運なことだったのでした。
「そうね。変わらないわ。誰だって本当は幼いもの」
どこか達観したようにも見える彼女の言葉は、自分と同じくらいの幼子が放っているとは思えないほどに深いものな気がしました。
ただ本に書いてあったことをなぞっているだけだったのかもしれません。それでも、あの頃の私にはひどく大人っぽく見えました。
彼女に対して抱いた最初の感情はそんな、色恋とは全く違う憧れというか尊敬に似たようなものでした。周りの不甲斐ない大人よりも一層大人だなと思いました。
それからいろいろな話をしました。でもそれはほとんどが私の話か政治だとか文学作品だとかのこむつかしい話ばかりで、彼女が彼女自身について話すことはありませんでした。
私が彼女にそれを尋ねなかったのはあることがきっかけでした。また会えるよねと言って初めて会った次の日、また図書館で会った時のこと。
「そう言えば、名前は? 聞いてなかった」
「……言わなくてはダメ?」
ただ名前を聞くだけでそんな反応をされるとは思っていなかったので私はどう返すべきか分からず黙ってしまいました。
「ごめんなさい。名前を言いたくないなんておかしいわよね」
表情は変えずとも声色で分かりました。申し訳なさそうに謝る彼女に、僕は罪悪感を覚えて、それでもどう言えばいいか分からず。ただ首を横に振りました。
彼女が見せた最初で最後の子供っぽいところだったような気がします。
「柊」
「え?」
「名前。聞き取れなかったなら、別にいいけれど」
「あ、いや、ごめん。聞こえた。いい名前だね」
私が彼女の名前を褒めても、彼女はぴくりともしませんでした。それを見て、私は彼女が自分自身のことを好きでは無いのかなと思いました。そうでなくてもきっと自分のことに言及されるのが嫌なのだろうと子供なりに察して、私はそれ以降彼女について聞くのをやめたのでした。
何度も図書館で会ううちに、私はどんどんと彼女に惹かれていきました。
金も稼ぎ体裁も保ち、世間的には有能とされていた父は家ではだらしなく、それだけならまだしも仕事でのミスを部下に押付けたことを自慢げに語るような醜い人間でした。母は、私を自分が大きく見えるようにするための道具としか思っていないようでした。
大人なんて、と思いました。
けれど、彼女は私が憧れるうような大人そのものでした。言葉遣いや小さな動作だけでなく、話していくうちに分かる些細な感性、精神。
憧れは段々と理解から遠ざかり、近づいているのに遠ざかっているような気がして、そうして離れていくものは追いたくなり。
私が、恋心を自覚したある日。
「私のこと、どう思っているの」
彼女がそんなことを聞いてきました。心臓を直接握られたような感覚を覚えました。滝のように汗が出て、図書館の静けさは内で暴れ回る心臓に汚されました。
「……ど、どうって?」
「好きでしょう? 私のこと」
「なんで……」
「あら、否定はしないのね」
少し首を傾けるようにして彼女は私の目を真っ直ぐと見てきます。私は自分でも最近気がついた好意に気付かれていたことや、まるで手玉に取られているようなこの状況になんとも言えぬ羞恥を抱き、心のうちで悶絶しました。
「それは」
「からかうつもりはないわ。分かりやすいもの」
「……」
少しの間沈黙が流れました。彼女はゆっくりと口を開きました。
「やめておいた方がいいわ。私が今ここにいるのは気まぐれ。もし仮にあなたと一緒になったとして、死ぬまで付き添いはしないわ。そんなのごめんよ」
驚きはしましたが、ショックだったかと問われれば分かりませんでした。ただ何となく、私を拒絶した彼女のその言葉が本心ではない気がしたのを覚えています。
「そっか」
これが大人の対応という奴なのかなと思いました。彼女の毅然とした態度にまた惹かれました。とはいえ、たった今振られたばかりの相手にいつも通り接することもできず、私はただ開いただけの教科書に視線を落としました。
ぱたんという本を閉じる音がして、かたりと椅子を動かす音が続けて聞こえました。彼女は私が顔を上げるのを待っていました。
「帰るの?」
「えぇ、そうね。もう……、帰るわ」
小さな声はより一層小さかった気がします。まるでもうずっと会えないような、そんな悲しそうな眼をしていました。
「そっか。またね」
「また」
その時の私は、彼女の発した「また」があんなに先になるとは思ってもいませんでした。
彼女のいない図書館はとても静かでした。静寂がこんなにも孤独を思わせるなんて、それまでの私は知らなかったのです。自分から出るどんな音も嫌に響いて、静寂が反響する虚しさを際立たせました。
