大嫌いな救世主

@fukamiyuki

第1話

 この二十分で三人もの人が死んだというのに、私はなんの感情も沸かなかった。もう名前ですら、私の頭には残っていない。週で一番憂鬱なこの時間。私の前で田中くんの頭が不規則に上下する。

「えー、この時セントヘレナ島で島流しされ、ナポレオンは亡くなりました」

 さらっとまた一人。さすがの私でもナポレオンが重要人物だということぐらいは分かっていたため、今日初めてのメモを取る。

 "月曜日というものはいつもより重力が大きくなる日である。"

 私は真面目にこう考えていた。それは今日の教室を見れば一目瞭然。月曜日はどうしてか、いつもより瞼も頬も背筋でさえも重たく下がってしまうようだ。

 そんなこの日の一発目、読み聞かせのような声が教室中に響く。瞬きの一瞬が睡魔の誘い。私は意識が朦朧としていた。

「おーい、大丈夫かー」

 教室中に電撃が走る。私は背筋がぞっとして、目がかっぴらく。

「おーい。田中ー。寝てんなよー」

 私の一つ前で、先生が田中くんを覗き込む。田中くんが机に散らかった教科書の中から、なぜだか必死にペンを探し出し、ぎゅっと握って見せた。 

 圧のある目で田中くんを見つめる先生に、私は苛立ちを覚えた。授業中に寝るのも問題だけれど、眠たくなる授業をするのも問題なのでは?私は沸々と込み上げてくるこの感情を伝えられるはずもなく、田中くんだけに罪を押し付けるように、知らん顔した。そして再び先生は私たちに背を向けて話始めた。しかしこのおかげで目が覚めたのだ。

 九時二十五分。気のせいか、皆が時計に目をやっている。私はその意図を何となく理解していた。授業が一向に終わらない。これもかなり重大なのだが、もっと重大な問題がひとつ。私の斜め先にぽかりと空いた席。山下だ。机の中に教科書やら、プリントやらがぐちゃぐちゃに突き刺さっている。

「今日はさすがに来ないんじゃない?」

「いやー、って思わせて結局来るのが山下じゃん」

 後ろからこそこそと話す声が私の耳に入ってくる。

 山下。そう、私が無性に毛嫌いしている彼。私の学校では授業開始から三十分以内に教室に入れば出席扱いされるというルールがある。学校が退屈そうな彼は毎朝そのぎりぎりを狙ってやってくる。そしていつの間にか帰ってしまう。これが日常になっていた。普通に考えておかしなことだ。しかしもっとおかしいのは、山下に対してだれも何も言わないことだ。生徒も担任も、田中くんに叱ったあいつでさえも。授業に出席しているだけで「今日は山下いるのかー、えらいなー」と言われ、山下は「えらいっしょ」と呑気に返しクラスの笑いを搔っ攫っていく。だが、皆が笑っても私の頬が上がことは決してなかった。だって、何がおもしろいの?私だって学校は行きたくない。おそらく山下よりも何倍も行きたくない。遅刻してきた山下を群がるようにしてできた輪を、私はいつも自分の席から一人眺めていた。

 ガラガラガラ。皆の首が一斉に百八十度回移転する。しかし私は微動だにせず、この見慣れた光景にため息をついた。山下はもう慣れたように教卓に遅刻届けを置き、ゆっくりと自分の席に座る。それを先生は無言で手に取り、何事もなかったかのように教科書をめくった。

 九時二十七分。今日もうちのクラスは、全員出席となった。

 居眠り初心者が指摘され、遅刻常習犯が見逃される。さすがにこれはおかしい。私は月曜日のせいもあるのか、いつもより貧乏ゆすりが止まらない。

 ノートに写された「ナポレオン」の五文字。私はふとそれに気が付き、はっと黒板に目を向ける。だが遅かった。「ナポレオン」はもうとっくに消え、呪文のようなカタカナが並んでいた。私の頭の中にはナポレオンが何をしたのかも、なんでメモを取ったのかすらも、残っていない。ただどこにも向けられないイラつきが、ぐるぐると頭の中を回っていた。

「えー、じゃあ、残りの十〇分で、今日やったとこまでのテストをします。もう伝わってと思うけど、これは平常点にいれるからなー」

 さっきまでのイライラがぱっとなくなり、それが焦りとなった。テスト?そんなこと言ってた?気持ちを抑えようと、教室を見渡す。こういう時は大体、皆も忘れている。共感を得ることで、テストができなかったのは私だけじゃない。むしろちゃんと宣伝しなかった先生が悪いのだと責任転嫁できるのだ。

「ねね、田中くん。テストするなんて言ってた?」

 居眠りの田中くんなら、自分の欲しい返事をくれるだろうと高を括っていた。

「えっ、先週の金曜に係りの人が言ってたと思うよ」

 あっ、やばい。予想外の返答に理解が追い付かない。私だけ?っと横を覗いてみる。

「テストやばーい。全然勉強してきてないよ」

 やばいやばい。こういうやつは大体いい点を取るのがオチなのだ。私はとりあえず目に見えているだけの単語を復唱する。前のめりになりながら黒板を見つめていると、不意に山下と目が合った。どうせこうゆうやつも、勉強してないとか言いながら、自頭の良さでどうにかなってしまうのだろう。私は再び垣間見えたイラつきを追い払い、黒板に目を戻した。

 「せんせー。それ、来週にしない?俺今来たばっかだから全然わかんないや。俺、マジで単位やばいじゃん⁉︎来週までにめっちゃ勉強してくるからさ。先生に質問したいとこあるし。おねがいしますよー」

 山下が急に立ち上がり、先生に訴えた。そして続けた。

「みんなも今日やって中途半端な点とるより、一週間勉強して100点取りたいよなー」

 すると山下に同情するように拍手や歓声が起こる。呆れた顔をした先生を、顔の前で両手を合わせた山下が上目遣いをして粘る。

「はぁー。もう、わかったよ。来週な。絶対だからな」

 ため息と一緒に出た先生の言葉で教室にはさっきの比にならないぐらいの黄色い声援が飛び交った。私は一人静かに胸を下ろし、少し遅れて拍手に混ざった。席を立つ山下に目をやると、山下はこちらに顔を向け眉毛をピクリと動かし、どこか自慢げににやりと笑った。

「あー、参ったなぁ。俺、来週百点取っちゃうぜ」

 そうつぶやく山下を見て、こんなに明るい月曜日はいつぶりだろうかと迂闊にも笑ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大嫌いな救世主 @fukamiyuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る