【7】薬か毒か

「あなたの頭痛や吐き気の原因が分かりましたよ。ヴィオラ様の食事には、薬物が盛られています」


私は呆然として、エデンの声を聞いていた。

(――薬物? そんな、まさか……)


私の体を操っていたエデンは、ソファにもたれて深呼吸しながら目を閉じた。次の瞬間、心の中の世界にエデンの魂が――つまり、青年姿の彼が現れる。

彼は精悍な顔立ちを悔しそうに歪めながら、私のすぐそばまで歩み寄ってきた。


(エデン! 薬物なんて……何かの間違いじゃあないの? 体調不良はあったけれど、死にそうになったことはこれまで一度も――)

(死なない薬物だってあります)

エデンはわたしを気遣うような顔をしながら、説明を付け加えた。


(ヴィオラ様の食事に盛られていたのは、ハイポキシアという名の軍用薬物です)

(軍用……薬物?)


そんな言葉自体が、初耳だった。


(俺はこの薬物を何度も飲まされていました。服用を義務付けられていたんです)

(……!?)

(王国騎士団の竜伐部隊に編成されたばかりの時期、実戦投入前の訓練生だった頃は毎日飲まされていました。だから、味で分かります)


エデンは言った。その薬物は、本来は軍人が訓練をする前に服用する薬なのだそうだ。


(あの薬物は、人間の心肺機能を強制的に引き下げるんです。その状態で訓練を行って、身体強化を図ります。……ヴィオラ様は、標高の高い山で過酷な訓練をする『高地訓練』というのをご存じですか? 高地は空気が薄いので、心臓や肺に負担がかかります。それと似たような状態を人為的に作るのが、あの薬物です)


副作用で頭痛や動悸などが起こるのだと、エデンは付け加えた。


(それじゃあ、クラーヴァル公爵家に嫁いでから不調が続いていたのは……)

(副作用でしょう。幸い、極端な過剰投与をしなければ中毒死することはありません。ですが――)


エデンはわなわなと拳を震わせている。


(ハイポキシアは俺の存命中には禁止薬物指定され、出回らなくなったはずです。服用後の訓練で体に負担がかかりすぎて、死亡事故を起こす者があとを絶たなかったからです。……まさかそれを、ヴィオラ様の食事に混ぜるとは)


衝撃の事実に、血の気が引いた。


(ヴィオラ様、今まで気づきもせずに申し訳ありません)

(謝らないで、エデン。愚かなのは私よ。毎日食べていたのに、味がおかしいと思ったこともなかったんだもの。……あなたは、すぐに気づいたのに)

(連日服用していると、味覚が麻痺して気づかなくなります。俺も騎士団で飲まされていた頃は、そのうち味を感じなくなっていました)


……そもそも、なぜ私の食事に薬物が混ぜられていたのだろう?

誰が薬を混ぜたのかは知らないが、命じたのはルシウス様に違いない。薬物を盛るほどに、私を憎んでいたのか――。


(ルシウス様は私を殺そうとしているのかしら……)

(俺の予想ですが、殺す気はないと思います)


殺すなら致死量を一気に盛るでしょうし、1年近く前からじわじわと体調不良にさせる必要もありませんからね――と、エデンは不愉快そうに付け加えた。


(頭痛や吐き気でじわじわ苦しめて、ストレスのせいだと思い込ませたのかもしれません。事実、診断した医師からは「ただのストレスだ」と説明されたんでしょう?)


(……でも、なぜそんなことを?)


(ヴィオラ様がを上げて離婚を申し出たくなるように仕向けているんだと思います。ストレス続きの公爵家暮らしに耐えきれなくなって、実家のノイリス家へ戻りたくなるように)


この国では『嫁いだ妻は夫の家に従うべき』という古くからの考え方が今なお一般的なので、妻の実家への帰省は社会的に好ましく思われていない。だから出産や病気療養などの際にも妻が実家に戻ることはない。


(まさか嫌がらせのために薬物を盛られるなんてね。……本当に、やり口が異常だわ)


ルシウス様は私との離婚を望んでいる――しかし国王陛下の心証を悪くしたくないから、自分からは離婚を口に出せない。だから私から離婚を願い出るように仕向けているのだろう。


