第6話 咀嚼、嚥下。
朝、お屋敷の庭に一匹の竜が降りてくるのが見えた。竜の背中には、長い金髪の男性が乗っていた。ウラフリータの記憶にある、お父様の姿である。普段は城で寝泊まりをしているドラゴ・ノースアロライナがお屋敷に帰ってきた。今日は、溺愛する娘との会食の予定があった。
お父様からのお手紙によると、わたしが勉学に励んでいるのを大変喜んでいるみたいで、お父さんもお仕事頑張るよ、みたいなことが貴族の大層な言い回しで書かれていた。政変を終えて安定期に入ったノースアロライナは今が頑張り時だ。公共事業を行っているアルナシーム様に負けないように、お父様も日々の政務を頑張っているようだ。
「学童図書を広めるとして、その最大の障壁がそもそも子供の識字率が低いという問題があります。文字が読めないのに、本を広めても意味がありません」
「学童図書には識字率向上の効果があるはずよ。文字が読める大人が読み聞かせをしたら、自然と子供は文字を覚えるわ」
授業の合間にフリタルトと議論を交わしているのだが、これでは卵が先か鶏が先かという話になってしまう。この世界にも似たような言葉がある。チキントリが先か、タマゴが先か。全く同じ語源、全く同じ意味だ。
「文字が読める大人というのもそれほど多くありません」
「では広場に子供たちを集めて、文字が読める大人が読み聞かせをしたらいいわ。そうしたら、文字を読める大人が一人でもいたら、たくさんの子供に文字を覚えてもらえると思わない?」
「それだと、本が一つあれば事足ります。出版事業が成り立ちません」
「あれ?」
自分の知識は正しいはずなのに、フリタルトの言っていることも理解できる。どうして日本で出版は成り立っていたのだろうか。小説家に対する憧れこそあれど、その実態をわたしは詳しく知らない。
「文字を読める人が増えたら、本の需要も上がるはず。読み聞かせはそのための投資と考えましょう。それから教育を理念とした学童図書と、興行を目的とした一般図書で分けたらいいのよ。学童図書は教育支援金で補助も出せば、暇な文官系の貴族は取り組んでくれると思うの」
「ウラフリータ様は簡単に言いますが、多くの人を動かすには目安が必要です。何か参考にできるような事業例の心辺りはありますか?」
「あるわけないじゃない。わたしはまだ6歳よ?」
「そうですよね。失礼いたしました」
こんなふうに、議論がまとまったとしても6歳ではまだ何もできない。ノースアロライナも現在は一次産業に力を入れている。出版業に力を入れる余裕はまだない。わたしが貴族院に入学するころには、ノースアロライナにも余裕が生まれてくるはずだ。そのときまでは我慢だ。
◇◇◇
本来、午後には自由時間があるのだけど、今日は家族の夕食があるのでその準備で忙しかった。準備に関しては、お母様のときにリハーサルをしているのでスムーズに進む。ヨモギは誰かに指示を出すなんてことをしたことがなかったけど、ウラフリータになった今では側仕えに指示を出すのも慣れたものだ。そして、領主一族の性分なのだろう。誰かに指示を出すのは、思った以上に得意だった。
準備を終え、あとは時間が経つのを待つだけになって、わたしはお父様のお手紙を読み返すことにした。領主のお仕事に関して、お手紙に書いてあることは一つもない。お父様は公私を分けることができる性格らしい。お手紙には、わたしへの無償の愛が綴られている。船の模型の話や、新しい雑貨の話がほとんどだ。ノースアロライナは経済成長期なので、他領からの行商人も多く集まっている。つまり、ウラフリータの目を惹くような、珍しい雑貨が多く入ってきた。
お手紙と一緒にお父様からプレゼントされたもので、ウラフリータが嬉しかったのは、ビー玉のようなキラキラした丸いガラス細工と、トッテンハイム様が航海をするときに用いたという船の模型だ。部屋の棚には船の模型が並んでいる。ウラフリータは船が大好きだった。試験に合格すること以上に、プレゼントが嬉しかったということをお父様に伝えるのが、わたしの役目である。
お手紙を読み返しても、お父様はどのような人物なのか正確には判明しない。お手紙に書かれている娘に対する甘々文章と、フリタルトたちから聞かされている硬派で立派な貴族としてのお父様の人間性はあまり一致しないのだ。やはり、公私を分ける性格で間違いないだろう。
今日の家族の夕食が、領主候補生としての試験を兼ねていることは周知の事実だ。お父様が公私を分ける性格なのだとしたら、私生活では娘に甘々でも、今日のような社交ではとても厳格な貴族としてふるまうと予想する。気を引き締めないと、ウラフリータが恥をかくことになる。
