第3話 目標とご褒美
マッチに火を着けるのが怖かった。
摩擦という概念も知らない頃の話だったと思う。
ウラフリータよりはその頃の方が年上だったはずだ。
いつの間にかわたしは、平気で火を着けるようになった。
焼肉で昇った火柱を見て、笑ったのを覚えている。
理科で原理を理解し、家庭科で使い方を学んだ。
わたしはきっと、教育で火を克服した。
◇◇◇
毛のついた棒に塩を乗せて、口に咥える。
この世界の歯磨き。
目を瞑って、コップに入った水を口に含む。
口のなかで塩水ができる。
最悪の気分だ。
スライムに向かって、塩水を吐き出す。
今日から英才教育が始まる。
初日ということで、わたしはフォーマルな格好をする。
貴族院の制服を模しているらしい。
わたしの部屋には、隣にある客間へのドアがついていた。
廊下を通らなくても直接向かうことができる。
客間という名前がついているが、実態は勉強部屋である。わたしの部屋と同じくらいの広さだった。黒板、というか緑色の板が用意されていて、その板を中心に、教卓が一つ、子供用の勉強机が二つ置かれている。
わたしは右側の席に座った。窓から離れている方だ。廊下側の席とも言える。窓の外には海が見える。できるだけ遠い方が良い。長時間の勉強でも身体が痛くならないように、フカフカの椅子が用意されていた。しばらく待っていると、チリンチリンと来客のベルが鳴らされる。モルシーナが応じて、ドアを開く。
赤い髪の少女がいた。
「アリスローゼです。竜のご加護がありますように」
「結びます」
赤い髪の少女アリスローゼは、緊張した面持ちでわたしに挨拶をした。「竜のご加護がありますように」というのは日本語なら『よろしくおねがいします』という意味の言葉だ。発音が拙いところがあり、言い慣れてなさが伝わる。この日のために、一生懸命練習してきたみたいだ。
もちろん、あらかじめモルシーナから最低限の情報は受け取っている。アリスローゼは騎士団長の娘であり、上級貴族の出身だ。騎士団長の娘よりも身分が高い貴族は、それこそ領主一族しかいないのではないだろうか。
アリスローゼはわたしの隣の席に座った。
「今日からお二人はご学友です。お二人が中央学園の貴族院に入られるときも、ノースアロライナでの祭事、政治、社交に関わるようになってからも、お二人の主従関係は続きます。ウラフリータ様は主として、アリスローゼ様は従者として、立派にご勉学に励まれますよう、わたくしモルシーナは心より願っております」
モルシーナの言葉に、背筋が伸びる思いだ。
わたしとアリスローゼの挨拶が終わると、また、チリンチリンと来客を知らせるベルが鳴る。モルシーナが対応してドアを開けると、背中を丸めた青髪の男性と、背の高い黒髪の青年が入室する。
事前に聞かされていた段取りの通りだ。
真面目そうな青髪の中年が家庭教師で、軽薄そうな黒髪の青年が護衛騎士だ。
「今日からお二人の家庭教師を務めます。フリタルトでございます。ウラフリータ様、アリスローゼ様との出会いに際しまして、竜のご加護がありますように」
「結びます」
家庭教師のフリタルトの挨拶は、わたしとアリスローゼ、二人に向けられたものだったけど、結びの言葉は身分が高いわたしが口にする。ウラフリータの記憶と、モルシーナとの予習のおかげか、ここまでスラスラできている。
それにしても、フリタルトは家庭教師と名乗ったが、このお屋敷が家庭なのはわたしだけで、アリスローゼにとっては家庭ではなく、フリタルトはお友達の家教師だと思う。これも結びの挨拶と同じで、身分の高いわたしの方に合わせるのだろうか。
「ウラフリータ様の護衛騎士を務めます。テスタートです。若輩者ではございますが、竜のご加護がありますように」
「結びます」
ウラフリータもヨモギも、細かいことが気になる性分なので、わたしはテスタートが言った若輩者という言葉に引っ掛かる。自分よりも年下に向かって、へりくだるときに、若輩者という言葉を使うべきではないような気がする。皮肉に聞こえなくもない。
「テスタート、貴方は自分を若輩者とは言いますが、わたしたちは貴方よりも年下です。そのように、年齢を用いてへりくだるような相手ではないと思いますよ」
