第2話

 大晦日前になったら極端に野菜が高くなる。まだ野菜が安い内にと買いに行っても、じりじりと値上げの最中なため、結構な値段になってしまった。

 白菜も大根もネギも。なにもかもが高いなと、俺は籠に入れたそれらを「げぇー」と眺めていた。素子さんはその中で肉を買いに行く。


「お肉も結構高くなっちゃってますから、いっそひき肉を買ってつみれにしようかなと思うんですけど。鶏肉も豚肉もちょっとだったら買えると思いますけどどうしますか?」

「うーん……俺、ひとりだったらあんまり鍋を食べたことないんですよね。ですから、なにを食べても新鮮なんで、予算内に収まれば」

「わかりました。じゃあ鶏ひき肉に、追加で豚肉のバラ買いましょうか」


 最後にちゃんこ鍋の素を買ってレジで支払いを済ませ、買ったものをエコバッグに詰める。どれもこれもずっしりとした重さで、俺は重い野菜を入れたほうを持ち、素子さんは肉や鍋の元を肩に提げて店を出て行った。

 暖冬だって言っていた割には、今日も冷え込みが厳しい。


「寮に残っている子たちって、琴吹さんみたいに家に帰れない子ばかりなんですかねえ」


 俺は何気なく言ってみると、素子さんは俺のほうを見上げた。


「そんなことはないと思いますよ。早川さんの場合は実家の負担を考えて帰れないみたいですし、舘向さんの場合は冬の間はなかなか実家に帰るのが大変みたいですから。七原さんとかは単純に電車賃の問題みたいですし」

「なるほど……俺の場合は実家から出てますからなんともなんですけど、素子さんは三が日に実家に帰らなくってよかったんですか?」

「そうですねえ……私も大学に進学してから、家に帰ってませんから。最初から実家に帰るって選択肢はありませんでしたねえ」


 彼女は鼻を赤くしながら、空を見上げる。

 彼女の言葉にある含みに、俺は思わず彼女の横顔を見つめた。穏やかでしなやかで、でもどことなく頑固。この数か月寝起きを共にしても、いまいち掴みづらかった彼女の輪郭が、やっと捉えることができそうだと、自然と息を飲んでいた。

 今日は澄んだ青空をしているから、雪が降ることもないだろう。素子さんはあまりにも世間話のようにして語り出す。


「私の故郷は、琴吹さんの家庭環境とそんなに変わらないんですよね。女に学問は必要ない。花嫁修業していい嫁入り先に行けっていう、時代錯誤な考えがこびりついている場所でしたから。あそこでは女性はその家の備品ですから、女に人権なんてものはありません」


 俺はその話に黙り込んでしまった。

 琴吹さんの話は未だに現実味がないっていうのに、まさか素子さんまでそんな境遇の人だなんて、思いもしなかった。

 でも、思えば彼女の言動が妙に「あれ?」と思う部分は多かった。

 うちはひとり暮らしする以上、最低限の料理くらいは覚えろという家庭方針だったけど、彼女は俺が料理できるのを普通に驚いていた。動物の性質に対しても妙に詳しかったのは、そういう対策を取るのが当たり前の生活を送っていたせいだろう。動物を飼う習慣でもなかったら、そこまで詳しくはない。

 素子さんはいつもの朗らかな口調で続ける。朗らかな口調の割には、内容はヘビーだ。


「たまたま私は故郷で一番成績がよかったんで、それを見た学校の先生が、都会に出て勉強したほうがいいとおっしゃってくれたんです……公立の学校の先生か、役所の人、郵便局の人くらいしか、外から来た人なんていないところでしたから」

「じゃあ素子さんは実家では……」

「学校の先生も両親を説得してくれましたし、ふたりとも納得してくれたんですけどね。うち、三世帯で住んでましたからかなり揉めちゃいまして。祖父も祖母も、娘が大学に行くなんて恥知らずだみたいに大騒ぎになっちゃいましたから、それのせいで受験も大学入学も、ほとんど夜逃げ同然で行いました。おかげでうちの母にも『絶対に地元に戻るな』って言われちゃいまして、本当に大学に進学してから、会えていません」