数日が経ち、彼女の姿は見えず。数か月が経ち、探すことをやめ。1年が経つ頃には思い出へと昇華され。数年が経つ頃には彼女は記憶の中だけの存在になりました。寝ても覚めても鮮明に描けるのに頭の中にしかいない彼女が、いつしか実在すら分からなくなり。
二〇年近い時が経ちました。子供の頃大嫌いだった大人になっているという実感が芽生えてから数年が経ったころでした。
もちろん、片時も彼女のことを忘れることはありませんでした。ただそれはずっと想っていたのというのとは少し違って、ただ記憶として確かにそこにあるだけで、周りからどう見えていたかは分かりませんが彼女に心をずっと捕らわれていたつもりはありません。
恋人も何回かできました。それぞれ当時は心の底から愛していました。
大学生の頃に精神病も経験しました。このころから私の考えは昔に比べて段々と変わってきているのだなと実感しました。
幼いころは大人に近づくのが嫌で、縛られたくなくて、何かの長になったりだとか人の上に立つことは好みませんでした。大勢よりも少人数か、独りが好きでした。考えや嗜好は少しずつ変わっていって、まとめ役になることも増えていきました。
そして、小学生の頃の自分とは別人ともいえるようになったころ。よく晴れた午後のことでした。私は、カフェに行って好きでもないコーヒーをすすりながら仕事をしていました。
休日だと言うのに一体自分は何をしているのだろうと思って、視線をパソコンから話したその時でした。
ざーっという音と共に、私の感覚は全部、ただ一点に引き込まれました。音の消えた原因が通り雨だと気づいたのはそれから数分してからのことでした。
雨で少し店内が暗く感じて、その中でスポットライトが当たるように、奥のカウンターに一人で座っている少女が私の目には輝いて見えました。
またもや考えるよりも先に身体が動いていました。そんなわけがないのに。ありえないのに。私はなぜかその少女に、彼女に確信を持ちました。忘れるはずがなかったから。ずっと追い求めたその後ろ姿を、見紛うはずもないと、私はきっと心の奥底でそう思っていました。
彼女はコーヒーを飲んでいました。どこにでもある、ただのチェーン店のカフェ。それなのに彼女が飲むだけで息を飲む程に美しく、例えば映画のワンシーンのようでした。
「やっと気付いたのね。しばらくぶりかしら」
彼女は呟くように言いました。それからくるりと振り返って、私の名を呼びました。
「しばらく、って……。二十年だよ」
涙がこぼれてしまいそうになって、慌てて誤魔化しました。あの頃だったら、泣いていたかもしれません。許されない気がしたのです。
「そうね。昨日のことのようだわ」
暢気そうに彼女はそう言って、またコーヒーを飲みました。その暢気さは想像だにしないほど重く感じられました。年を取ったからかもしれません。達観したような、どこかずっと先を見ているような彼女の眼は深い黒で、少しでも気を緩めば引きずり込まれてしまいそうでした。
彼女は、変わっていませんでした。この目まぐるしく巡る世界で、彼女だけは変わらずただそこに座っていました。
「……疲れてそうね」
私の目を見て言いました。
「まあ……、色々あって」
「二〇年前とは、違う疲れかしら」
全て見破られている気がしました。それは自分が頑張って隠していることだけじゃなく、当の私すらも気が付いていない奥底まで。
「どうだろう。覚えてないや」
「きっと一緒ね。分かりやすいもの」
あの時と同じ言葉でした。短く、冷たく感じるかもしれないその声は、私には温かすぎました。
「変わっていないわね」
「変わったよ。あの頃は君の方が背は高かったし。色々、あったから。考え方も、好きなものも、変わった。あのころとは違うよ」
信じたかっただけかもしれません。
「いいえ、変わっていないわ。貴方はあの頃も今も、ずっと貴方でしかないわ」
「それはじゃあ、成長してないってことだろう?」
「……」
否定して欲しくて言ったのだと思います。彼女の口からすぐに言葉が出てくることは無く、私は少々の絶望を感じました。
「成長って、なに? 貴方は、何になりたいの」
結局、私はその質問に答えることはできませんでした。
「私、大人って言うのが嫌いよ。この世で一番、無責任な言葉だもの」
そう言うと、彼女はまたコーヒーを飲みました。コーヒーから立ち上る湯気がゆらゆらと揺れていました。カップの中のコーヒーは、減っているような気がしませんでした。
それから、少しの間他愛のない話をしました。また、あの頃に戻ったような気がしました。けれど、時間が経つのはあっという間でした。