「試験と言っても、ご家族との夕食なのですから、楽しまないとむしろ失礼に当たりますよ。少なくとも、ドラゴ・ノースアロライナは今日の日を楽しみになさっていました。私が教育の報告をする際には、領地の収支報告よりも熱心に耳を傾けておいででした。ですので、ウラフリータ様もリラックスして、楽しんでください」
「心得ているわよ」
フリタルトに心構えの指導を受ける。始めから試験のつもりでテーブルを囲むのはたしかに失礼だ。あくまでも、家族と夕食を楽しむ。そのうえで、貴族としてのマナーを完璧にこなす。わたしの衣装に込められたメッセージも「今回の夕食を楽しみにしていました」というものだ。
お母様とのリハーサルのおかげで、貴族のマナーに関しては自信がついた。リハーサルではお母様から満点を頂いたと聞いている。貴族令嬢として模範的なお母様からの満点だ。自信がついて当然だし、お母様から満点を貰っておいて自信がないなんて思ったら、お母様に失礼だ。お腹も減ってきたし、自然体で夕食に臨むのが一番だろう。
時間になると、呼び出しがかかる。わたしは椅子から立ち上がり、側仕えに衣装を整えて貰ってから部屋を出る。ここからは、知識と経験とモルシーナだけが頼りだ。廊下を歩いていると、浮遊感に襲われる。緊張しているのを自覚する。わたしは大きく息を吐く。
「……ウラフリータ様、ご褒美は決められましたか?」
モルシーナはわたしが緊張していることを察して、楽しい話題で気を逸らしてくれる。ご褒美のことは忘れていた。この試験に合格したら、フリタルトからご褒美をもらえる。さて、どうしようか。
「まだ決まっていないの」
「わたくし、ウラフリータ様がご褒美を何にするか、とても楽しみでございます」
「どうして?」
わたしがご褒美に何を選ぶのかというのが、モルシーナに関係があるのだろうか。
「あら。分からないのですか。筆頭側仕えとして、ウラフリータ様の趣味趣向を把握することはやりがいでございますのよ。ですから、ウラフリータ様がご褒美に何を望まれるのか知りたいのです」
「そうなのね」
雑談をしている間に、食堂に辿り着いた。習ったことをこなすだけ。変に緊張する必要はない。使用人が扉を開けて、モルシーナから先に入る。扉の先に控えたモルシーナを確認してから、わたしも入室する。
食堂にはすでに家族が集まっていた。ウラフリータのお母様、フランマーズ。二つ年上の異母兄弟、ディオランテお兄様。第一夫人のヨーナリーゼ様。そして、ドラゴ・ノースアロライナにして、ウラフリータのお父様、ソークリフト。
お父様はお誕生日席に座っていた。ヨーナリーゼ様と、ディオランテが並んで座る。お母様の隣が空席になっている。そこがわたしの席だ。席に座る前にお父様に挨拶をする。朝、窓から遠目に見えた姿と同じだ。長い金髪の男性。近づくと、キリっとした表情まで見える。結構そっくりだ。
「歓喜の竜アトカラシウルの導きがありますように」
「結ぶ」
第一関門は突破。アトカラシウルなんて絶妙に言い難い名前の竜が、お偉いさんとの挨拶で使われるのだから困る。日本の挨拶がいかに洗練されていたか。意識したことがなかったけど、ありがとうなんてとても言い易い。
モルシーナの手助けもあり、優雅な動きで自分の席に座ることに成功する。対面に座っているディオランテお兄様の顔が緊張しているようにも思える。ディオランテお兄様にも何か試験が課されているのだろうか。それても、わたしの着席があまりにも優雅で気を引き締めているのだろうか。
「久しぶりに声を聞いたぞウラフリータ。美しくなった」
「お父様、わたくしまだ六歳でございます。これからもっと美しくなりますよ。お母様のように可憐に、ヨーナリーゼ様のように嫋やかに、ディオランテお兄様のように立派な領主候補になるのです」
「まあ!」
わたしが外連味のある返答をすると、ヨーナリーゼ様が声を上げて喜んだ。お父様も満足そうに頷いている。どうやらヨモギの影響か、それともウラフリータの性分なのか、わたしは貴族的な言い回しがとても上手みたい。お兄様も感心したように目を丸めて、わたしを見ていた。
「ウラフリータは物語に登場するお姫様みたいですね」
ヨーナリーゼ様は目を輝かせて言う。そんなにわたしの返答が気に入ったのだろうか。物語に登場するお姫様に例えられても、本を読むのが禁止されている子供のわたしはこの世界の物語を知らない。物語のお姫様はどんな感じなのだろうか。シンデレラとか白雪姫とは違うのだろう。
「食事にしようか」
お父様の言葉で使用人が動き出す。言葉を発したお父様を見るフリをして、お母様の様子を確認する。娘が立派に受け答えをしていて、ホッとしている様子だ。まるで授業参観に来ている親みたい。やはり、どの世界でも、どの身分でも、親の本質は変わらないのだろう。わたしが知っている、親の姿がそこにはあった。
