第2話

 最後にスーツを着たのは、出版社に招待されてのパーティーのときだったと思う。高校を卒業したら制服を着る訳にもいかないからと買ったスーツは、未だに型崩れすることもない。

 俺がそれを着て、面接会場に指定された大学の事務所へと向かっていった。

 自分を追い越して走っていく自転車には、ここの大学の学生らしき連中が乗っているのが見える。

 だんだん近付いてきたのは、大きなレンガ造りの建物だった。

 この辺りは学生街で、近所には公立小学校も公立中学校もあるし、有名な私立高校も見える。その中央にあるのが、この私立日名川大学ひながわだいがくだ。

 ここかあ。面接するのはここの事務所だと書いてあったけど、事務所ってどこだろう。

 俺は守衛さんに聞こうかと、きょろきょろと辺りを見回したところで、大学のフェンスにもたれかかっている女の人に気付いた。

 年は俺と同い年くらいだろうか。学生ではないらしい。真っ黒なリクルートスーツを着て、髪はひとつにまとめている。そして……目に涙を溜めている……って、えー。

 何度も何度も主張するように、俺は高校以来まともに女性としゃべったことがない。ましてや泣いている女の人なんて、どうすればいいのかわからない。

 どうしよう……見て見ぬふりをするのは簡単だ。そもそも最近は男がいきなり見知らぬ女子供に声をかけると問題だと言われているし。でもな……俺はちらちらと守衛さんのいる位置を確認してから、意を決して声をかけることにした。


「あのう……」


 そう声をかけた途端、すすり泣いていた女性が肩を跳ねさせた。うう、ここで不審者扱いされたらどうしよう。そう腰が引けているものの、あとはプロに任せれば大丈夫だろうと、言葉を続ける。


「ほら、あそこに守衛室がありますし! 困りごとは守衛さんに聞けばいいですよ!」


 なんとか俺は手振り身振りで「不審者ではありません、怪しい者ではありませんから」をアピールしたら、女性はようやく涙をハンカチで拭って、こちらに顔を向けた。

 目尻の化粧が崩れてしまっているけれど、さっきまでの涙はようやく止まったみたいで、少なからずほっとした。


「いえ、守衛さんに頼っても仕方ないことなんで……あのう、もしかして管理人募集に応募した方ですか?」


 その言葉に、俺は軽く緊張が走る。もしかしなくってもライバルか。いくらなんでも、寮の管理人なんてふたりも雇ったりしないだろ。俺が返事に困っていたら、女性は続けて言葉を継ぐ。


「……新聞広告読んで、面接の応募をしたんですけど、どうも新聞広告でミスがあったらしくって、いつも読んでいる新聞とは違う新聞の求人欄を見て、困っちゃったんですよ……」

「ええ?」


 もしそうだったら、事前に言いそうなもんだけれど。それとも大学の事務所と広報のほうにすれ違いでもあったのか。女性は本当に困った顔で告げる。


「寮の管理人なんですけど……どうも夫婦での採用だったみたいなんですよ。私もふたり一組の面接の人たちばかり見るから、変だ変だと思って確認したら、これで……」

「ええ……っっっっ」


 なんでそんな中途半端な広告流してんだ、広報! そもそもそんなのひとっ言も書いてないぞ……念のため持ってきた新聞広告の切り取りを確認してみるも、やっぱり書いてない。俺と彼女が読んでた新聞広告だけミスったとか、詐欺じゃないか。

 でもどうするよ。このままじゃ仕事どころか住所もなくなるし……!