(つくづく最低ね、ルシウス様は。他家の貴族や公爵邸の使用人から、私は『体調不良を口実に屋敷に引き篭もる悪妻』、『公爵夫人としての社交努力を怠る無能な妻』と思われているの。私の評価が下がる分だけ、ルシウス様の『まっとうな夫』として評価を上げていく訳ね……)


表面上ではニコニコしていながら、裏で異常な嫌がらせばかり――。悔しさと恐ろしさで、私は震えが止まらなくなっていた。


(体調不良の原因が分かっただけでも、一歩前進と考えましょう。それでは、引き続きあなたのお体をお借りします)

それだけ言うと、エデンの姿は霞のように掻き消えた。


次の瞬間、体の主導権を取ったエデンはゆっくり立ち上がり、テーブルに据え付けられた魔導通信機を操作して侍女のリサを呼び出した。



「リサ。悪いが厨房で果実を貰ってきてくれるか? 空腹なんだ」

「分かりました、ヴィオラ様」


エデンが未調理品くだものを頼んだのは、毒を混ぜ込みにくいからなのかしら。などと思っていると、エデンはさらに注文を加えた。

「リサ。厨房に行くついでに、一点確認してきてほしいんだが――」


   *


しばらく後に、リサは林檎を持って部屋に戻って来た。皮をむきながら、彼女は『頼まれた件』について報告してくれた。


「ありがとう、リサ。ご苦労だった」

リサが退室したあと、エデンは目を鋭くして私に囁きかけた。


「それではヴィオラ様。早速、明日の夜明け前に行動するとしましょう」


   ◆◆◆



――翌朝。

クラーヴァル公爵のタウンハウスの厨房にて。


料理人のトマス・ベッカーは夜明け前の暗い厨房で仕事に励んでいた。他の料理人はまだおらず、ベッカーは誰より早く厨房に入って料理の仕込みを行っている。


タウンハウスに4人いる料理人の中で、ベッカーだけは仕事内容が別だった。彼の担当は『病人食』だ――公爵夫人ヴィオラの胃腸に負担をかけない料理を作るのが彼の仕事である。本来、ベッカーの勤務場所は公爵領内の領主邸なのだが、今はヴィオラが王都に滞在しているため、彼女に合わせてタウンハウスで仕事をしている。


(ヴィオラ奥様はずっと具合が悪いから、消化のいいものしか食べられない。旦那様は『奥様専用の料理を作るように』とおれに命じた。こんなに名誉なことはないぞ……!)


公爵家の使用人のほとんどがヴィオラを軽視しているが、料理人のトマスは違う。厨房にこもりきりなのでそもそもヴィオラと顔を合わせる機会もないし、彼にとってのヴィオラはただ純粋に『丹精込めて作った料理を提供する相手』なのである。


丁寧に裏ごしした栄養たっぷりの野菜スープ。時間と温度に細心の注意を払った、肉の煮込み。とくに、奥様用の白パンは丁寧に発酵時間を長くする。手間ひまは絶対に惜しまない。


(――よし。次はパンだ)


ヴィオラの白パンは特別製だ。入念に練り込んだ生地にを加えて柔らかくする。ベッカーは、油の小瓶を取り出した。


(この油は、旦那様から渡された特別品だ。滋養に良くて、滅多に手に入らないから1回1滴の量を守って無駄遣いは絶対するなと言われている。誰にも見せてはいけないと。高級なものだから盗まれないように、おれの責任で保管しろと旦那様は命じられた。おれだけの、特別な仕事だ……!)


奥様が早く元気になるように――そんな願いを込めながら、彼は白パンの生地を仕上げようとしていた。そのとき。


「早朝から精が出るな」

と、背中に若い女性の声が投じられ、ベッカーはびくりとして振り返った。


「奥様……?」

夜着にガウンを羽織った公爵夫人が、厨房の入り口に立っている。

なぜ奥様が厨房に……? と、ぽかんとしているジャンのもとに公爵夫人がゆっくり近づいてくる。

公爵夫人の体を操っているのは彼女本人ではなくエデンなのだが……もちろん料理人のベッカーには知る由はない。


「私の食事を担当しているのはお前だな、トマス・ベッカー。毎日ご苦労」

「いえ――」


ベッカーは小瓶をエプロンのポケット隠した。誰にも見られてはいけないと命じられていたからだ。

そのとき公爵夫人エデンの視線が、じろりとポケットに注がれた。次の瞬間、公爵夫人エデンはすばやい動きでベッカーに迫った。エプロンのポケットに手を差し入れて、小瓶を奪い取る。


「あっ……奥さ」

「やはりお前が薬物を仕込んでいたのか」


――薬物?