料理が運ばれてくる。マナーを守って、食事をする。対面に座っているお兄様も完璧に貴族の食事をこなしている。食事のマナーに関して思い出せないことがあったとしても、カンニングはいつでもできた。簡単な試験だった。フリタルトやモルシーナを筆頭に、側仕えたちが難しく考えすぎているだけだ。
それとも普通の六歳には難しいのだろうか。
「っあ」
出されたサラダ料理のなかにナッツのような木の実が含まれていた。思わず声が出る。声は誰にも聞こえていなかった。そのくらい小さな呟きだ。ヨモギはピーナッツアレルギーだった。食べると、じんましんなどの症状が出る。
しかし、今はウラフリータの身体だ。ウラフリータの記憶を探る。ナッツを口にした記憶はいくつもある。症状はもちろん出ていない。わたしは、サラダを口に含んだ。シャキシャキとした感触のなかに、ナッツの歯ごたえを感じる。咀嚼して、嚥下する。
身体に変化はなかった。
自分がウラフリータであることを嫌でも自覚する。もうヨモギではなかった。すると涙が流れた。わたしは必死に涙を隠したけど、ディオランテお兄様にだけは見られていた。ナイショだよと目配せをする。お兄様は頷いてくれた。
◇◇◇
白い紙の束がある。見た目で数は分からない。数百枚だろうか。本というのは、そのくらいの枚数の紙の束だ。紙の束をモルシーナは触る。紙の束の、一番上の紙には、何も書かれていない。白い紙だ。白い紙を持ち上げて、裏を見る。裏には、端っこに小さく丸が書かれている。丸は数字のゼロだった。
モルシーナは丸が書かれた紙を、紙の束の横に置く。丸が書かれた紙の下には、文字でビッシリと埋まった紙があった。綺麗な文字だ。こんなに綺麗な文字を書く人をモルシーナは知らない。文字は横書きに揃えられて、文章になっていた。その文章をモルシーナは読んだ。
『ヨモギは生きていた』
「モルシーナ?」
美しい声がして、モルシーナはベッドを振り返る。薄いレースカーテンの向こうに、上体を起こしたウラフリータが見えた。ベッドと身体に挟まれていた後ろ髪が、パラパラと流れるように落ちる。
「活力の竜テスコラッソの導きがありますように」
「……結びます」
「早いお目覚めですね。昨日はよく眠れましたか?」
龍神メテロノーレが顔を見せたばかりの時間だ。いつもよりウラフリータは早く起きた。いつもは、モルシーナが部屋の掃除を終わらせた後に起きてくる。そのくらいに起きたら、午前中の授業にちょうど良く間に合うのだ。
「どうやら眠りが浅かったみたい。昨日は遅くまで、本を書いていたの。おかげで、書きたいことは、いや書くべきことは書き切ることができた。モルシーナも読む?」
「はい」
モルシーナは頷いた。レースのカーテンを開ける。ウラフリータはニコニコしていた。基本的に、自分が書いた小説を読んでくれる人間が好きだった。ベッドから降りて、スリッパを履く。
朝食は部屋に運ばれてくるものを寝間着のまま食べる。魚を焼いたものに、甘いタレがかけられている。甘いタレをパンに付けて食べると美味しい。パンはパンプキンスープと甘いタレに交互に付けて食べる。
朝食を終えると、歯磨きをする。やっぱり歯磨きは苦手だった。ウラフリータはうがいをするときに、顔をしかめる。口の中で生まれた塩水を吐き出す。歯磨きの次は、着替えだ。寝間着から、授業用の服に着替える。服はウラフリータの身体に馴染んできた。ウラフリータの身体に馴染んだのは、服だけではない。
早く起きたから、時間があった。ウラフリータは自分が書いた小説を読んでいた。誤字を見つけた。細かい言い回しを変更したい。語る順番を入れ替えたい。パソコンなら簡単な作業も、この世界では一苦労だ。
小説を読んでいると授業の時間が迫る。机の鍵のついた引き出しに、紙の束を仕舞う。客間に向かうと、すでにアリスローゼがいた。挨拶を結んで、自分の席に座る。フリタルトが来るまで、アリスローゼと雑談をする。試験の合格を祝ってくれた。
時間ピッタリにフリタルトはやってくる。挨拶を結んで、授業の前に、試験の話になる。フリタルトと同じ時間にやって来たテスタートが、木剣を持っていた。アリスローゼへのご褒美だ。アリスローゼはテスタートから木剣を受け取った。
「ウラフリータ様、ご褒美を何にするかは決められましたか?」
「ええ、もちろん」
わたしはこの世界でウラフリータとして生きていく。
ヨモギの分も、しっかり生きる。
「わたしのための船が欲しい。模型じゃなくて、本物の船。今は水が怖いけど、わたしは船が好きだから。わたしのための船に乗って、海の上で小説を書くの。そうね、今度は船の小説を書きましょう」
グッド・バイ。
ヨモギ。
また来世で会えたらいいね。
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