 彼女はまた悲し気に言う。


「私……困るんですよ、ここに合格しないと」

「……ええ、あなたも、ですか?」

「……リストラされて、社寮を追い出されちゃったんです。ずっとネットカフェに籠っていましたけど、貯金も尽きかけていますし、住所がなかったらなかなか次の仕事も決まらなくって……実家にも、帰れないですし」


 その言葉に、俺は言葉を失う。俺よりも背景が大変そうだ。ネットカフェに何日も住んでいたら腰を悪くするし、実家に頼れないっていうのが一番きついと思う。

 だからと言って、俺も困るんだよなあ……家がなくなったら、仕事場がなくなるし、原稿が書けなくなる。だからなんとしてでも新しい住居が必要で……。

 そこまで考えて「あっ」と手を叩いた。


「だったら、俺たちが夫婦ってことで面接に行けばいいんじゃないですか?」

「……は、はあ……?」


 彼女は当然ながらポカンとした顔をしてしまった。

 偽夫婦というのが最近流行っていると佐々木さんから教えてもらって、何作かそういう関連の本を読んだこともある。俺自身がピンと来なくってその企画は流れたけれど。でもまさかそこから面接の突破方法を考えつくとか、思ってもいなかった。


「いろいろあって結婚資金がないから、まだ籍とか入れてない。結婚資金稼ぐために、ここで家賃とかもろもろ浮かせて働きたいって、こうすれば通りませんかね?」

「そ、そんなんで、騙せますか……面接官の人たちを……?」

「だって管理人って、学生の面倒を見ないと駄目なんでしょう? 体力が資本だったら、俺なんかまだギリギリ若い部類ですし」


 アラサーが若いのかどうかは世間の判断に任せるが、若い盛りのついた学生の相手を、世代が違い過ぎる人間がしたら、トラブルが起こることだってあるだろう。まだ学生とはギリギリ近い世代だと思うし。

 俺がそう提案すると、ずっと呆けた顔をしていた女性が、しばし俺を見つめた。それにギクリとする。

 やはり顔か……偽夫婦ものの定番は、美男美女らしい。不細工じゃないだけでイケメンでもないのと夫婦なんてのは、いくら偽夫婦とはいえども嫌かもしれない。

 断られるか。もうちょっとまともな人がいいと言われたら、俺もすごすご背中を丸めて帰るしかないが。

 やがて彼女は顔を綻ばせた。

 あ、可愛い……そう一瞬思ったが、すぐに打ち消した。お互いに住むところを賭けての共闘なのだから、そういうのを持ち込むのはなしだろう。


「なんだか、なんとかなりそうな気がしてきました……」

「そう、ですか……! じゃあ面接に行きましょう! あ、名前をお伺いしてもいいですか? 俺は黒林亮太くろばやしりょうたです」

「私は……白羽素子しらはもとこです」


 ずいぶん古風な名前だなとぼんやりと思う。でも音の響きはいい。

 ついつい職業病が出るのを誤魔化しながら、ふたりで付け焼刃で打ち合わせをしてから、ようやく守衛室に出向いて、面接会場を教えてもらった。

 意外にも面接会場に来て、リクルートスーツを着ているのは俺と白羽さんだけだった。落ち着いたジャケットにスカート、スーツ姿だけれど、どこもかしこも人生経験豊富な夫婦ばかりだ。

 会場手前で受付番号をもらい、それで呼び出されるのを待つ。俺と白羽さんは緊張した面持ちで待っていたら、受付番号が呼ばれた。


「失礼します」


 高校入試のとき以来の面接で、俺はガチガチになっているのを、白羽さんは心配そうに小声で「大丈夫ですか?」と聞いてくれる。さすがこの間まで社会人。俺よりも場数を踏んでいるせいか、さっきまで泣いていたのが嘘のように落ち着きはらった態度だ。

 俺たちが机に履歴書の入った封筒を差し出すと、面接官に「どうぞおかけください」と言われ、ギチリと音を立ててパイプ椅子に腰を落とす。

 面接官は俺と白羽さんを交互に見て、意外な顔で見つめる。


「履歴書を確認しましたが、おふたりとも籍を入れていないようですが」


 案の定、お互いの籍が入ってないことについてツッコミが入った。俺はしっかりと先程の打ち合わせ通りに答える。


「まだ婚約したばかりで、急な区画整理で急遽お金が必要になりまして……」

「なるほど……黒林さんは、今まで正規の仕事をしたことがないように見えますが」


 面接官が疑り深い顔で、こちらをじっと伺う。

 うっ……残念ながらそれは本当のことだから、言い訳なんかできない。でも素直に「なんでもしますから、家がなくなるのは嫌です、ここで働かせてください」と本当のことを言っても、「わかりました、では採用しましょう」なんて言わないだろう。