「さて、そろそろ帰る時間ね」
席を立って、彼女は最後の一口を飲み干しました。
「また会える?」
実に子供っぽい台詞が喉をついて出ました。
「どうかしらね。貴方がこの先もまだ迷い続けるのなら、いつの日か会えるかもしれないわ」
「そっか」
彼女の言葉はずっと不思議でした。なのにすとんと心に落ちるような、そんな感覚があって、私は小さく微笑んで返事をしました。
雨はすっかり止んでいました。長いスカートが、跳ねた水で汚れないように、彼女は下を気にしながら、さよならの一言もなしに歩いて行きました。
「柊」
どうしても、数秒で良いから、その時間を延ばしたかったのでしょう。二〇年前にたった一度だけ聞いたその名を呼びました。
彼女はゆっくりと振り返って、何も言わずに私の方を見ました。夕日が彼女の輪郭を象って、表情は良く見えませんでした。
「またね」
まるで昨日ぶりみたいに、私は言いました。
「……えぇ、また」
気のせいでしょうか。笑っている気がしました。そして、彼女はまた私の記憶の中に消えていきました。
それが、今から五〇年前のこと。彼女の姿を、最後に見た時の話です。
「それから数年が経って、ばあばと出会ったんですよ」
老人は薄い青に染まった空を見上げながら言った。季節外れの風鈴が鳴る。
「ふーん……、ねえじいじ、その人の写真ないの?」
「ないですねえ」
「そっか。残念だね」
「そうでもありませんよ」
視線を少年の方に向ける。口調は穏やかだった。
「もう会えないかもしれないのに?」
「……そうですね。でもなぜか、寂しくはないのです。一緒にいなくても、変わらないんですよ」
少年は不思議そうに老人の顔を見上げた。老人は、またあの頃のことが頭に浮かんだ。そう言えば、このくらいの頃だったと思い出す。
玄関の方から声がした。少年のことを呼ぶ声だった。無邪気に澄んだ声。夏の晴れた日の太陽のようだった。
「ほら、友達が呼んでいますよ」
「うん。またね、じいじ」
「気を付けて行ってきなさい」
手を振って駆けていく少年の後ろ姿を見ながら、老人はまた空を見上げた。少し冷たい風が心地よかった。
今までの人生がフラッシュバックするように思考が頭を駆け巡った。優しい終わりが、近づいているような気がした。
「……結局、大人にはなれませんでした」
「やっぱり変わらないわね」
聞き覚えのある声がすぐ横からした。
「よく言うよ。こんなにしわくちゃなのに」
「そうね」
「君は変わらないな」
「あら、歳は貴方よりも上よ」
「知らなかった」
「女性に年齢なんて聞くものじゃないわ」
「それもそうだね」
「……」
「君の言うとおりだったよ」
「何のことかしら」
「僕は大人にはなれなかった。ずっと、変わらないままだったのかもしれない」
「えぇ。貴方は変わらないわ、あの頃から」
「気が付いたよ。みんなフリをしてただけだった」
「私はそれが嫌い」
「うん、知ってる。僕も嫌いだ」
「そ」
「みんな妥協して生きてる」
「嫌な世の中ね。それも、ずっと変わらないわ」
「……けど、僕は思うんだよ」
「……」
「大人がもしいたら、世界はそれで十分になる。人は、愚かで、度し難く、醜くあって、だから美しいんだ」
「そう。それが貴方の答え?」
「どうだろう。そう言われると自信がなくなっちゃうな」
「貴方らしいわ」
「僕はずっと君が完璧だと思ってた。君のようになりたいと思ってた」
「あら、その理論で言うと私は美しくないわ」
「ううん。君は美しいよ。君も、完璧じゃない。だって、僕をこんなにも長い間縛ったんだ。酷い人だよ」
「……どういうことかしら」
「あの時、告白もしてないのに僕のこと振ったろ」
「あら、気にしていたの?」
「当たり前だろう」
「それはごめんなさい。縛りたくなかったの、あなたのこと。でも逆効果だったかしら」
「……でも、君からはそれ以上に貰ったものがあるから」
「そんなつもりないわ」
「それでもだよ」
「変な人ね」
「昔は、本当に大人になりたいと思ってた。周りの醜いやつらとは違った、みんなが思い描くような、大人。でもそれは、ただ隣の木の花の方が、綺麗に咲いているように見えただけだった」
「そうね」
「ねえ」
「何かしら」
「僕は、綺麗に咲けたかな。君の隣にいられるくらい、綺麗に」
「……えぇ。貴方はずっと、変わらないわ。綺麗よ、嫉妬してしまうくらい」
終
ネバーランド 天野和希 @KazuAma05
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