「それは、失礼しました。騎士団での性分が抜けなくて」
「未熟者、駆け出し、うーん。ちょうど良い言葉は、思いつきません。フリタルト先生。さっそくお仕事です。若い騎士が、主人に挨拶をするときに、適切な言葉はありますか?」
ウラフリータの記憶を除いても、幼い語彙力しかないので、正解が見つからない。こういうときに教師がいてくれると、とても助かる。というかそもそも、本を自由に読むことができれば、自分で調べるんだけどね。
テスタートの身分も、事前にモルシーナから情報を得ている。下級貴族の出身だが、先の政変によって武功を上げ、わたしの護衛騎士としての地位を望んだらしい。魔力は少ないが、剣の扱いならば騎士団の中でも群を抜いて上手く、護衛任務においてはこれほどの適任はいないというのが、テスタートだった。
モルシーナとは年齢が同じで、貴族院では仲良くしていたらしい。モルシーナは何も言っていなかったけど、恋愛小説を書いてきた架空恋愛マスターのヨモギの意見としては、テスタートがわたしの護衛騎士の身分を望んだのは、モルシーナに近づくためだね。
テスタートはモルシーナに恋心を抱いているはずだ。そんなことを考えていると、ウラフリータとしての身体がキャーキャー騒いでいる感覚がある。女の子なんだから、こういう恋愛話が好きなのは当然だ。ヨモギとしての心も、ただの妄想を喜んでくれて嬉しい限りである。前の世界でお兄ちゃんが、わたしが書いた小説を読んでくれたときと似た感覚だ。
「へりくだる必要はないでしょう。単に忠誠を示せばいいのです。竜のご加護を願うのではなく、守護の竜ドルシラータの導きを願うのです」
「なるほど」
テスタートはわたしの机の横で片膝をついた。モルシーナに「左手を差し出してください」と言われたので、椅子の上で回転して、テスタートに向き合ったあと、スッと左手を差し出した。テスタートはわたしの左手を受けとり、手の甲におでこを付けるように、頭を垂れる。
「ウラフリータ様に忠誠を誓います。守護の竜ドルシラータの導きがありますように」
「結びます」
物語の登場人物になったみたいで、ちょっとだけドキドキしながら結びの言葉を口にする。挨拶を終えたテスタートは部屋の端っこに移動した。端っこというのは、モルシーナの隣である。二人で並んで椅子に座っている。
テスタートはこれを狙っていたに違いない。
ウラフリータもそうに違いないと頷いている。
「それでは、勉強を始める前に目標の設定と、ご褒美を決めましょう」
フリタルトは教卓の後ろに立つ。背中の丸さは、教卓に手を付くにはちょうどいいみたいだ。教師としての経験値の豊富さが伺える。フリタルトはウラフリータのお父さん、つまりは領主であるドラゴ・ノースアロライナの学友だった。これも、モルシーナから事前情報として聞かされている。
「この教育の大目標といたしまして、ウラフリータ様に関しましては、ノースアロライナの未来を担う領主候補として何不自由なく、そして立派にお役目を務めあげられるような知見、通念、態度を得ることが目標でございます」
フリタルトの説明は、先日モルシーナに聞いたことの復唱になっていた。知見、通念、態度を得るとは、貴族としての常識を身に付けなさいということだ。これに関しては十九年生きたヨモギのアドバンテージが全く活かされない。
「短期目標といたしまして、ウラフリータ様は、ご家族とのご会食が目標になります。ドラゴ・ノースアロライナに対しての受け答えや、食事の際の作法などを覚えること、そして覚えたものを実際にやってみせることが、最初の試験になります」
「分かりました」
大目標も、短期目標もアリスローゼにはあまり関係がないようだ。彼女はわたしのモチベーターとしてここにいる。子供を教育するときに、ライバルがいる方がやる気が出る。きっと、異世界の貴族教育のノウハウなのだろう。
「では、ご家族とのお食事を立派に務められた際の、ご褒美を決めましょう。ウラフリータ様は何か欲しいものはありますか?」
「あの。わたくし、大量の紙とペンが欲しいのです。できれば、紙を綴じるものも一緒に」