 俺が黙り込んだのをちらりと見て、隣の白羽さんが口を開いた。


「彼はたしかに就職こそしていませんが、きちんと自営業で仕事をしていました。だからこそ、私はそんな彼を支えようと思って婚約しました。まさかふたり揃って家がなくなるとは思っていませんでしたけど」

「ほう……しかし白羽さんの前職と管理人の仕事は、かなり勝手が違うかと思いますよ?」

「インターンの世話もしていましたから、学生との付き合いは慣れています。年が近い分、彼らの就職相談やプライベートの相談もできるかと思います」

「なるほど……」


 面接官は俺のことはあからさまに下に見ていたが、しっかりとした受け答えをしている白羽さんの態度や、学生との年の近さにはなにかしら思うところがあったらしい。なにかを熱心に書いてから、「わかりました」と言う。


「合否判定は今週中にしますから、それまでお待ちください。お疲れ様です」

「失礼しました」


 ふたりで頭を下げて、面接室を後にした。

 どっと疲れが出るのは、高校受験以来の面接だったからだろう。世の中の人間はこんなに神経が磨り減ることを平然とやっているのか、すごいな人類。


「お疲れ様です、白羽さん……本当にありがとうございます。俺ひとりじゃ面接を乗り切れる自信がありませんでした」


 俺が白羽さんにお礼を言うと、さっきまであれだけ頼もしかったのに、おろおろと小動物のような動きで「い、いえ……!」と首を振る。


「私も必死でしたから、実家に頼れない以上、どうにか次の就職先見つけないとと。私のほうこそ、余計なことを言ってしまったでしょうか? 黒林さんのお仕事の話、ぽろっとしてしまいましたけど」

「あー……」


 一応ふたりで婚約しているという形を取った手前、白羽さんには俺が小説を書いていることは伝えた。さすがに彼女が俺の書いている小説のジャンルを読んでいるとは思えないけど、就職したことがないだけで、ずっと仕事をしていたことだけは伝えておかないとと思ったんだ。

 もっとも、面接官は俺がなにをやっていたのかはわからないだろうし、興味もないだろうから、白羽さんのフォローがなかったら乗り切れなかったと思う。


「気にしないでください。あ、でも白羽さんどうしますか?」

「ええっと?」

「合否判定は今週中ですけど、白羽さんが今住んでいるのって、ネットカフェでしょ。あそこでずっといるのはまずいんじゃ」

「あ……」


 ……ん、でも俺の家に、白羽さんを呼ぶのもまずくないか? いくら婚約しているふりをしているとはいえど、今日会ったばかりの女性を連れ込むのは、誤解されてもおかしくない。

 俺は必死で訴える。


「お、俺は仕事がありますから、最悪コンビニのカフェスペースとか、ファミレスで一夜明かしますから、俺の家は好きに使ってくれれば! 電話はほら、ふたりで受けたほうがいいんじゃないかと、本当にそう思っただけで……!」


 女性を家に連れ込むような甲斐性なんてないです、本当にないですと必死に訴えると、白羽さんもあわあわと言う。


「お、お気遣いなく! 私もしばらくはネットカフェにいますから! ただ昼間に会えるようにしましょう! それこそコンビニとか、ファミレスとかで!」


 これ以上言ったら家に連れ込もうとする不審者扱いされかねないし、白羽さんにも断られてしまった以上は、それで手打ちにするしかなかった。ふたりで連絡先を交換すると、それぞれ頭を下げて、大学から離れていったのだった。

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