「お前はこれが何だか理解しているのか?」

公爵夫人エデンの眼光の鋭さに、ベッカーは言葉を失った。彼女の様子が、どこか異質だったからだ。華奢で小柄な公爵夫人と重なって、気炎を噴き上げる戦神の幻が見える気がした。


「答えろ、トマス・ベッカー」

「ひっ――」

思わずすくみ上りながら、ジャンは震える声で答えた。


「で、でも、旦那さまが……内緒にしろって。……奥様のパンに高級な油を、毎日1滴だけ加えるようにと言われています。そうすると栄養があって、やわらかくなるから病人向けだって。でも貴重品だから、人に見られないようにしろって――」

「なんと愚かな」


吐き捨てるようにそう言った公爵夫人エデンを、怯えた目でベッカーが見つめる。


「これは油状の違法薬物だ。少量ならば死なないが、体にさまざまな不調が起きる」

「そんなまさか。あり得ませんよ。旦那様がそんなものを――」


そんなものを奥様の食事に混ぜろだなんて、絶対にありえない。そう答えようとしたベッカーの声は尻すぼみになっていった。

公爵夫人エデンの瞳があまりに冷たくて、その瞳が真実を語っているように感じられたからだ。


「ま。さか、……それじゃあ、おれは、……そんな危険なものを奥様に!?」

ベッカーは声を荒らげようとしたが、公爵夫人エデンに口を塞がれていた。


「大声を出すな」

苦々しい顔をしながら、公爵夫人エデンが続けて言う。


「あの男はヴィオラ様の不調を意図的に引き起こしていた。仮にお前が分量を間違えてヴィオラ様を死なせたとしても、お前を毒殺犯に仕立て上げれば済む――とでも思っているんだろうな。要するに『トカゲのしっぽ切り』だ」


公爵夫人はなぜ自分のことを『様』付けで呼んでいるのだろう? などと思ったベッカーだが、そんなことを指摘している状況ではない。目に涙をにじませながら、ベッカーは押さえられた口で必死にしゃべった。


「そんな。お、おれは――。おれは……知らなかったんです! おれは……ど、どうしたら――」

「落ち着け。ともかく私の言うとおりにしろ」

冷静な声で、ヴィオラエデンはベッカーに命じた。


「お前はこれまでのように、ヴィオラ様に食事を作れ。もちろん、薬は入れるなよ」

こくこくこくと、ベッカーは必死に頷いている。

「そして公爵に何を問われても、しらを切れ。私がお前に接触したことは、口が裂けても言うんじゃないぞ」


警告するように、ヴィオラエデンは押し殺した声で告げた。


「もしお前が公爵側について、ヴィオラ様に再び薬物を盛ろうとした場合。私の舌は確実に異変を見抜く。そしてお前を……これ以上は言わずとも分かるな」


首が落ちそうなくらい激しく、ベッカーが頷いている。


「話はそれだけだ。お前がこちら側に付く限り、私はお前を脅かさない。それでは引き続き、朝食づくりに励んでくれ」



   ◆◆◆





――朝食後。


「ヴィオラ様、これで食事の問題は解消しましたね」

食堂から自室に戻って来たエデンは、ソファに腰を下ろすと心の奥へと戻って来た。


(今朝の食事に薬物は入っていませんでした。ベッカーへの警告が功を奏したようです)

(すごいわ……! ありがとう、エデン)


エデンは昨日、リサに『厨房で調べてきてほしいことがある』と頼んでいた。それが、私の食事を誰が作っているかということだ。


私の食事は病人用の手間をかけたものだから、担当している料理人がいるはずだ――そしてトマス・ベッカーという料理人だと分かった。

ベッカーは誰より早く仕込みを始めると聞き、早朝の厨房に出向いて接触したのだった。


エデンは嬉しそうに目を細めている。

(薬物の成分が完全に抜けきれば、ヴィオラ様の体調は良くなっていくと思います。まずは一歩前進ですね)


心の中に温かな陽光が差すのを感じた。


(ありがとう。……あなたが居てくれてよかった)

(もったいないお言葉です、ヴィオラ様)


ありがとう――と、私は何度も繰り返し彼に伝えていた。やっぱりエデンは、すごい人だ。


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