「ウラフリータ様。紙やペンは勉学には必須です。褒美としてではなくても、大量に用意してありますので、ご自由にお使いください」
「え!」
まさかの言葉が返ってきた。
こういう異世界って、紙なんか高級品だろうと思っていたけど、大量に用意できるらしい。
紙を量産できる設備があるのか、それとも、高級品なんてお構いなしに大量に用意できるくらい領主というのはお金持ちなのか分からないけど、どちらにせよ朗報だ。これでこの世界の文字さえ覚えたら、小説を書くことができる。
「大量の紙とペンを何に使うのですか?」
使用用途を疑問に思ったフリタルトが、質問をしてくる。
こういうときの言い訳は考えてある。
「わたくし、10日眠っている間に夢を見ていたのです。その夢の内容を忘れないうちに、書き記したいのです」
「なるほど夢日記ですか」
この世界にも夢日記はあるみたいだ。
龍王書記という、およそ『記紀』や『聖書』のような文献が、文化形成に大きな影響を与えているようだし、ことばによる表現や、学問は栄えて、ちゃんとした文学があるのかもしれない。
「文字の訓練にもなるので、とてもいいと思って」
「そうですね。しかし、ご褒美は何か別のものをお考えください」
別の何かと言われても、この世界のことをあまり知らない。
何があるのか分からないから、ご褒美はパッと思いつかない。
興味があるのはノースアロライナ名物の温泉くらいだけど、生憎わたしは水恐怖症だ。
ウラフリータとして目覚めてから、お屋敷の外に出たことがない。
本も読ませてもらえないので、ワクワクするような異世界のものを何も知らない。
窓の外に見えたドラゴンは気になるけど、生き物をご褒美扱いするのは嫌だ。
水恐怖症だと自覚してからは、窓の外すら見ていない。
わたしの部屋からも、遠くに海が見えるのだ。
「思いつかないので、あとでいいですか?」
「それでは目標を達成したときに、また改めてお聞きしましょう。さて、アリスローゼはどうしますか?」
「わたしにもくだささるのですか?」
アリスローゼは驚いた顔をする。
目標はないけど、ご褒美はあるらしい。それか、アリスローゼの目標は、わたしがいる場所では言えない目標なのだろう。
「もちろん。あなたにも頑張ってもらわないと困りますからね」
「では、わたしでも扱える剣が欲しいです。模擬剣でも構いません」
「ほう。理由を聞かせてください」
「わたくし、兄のように立派な騎士になりたいのです」
可愛らしい見た目の女の子だけど、アリスローゼは騎士になりたいようだ。
アリスローゼの兄がどのような騎士なのか知らないけど、騎士団長の息子であることは知っているので、とても立派な騎士であるに違いない。それを目標にするアリスローゼは六歳にして、とてもしっかりとした夢を持っている。
「お父様はわたしにウラフリータ様の側仕えとしての役割を期待しているようですが、わたしはウラフリータ様を御守りする護衛騎士になりたいのです」
「ふむ。では、ご褒美は模擬の剣にしましょう。テスタート、子供用の騎士の剣があったはずですね?」
「はい。騎士団には自分の子供に、騎士の剣を模した、木でつくられている訓練用の剣を渡す習慣があります」
「結構。しかし、将来のことに関しては、御父上と相談して決めてください」
「はい!」
勉強を頑張れば模擬の剣が貰えることになって、アリスローゼは元気に返事をした。
ふむふむ。
わたしもご褒美に剣を貰おうかな。
素振りとかをしたら、良い運動になるだろうし、命の危険もちょくちょく感じるので自衛の意味も含めて帯刀するのも悪くない。ヨモギも執筆に詰まったら、近所のバッティングセンターでストレスを発散していたし、アリスローゼと一緒に剣の訓練をするのも、楽しそうだ。
「それでは、初回の授業を始めましょう。まずは、公用語の文字を覚えることからです。貴族の女性は、お手紙でやり取りをすることが多いです。その際、文字が読めない、書けないとなっては、貴族として恥ずかしい思いをすることになります。そうならないために、しっかりと勉強をしましょう」
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