 そうきっぱりと言う姿に、俺はずしんと重くのしかかる。

 これじゃあ、俺は甘えているから言えないよなあ。今の関係がちょうどいいから、現状維持がいいなんて、都合のいいこと。

 俺が思わず遠くを見ると、素子さんはにこにこと笑う。


「でもこんな面白くない話、友達にもしたことなかったんです。まさか話すことになるとは思っていませんでした」

「あー……俺、そういうのをマジで、全然知りませんでした。高校卒業してから、普通に小説ばっかり書いてたんで、世の中にはそういう話もあるんだって」

「そういうの、別に知らないほうが幸せだから、別に亮太くんが落ち込む必要はないと思いますよ?」

「そう……なんですけど。ただ、俺は素子さんにすっごく感謝しているんです」


 なんとか振り絞った声に、素子さんはキョトンとした顔をした。そこから俺は堰を切ったように口を動かす。


「俺、さっさと小説家デビュー決めたせいで、世の中を舐め腐っていたんですよ。単純に世間知らずだっただけなのに。そういう鼻っ柱を折ってくれたのは、素子さんだと思いますんで」

「……大袈裟じゃないですか? だって私のほうが感謝してるくらいなんですから」

「そうかもしれないんですけど、そうじゃなくて」


 自分でもキャラではないとはわかっている。小説家だからと言って、キャラにそういうこと言わせるたびに「ああ、こいつクサいなあ」と思っていたけれど、今だと俺の書いたキャラは結構頑張って伝えていたんだなと思い知らされる。


「……まだ真人間というには半端なんですけど、この一年近く、素子さんのおかげで結構人間的に成長できたと思うんです。あの、来年も……その次も、一緒に過ごし……ああ、まどろっこしい! 結婚! 本当にちゃんと結婚しませんか!?」


 俺がそう言い切ったことに、素子さんはぽかん。という顔をして見せた。

 ああ、この顔。なにも伝わってない顔だ。素子さんは一瞬困ったように眉をひそませたあと、にっこりと笑った。


「ええっと亮太くん。私も不幸自慢をしたかった訳じゃありません。言いたかったことを吐き出しただけで、気を遣ってくれなくっても結構ですよ」

「ああ……そうじゃなくって……」


 やっぱり。なんにも伝わらなかった。そうがっくりと肩を落としたあと、素子さんは「でもそうですね」と付け加える。


「嘘をずっと嘘のまんまにしなくっても、よかったんですよね。ただ、今のまんまじゃ、私は亮太くんにおんぶに抱っこですから駄目です」

「えっと……それってどういう意味で……?」


 これは遠回しに断られているんだろうか。それとも、脈はあるんだろうか……?


「私はきちんと自立できましたら、そのときにもう一度同じ話をしてください。そのときには、私ももうちょっとマシな人間になれていたらいいんですけど」


 そう言われて、俺は背筋を伸ばした。

 嬉しい。もうちょっと他に言えることがあればよかったのだけれど、今はそれ以外に言えることがなかった。


「俺も……もう一度プロポーズできるように、頑張ります。小説もバリバリ書いて、管理人の仕事も、今まで以上に頑張ります。俺のほうこそ、本当にずっと素子さんに、おんぶに抱っこ状態でしたから!」

「はい、頑張りましょう」


 今は年末で寒くて仕方がないはずなのに、気のせいか首に巻いたマフラーが熱い。素子さんも気のせいか、頬が赤い。

 ふたりで歩いている間に、青陽館が見えてきた。

 中に入ると、寮生の子たちがひょっこりと顔を出してきた。


「あ、管理人さんたちお帰りなさーい」

「カセットコンロ出したんですけど、ガスボンベのセットできる子がいないんですけど、見てもらえないですか?」

「あー、わかったわかった。ちょっと待って」


 俺は慌ててコートを脱いだら、買ったものを持って食堂へと向かった。

 食堂で向かう途中、俺に声をかけてきた七原さんが俺の顔を見て言う。


「あれ、管理人さん顔赤いですよー? なんかありました?」

「なっ……なん、でも! ないから!」


 俺は必死で誤魔化したものの、寮生たちは皆顔を見合わせてしまった。


「ふーん……じゃあ、今はそういうことにしておきます」

「本当に! ないから!」

「はいはい。夫婦仲本当にいいですよね、管理人さんたちは!」

「本当に違うからぁ……!」


 俺の悲鳴は、寮生たちに流されてしまった。

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